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2009-05-02(Sat)

連れ合いが倒れた 19

(15:35、病院から戻る)
結局お昼は家では食べず、ももちゃんに渡す連れ合い=三津子の写真の額と、ずっとつけていた腕時計、いつも振りかけていたお香入れを袋に入れて、マンションを出た。いい天気で気持ちがいい。
タクシーで病院に着いたのは13時ちょい。連休前は、任○堂の会長からの数十億の寄付で建てられるという癌研の工事でもの凄い騒音だったが、今日は病院も閑散としたものだ。お昼はまた、レタスドッグとアイスオレにした。
(あなたそれ好きねえ…)
2人掛けの小さなテーブルの向かいで、三津子にいつもの笑顔で言われているような気がする。

食べ終わるとちょうど約束の1時半になり、入口脇の椅子に移動して、そこにいるとメール。すぐそこでは小さな男の子を連れた母親とそのまた母親らしい3人連れ。子供の声は野放図に大きく椅子の上に靴のまま上がっても注意もしない。
いつもなら睨み付けたり注意したくなるところだけど、
(怒らない怒らない。体に悪いよ)と言われてる気持ちで淡々と待った。
そうだ、言われてる気持ちではなく「言われている」のだった。うんうん、もう怒らない。君の前で眉をひそめたり顔をしかめたり怒ったり、もう絶対にしない。

程なく、ももちゃんと旦那のT君と合流できた。
「遠いところ、ありがとうね」と挨拶をして、「ここはうるさいから(工事騒音はないが子供が笑)、上へ行こう」と言っていったん移動することにした。
ICUからの移動は1時半だけど、まずCTをもう一度撮り、それから病室へ移動して、セッティングや処置があるから、2時くらいに行けば落ち着いているだろう…という判断だ。
エントランスホールを見下ろすような形で、2階の採血受付の前に椅子やソファセットが並んでいるスペースがあり、そこは落ち着けるから…と階段を上っていったら、上がりきったところにシャッターが降ろされていた。休日なので閉めているらしいが、シャッターの手前にかろうじて、1組だけソファセットが取り残されている。
まるで誰かに「ここへどうぞ」と言われたようなスペースだった。

そこに3人で腰を下ろし、いったん落ち着いた。「わざわざどうも」「いえ」みたいな型通りの挨拶はそこそこにして、涙なく
「残念だし悲しいけど、一人の時とかね、こっちがいない時に突然…というのだったらと思うと。お別れの時間と、受け入れる時間を貰ったと思わなきゃね…」と話す。
そして、持って来たデジカメで旅行の時の楽しかった写真などを見せた。三津子の心からの笑顔がいっぱいの最後の旅行の写真。二人で旅に出ても、お互いにお互いの写真を撮るばかりで、二人の写真はなかなかない。
俺たちは、同じように楽しんでいる他人の時間を「写真いいですか」と奪うことを、なかなか出来なかった。俺たちは頼まれればしっかり「念のためもう1枚」なんて構図を変えたりして快く写してあげていたけれど、こちらが頼んで嫌な顔をされたり断られたりしたこともあって、そんな嫌な思いをするのを最初から予防するという意味もあった。
本当はいつも二人で腕を組んで撮りたかっただろう。心なしか、一人で写っている三津子の顔は、いつも寂しそうか、困ったような顔が多い気がする。

でも、この旅行は本当に、楽しかったよ。500円玉貯金を二人でコツコツみごとに30万円も貯めて、目いっぱい贅沢をして、豪華な旅行をしたんだよ。観光タクシーをチャーターして、あちこち廻ってもらったりして。
ももちゃんは「それで二人の写真もあるんだね」と笑顔だ。
「いい笑顔でしょ、大仏殿の前のなんか、文字通り、西日があたって…輝いてるでしょ」と言うと泣きそうになったので、グッとこらえた。

そういえば「カーペンターズ」はももちゃん夫婦の前でも、もちろん流れたという。
「あちこちにママ、行ってるよね」みんな笑顔で語り合った。
でも、俺が今朝のシンクロニシティの話をももちゃんに
「…朝、ママの写真を立てて、服を抱いていたら突然…」
アンジェラ・アキの唄『愛の季節』の、ちょうど「その歌詞」が被さったという話をしたら、どうしようもなく涙が出て来た。嗚咽が混じり声が震える。ダメだ、三津子に怒られる。

するとその時、俺たちが座っているソファの脇の階段を、無表情なオバハンがすた、すた、すた…と上がってくる。3人とも目が点になる。もちろん階段を上りきったところにはシャッターが降りており、ソファには我々が座っているだけだ。オバハンはシャッターの手前まで来ると、無言のまま「!」という顔をすると、ゆっくり廻れ右をして、すた、すた…と引き返していった。全て同じペースで。
思わず3人で顔を見合わせて吹き出してしまった。
俺が「ママ、笑かしてくれたな」と言うと、ももちゃんも「やってくれるよね」と笑った。
俺が泣き出したので
(ダメダメ、泣いちゃ。ほれ!)
と言ってオバハンを見せてくれたのか。それにしてもユーモラスというか爆笑コントのような光景だった。

三津子は何度も辛い入院生活を繰り返してきたけれど、こういうユーモアセンスでカラ元気を出しては、周りを笑わせてくれたものだ。同室のお婆さんが氷を食べたいとわがままを言う時に、「かーんごーふさーん」とリズム良く呼ぶ節回しを真似て、あいの手まで入れて笑わせてくれた。
笑顔でいなきゃ、駄目だ。

2時になったので、「そろそろ行こうか」と病棟へ向かう。エレベータの脇の案内図を見ると「脳神経外科」は2階と書いてあったのを見て、エレベータを待り、2階で降りる。ナースステーションで「今日ICUから移動になった白取ですが」と聞くと、「え…?」と戸惑われたので、アレと思って説明すると、1Fですよと言われた。
おかしいな、案内板にあったのに…と思いつつ階段を降りて、すぐ脇を見たら両開きの扉があって「脳神経外科」とデカい字で書いてある。話はすぐ通り、「こちらです」と案内されたのは、ナースステーションからすぐの「115」号室だった。
入ろうとしたら、別の一家と患者が見えた。「アレ」と思ったら、「115は2つになってまして、こっちの方ですね」と言われる。何かちょっと妨害されてないだろうか。
(もう『肉体』は見に来なくてもいいよ)と。
個室と聞いていたが「115−1」と「115−2」に分けられていて、真ん中がアコーディオンカーテンで仕切られているだけだった。個室ではなく実質2人部屋である。「115(いい子)だって」と言いながら3人で入る。隣の声が筒抜けだし、ということはこちらの声も同様だ。うるさいと気にする意識もないことが幸いだろう。

「ももちゃんとT君来たよ」と言って、囲む。すでに移動もそれに伴う処置もほぼ終えてくれており、三津子は先ほどと変わらず、規則正しい呼吸をさせられている。目や唇の周りが光っていて、涙やよだれかと思って拭おうとしたら、それは乾かないように塗ってもらっている、グリースのような油分だった。
処置をしてくれたり、椅子を持ってきてくれた男女二名のナースと挨拶を交わし、移動してくれていた荷物(…といっても小袋一つだが)から写真立てを取り出し、冷蔵庫の上に立てた。女性ナースが「あ、お写真持って来て下さったんですねー」と笑顔。
すぐ若いF先生が来て、「これからじゃあご説明がありますから、どうぞ…」と言われ、すぐにA先生が来て病棟の並びにