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2009-05-01(Fri)

連れ合いが倒れた 17

5月1日(金)
夕べは猫たちと11時半ころに寝た。朝は6時目に目が覚めてしまい、そのまま起きる。

とうとう5月になった。

今日は穏やかに薄日が優しく射すいい陽気のようすだ。
京都は新緑が夏に向けて、萌葱色から少しずつ濃さを増していく、一番いい季節を迎える。桜の季節も雪景色も京都はいつも美しいが、年々雪は減り、桜はほんの一瞬だ。だから、紅葉の時期と、毎年ゴールデンウイークが開けて観光客の大波が去り、入梅前までが、俺たち夫婦が一番好きな季節だった。これからまた、その最高の季節がやってくる。

また三津子と散歩にでかけたかった。
もうそれらは叶わないと思うと、何だかこの京都の素晴らしい季節や風景が、とても残酷なようにも思えてくる。
写真の三津子に声をかけてから、二人が時々飲んでいたウコンドリンクを一本飲んだ。それからカーペンターズをかけて、溜まっていた片付けものを始めた。
いい天気だからベランダを開けて空気を入れ換え、淡々と整理を始めた。気持ちのいい風が入ってくる。東山も吉田山もこんもりと緑が綺麗で、気持ちが和む。叡電の踏切がカンカン鳴り、一両編成の電車がゴトンゴトンと通る…。
二人でいつもベランダに手をかけて並んで、山や空や町並みや通る人を眺めて、たくさん話したな。

やはり何かをしているとそれなりに気が紛れる。気合いを入れてどんどんゴミ出しをする。まるで遺品整理のようだから、あの人のものはまだ捨てられない。お昼に長女のももちゃんにも電話した。みんな帰ってしまったので、次女のゆうちゃんとだけ連絡を取ってゆうちゃんから伝えてもらうのは、同じ三津子の子供なのに不公平だし失礼だ。
ももちゃんは勤務先でお昼に入るからかけ直す、という。少し経って「速攻で食べたから大丈夫」というので、昨日の様子からいろいろ話した。

思えば二人ともまだ小学生の頃に俺たちは知り合い、長女のももちゃんが中1になる頃には、もう同居していた。あの狭い団地で肩寄せ合って暮らしていた一家に、俺は「父親にはなれないから」と言って『ママの恋人』として、参加させてもらった。4人でこれから俺を「何て呼べばいいか」と相談した。もちろん、それまで遊びに行った時やソフトボールなどの時に呼ばれていたように「『ちかちゃん』でいい」ということになり、俺は家族に入れてもらったのだった。

あれからもう二十数年が経った。

二人とも結婚をして子を設けて母になった。ももちゃんは、気がつけば俺が出逢った時の三津子の年齢になろうとしている。ゆうちゃんはいつだったか、三津子が辛い状況に置かれているときのメールのやりとりの中で、当時(俺が団地で暮らすことになった頃)は子供たちとしても、正直けっこう複雑な心境もいろいろあったと言っていた。
そう、ドラマや作り話のように簡単な話ではなかった。立場や年齢の違った俺と三津子だってそうだし、子供たちとだって。俺たち3人も、一緒に「いろいろな山坂」を乗り越えてきた。そのことをちゃんと知っている人は少ない、いや、俺たちたった4人しかいない。

1時半を過ぎた頃、Tシャツに長袖のワイシャツ一枚で外へ出た。
タクシーを拾うと運転手が「今日はほんま暑いですなぁ。30℃近くあるんちゃいます?」というので「ええっ!? ほんまですかぁ!?」と思わず聞き返してしまった。
「あ、30℃は大げさやな、でも26、7℃はある思いますよ」とのこと。
確かに街は半袖一枚の人も多く、車の中もむあっと暑い。暑がりの俺なのに、言われてようやく気付いた。あ、本当だ、暑いわ今日。これは気持ちの問題だろうか。

病院に着くと2時10分ほど前だったので、左手にあるコーヒーショップのカウンタに並ぶ。だんだん、食欲も出るようになってきた。
三津子が(何か食べないとダメよ)と言っている。
前の大雑把そうな子連れの若い夫婦が、がさつに店員を扱い、見苦しく下品な態度をしている。普段なら顔をしかめイライラするところだけど、
三津子が(怒っちゃダメ、体に障るよ)と言う。うんうん、大丈夫。

テーブルに座り、レタスドッグとアイスオレをゆっくり噛みしめて食べた。以前「出来たてはパンがサクッとしてうまいよ。」と、三津子に教えて一緒に食べたことがある。三津子は歯が良くなかったので、ソーセージが噛み切れず、むりやり引っ張ったら「スポッ」と脱けて二人で大笑いしたっけな…と思いつつ食べ終えた。

ICUに着いてインターフォンで名前を告げると、「ちょっとお待ちください」と言われた。しばらく耳を澄ましていたが応答がない。もう一回押してみたところで、なぜか看護婦さんが小走りに出て来て、
「すみません、こちらでちょっとお待ちいただけます?」と言われて中にある待合スペースに座ってるよう言われた。時計は2時5分頃だったが、何事だろう。

まさか…? いよいよ…とか、いや、ひょっとしたら何らかの反応でも…とか、ついいろいろと考えてしまう。

三津子が倒れたあの日、手術を待つ間に俺は待合室で奇跡を祈った。
「俺の命があと3年なら、半分あげますから1年半、あの人とまた一緒に暮らせるようにしてください。余命1年なら半年でいい、半年なら3ヶ月でもいい。とにかく、二人の時間をもう一度下さい」
と願い続けて、そうしてそれは叶わなかった。

だからもう、やめよう。
そう思って待っていると、数分で先ほどの看護婦さんが出て来て
「すいません、処置中なので、10分ほどお待ちいください」とすまなそうに笑顔で言われた。
しばらく待って、「すみませんお待たせして、どうぞ」と呼ばれたら、2時20分ころになっていた。
「容態は…変わらないですか?」と聞いたら、
「…はい、昨日とほとんど。」と言われる。

病室に入ると、三津子は体を少し横にして、窓の方、つまり向こう側を向いていた。千羽鶴は足元の方に移動していたが、ちゃんと飾ってくれてある。

ラジカセからはカーペンターズではなく、オルゴールの優しい音色で、音楽がかけられていた。その意味は解っている、二人の好きなカーペンターズは、もうわが家でかけているからだ。

「ちょっと出入りしますけど、どうぞ」と言われて、顔の方へ廻る。やっぱり顔が少しむくんでいるが、「おーい、もういいぞー」と声をかけ、目の周辺をタオルで拭き、唇にリップを塗り、頭をなで、そして右手をずっと握っていた。

変な話かも知れないが、人の肌には相性というものがあると思う。いわゆる抽象的な「肌が合う・合わない」もあるがそうではなく、物理的な意味でだ。と言ってもいやらしい意味でもない。
三津子の手と俺の手は、吸い付くようにお互いピタリとくっつく感覚で、それは知り合った頃から感じていた。もちろん恥ずかしいので余り自分から率先して握ったことはないし、このことを告げた覚えも残念ながらない。今は本当にいろいろ残念なことだらけだけど。
今はこうしてずっと手を握っていられる。やっぱりぴったりと手と手が合う感覚がある。

看護婦さんが何度か出入りして処置をしながら「学生さんからって、凄いですね!」と言うので
「凄いでしょう、いい先生だったからですよ」と言うと
「そうですねー。…漫画って、何を教えはるんです?」と直球で聞かれる。
「ええと…それはまあ技術とかお話の作り方とか、まあいろいろですねえ」と思わず苦笑した。三津子もいつも「やまだ紫」のことを聞かれて困っていた。毎回困るんだから模範解答を用意しておいても良さそうだが、なるほど、こうしてストレートに聞かれると説明に困る。
「教えらはる方もやっぱり漫画家さんなんですか?」というので「そうです」といったら「ええと、白取さん…?」というので「いえ、これがペンネームですよ」と千羽鶴につけてある、「やまだ紫」という名札を見せる。
「あ、やまだ紫…さん」という。
え、名札があるのに…と思ったら、そうだ、これは三津子が自分の胸につけていたやつなので、敬称がなく呼び捨てだ。それが千羽鶴に付いていたということは
「じゃあ『やまだ紫』という先生が、学生の千羽鶴を漫画家の『白取三津子さん』に届けてくれた、と思われたんですね?」と言うと
「そうですそうです!」と合点がいった様子で「これは勘違いしますよ」と看護婦さんに笑われる。
なので、「じゃあ今度『やまだ紫』どれくらい素晴らしい作品を描いていたか持って来ましょうか。夜勤の時とかに皆さんで読めるように」と言ったら
「ああ、それは嬉しいです! ぜひお願いします!」と大喜びされた。

少しでも多くの人に作品が触れれば、俺も嬉しい。大学病院に寄贈すれば、毎年新しい人もどんどん入ってきて入れ替わりも多いから、後世にも残るし、それが俺の本意でもある。明日にでも持ってくることにしよう。

その後看護婦さんは「日本の漫画って凄いですよねえ。何ていうか…色んなジャンルがあるし。大人でも読めるのもあるし」というので、
「この人の作品は大人の人が本当に深く感じ入るものが多いですよ」と話した。
「どういうのですか?」とこれまた直球なので、
「ええと…例えば週刊少年ナントカとかありますよね、ああいうのの対極のようなものですかねえ。詩的なものもあるし、とにかく読んでいただければ解りますから、持って来ます」と話す。

それから看護婦さんが出て行き、二人きりになれたので、手を握りながら顔を近付けて、諭すように話しかけた。

「もう本当にいいよ。
 あなたが時間をくれたお陰で、
 こうしてだんだんと立ち直ることが出来つつある。
 だから、もう頑張るな。
 聞こえてるんでしょ?
 この体の中にいるんじゃなくて、どこからか見てる?
 それとも俺から見えないようにわざと後ろにいるのかい?
 全てが済んだらはっきり解るようにしてくれるんだね? 
 とにかく、もうここへは戻らなくていい。
 早く体から離れて、俺と一緒に帰ろう。」

今日は、泣かなかった。
三津子の「肉体」はまだ生かされている。
ということは、まだそのことにきっと何らかの意味があるのだろう。

病院の玄関に出て、お姉さんに報告の電話を入れた。
お姉さんは、お母さんの昨日の様子を「白取さんは気にしないでいいのよ」と言ってくれる。そうして、あさってから今度はお姉さんと二人でまた京都に来る、とのことだった。
ああ、そうなのか。それでまだ…。

それからタクシーに乗り、自宅近くのスーパーでおろしてもらって小物を買い、コンビニで夕飯や飲み物を買って4時前に帰宅した。日差しがまぶしく、そして何よりも、暑い。ようやく暑さを体感できる精神状態に戻ったのか。食欲も戻りつつある。
突然に連れ合いである三津子を失う…という余りにも大きな衝撃に、体が一時的にショック状態になっていたのだろう。

唐突だが、この記録は決してお涙頂戴で書いているのではないことを、ご理解いただきたい。

たくさんのご心配をおかけしている方々への報告が義務だと思っているし、もちろん、このことで自分を癒しているわけでもある。
それはつまり一人の男が「愛する人を失う」という最大の苦痛のどん底から立ち直っていく様子を、例えば精神医学的に、メンタルケアの現実例、参考例としても、とにかく残しておけば何らかのお役に立てるはずだ。
どうだい三津子さん、俺はここまで立ち直ったぞ。


家に着いてから、ゆうちゃんにもメールで今日の容態を報告。
それから二度もご飯を届けていただいた、「明青」のおかあさんの携帯にも電話をした。

おかあさんに「本当にご厚意に甘えてばかりで、すみませんでした。ありがとうございました。でも、もう立ち直りつつあります。ゆっくりですけど、もう大丈夫ですから」と伝える。
おかあさんも「本当〜? 奥さんもね、きっと白取さんがそうやって立ち直るための時間をくれはったんやと思うわ。ほんっまに、いっつも心配してたもの〜」と言われる。

本当に、その通りだと思う。

 もし、あれ…時限爆弾の炸裂が家のベッドではなく、
 一人で買い物に行っていた時だったら。
 外を歩いていた時だったら。
 信号や踏切を渡っている時だったら。
俺は「奥さんが亡くなられました」という連絡を、「事後」に他人からもらうことになる。
もしそうだったとしたら、俺はいきなりに「最愛の人の死」に直面させられていた。
目の前にあるのは「モノだ」という心境には到底達する時間はなかっただろう。
三津子の死をずっと受け入れられなかっただろう。

あの人がかつてもし俺が先に死んだら、自分は「ヌケガラになる」と言っていたように、俺もヌケガラのようになって、毎日三津子の来ていた服を抱き、オイオイ泣き暮らし、そうして後を追っていたかも知れない。かも知れない、ではなくきっとそうしていたはずだ。

だから、三津子はゆっくりと、自分の死を受け入れる時間を俺に与えてくれている。いや、俺だけではなく、子供たちや母親や姉、その他のみんなにも。
そして俺は、少しずつ少しずつ、実際に受け入れつつあるのだ。
「明青」さんのおかあさんにも、そのことを伝えて
「いつになるか解りませんが、写真を持って二人でまた飲みに行きますよ。必ず」とお伝えし、ご主人にもくれぐれもよろしくとお願いした。

いつもはメールをあちこちに打つの大変だから「ももちゃんには伝えておくから」とゆうちゃんに言われて甘えていたが、何度も言うようにそれは「不公平」だ。
三津子はいつも母として「ふたりの子供を公平に扱う」ということを絶対的なルールとして自分に課してきた。
東京からちょっと離れているという地理的なものもあって、長女であるももちゃんの家族とは確かに、次女のゆうちゃん一家ほど密には会えないようにはなっていた。それに、細かい感情の行き違いだって、それは親子なんだから当然あった。
でも、どちらも親・子なんだから、どちらも三津子の子供だし、三津子は「差別」「ひいき」「分け隔て」を嫌っていた。
「自分がされて嫌なことは、しない」のだから、俺がちゃんとしよう。そう思ってももちゃんにもメールで今日の様子を報告した。

そうしたら、不思議なことがあったそうだ。
ももちゃんによると、YM(三津子の孫、男児)が普段使ってない部屋の押し入れから突然普段使っていないオモチャを引っ張り出してきたというが、それは三津子が送ってあげたテレビゲームだったという。
俺たち二人で選んだので俺も覚えている。カーペンターズの話も聞いたのだろう、「ママはあっちこっちにいるんだね」と言っていた。

それから「俺が救えなかった」のではなく、俺の側にいた三津子が、俺が「気付いた」時に、神様が連れて行ったのだと言ってくれた。
「死」とは「人生のカリキュラムからの卒業」である、と。

やっぱり「やまだ紫」の子だ。三津子、聞こえているね。

自分の命をかけて、あの人は俺という人間の「ステージ」を高いところへ引き上げようとしてくれたのだろう。生きているうちに、全てを悟り、「気付く」人はなかなかいない。だから、人は宗教に頼り、祈り、修行をする。
俺も人生は苦行であると、ずっと思っていた。苦労ばっかりだと。
三津子が病気やさまざまなことで苦しめられたり悲しんだりしているのを、俺はさんざん、側で見て来た。そして今も助けられなかったことを後悔し、何でこんな目に…と何かを憎み怒ること、そういうことの連続だ。

実際にももちゃんと俺も、些細な誤解ですれ違うこともあった。けれど、三津子はそのことで俺が怒る前に、自分が「怒ってみせること」で、俺の怒りを先回りしてフタをしようとした。そして彼女が命をかけて、氷解させ気付かせてくれた。

自分の命をかけて、他者の魂を高いところへ引き上げる。
これほどの強い「愛」があるのか。
本当にそういうことを実践できる人間がこの世にいて、その人の側に居られたこと、愛された幸福を、俺は感謝しなければならないと思う。
ダラダラと「気付き」のないままに過ごしていたら、俺は三津子と同じステージへはたどり着けなかっただろう。俺が高いステージへ自分で駆け上がることが不可能だったとしたら、二人が願ったように「死んでも一緒に」は居られない。だから、あの人は命をかけたのか。

凄い人だ。

だから、これからは俺も三津子が逝く世界へ一緒に行けるような人間にならなければいけない。
そうなった時に、きっと彼女が笑顔で俺を迎えにくるに違いない。いや、そう決めた。
他人が笑おうが、何も知らない人に「何だコイツ」と思われようが、別に気にしない。
そのことで自分がまた一歩三津子に近づけると思えばいい。

メールのやりとりで「いつか3人でママの思い出話をしながら、おいしいものを食べよう!」ということにする。
「ママをたくさん愛してくれてありがとうね」とももちゃんに言われた。
今日初めて、滂沱の涙が出た。

いや、これはうれし涙だから、許してくれ。
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
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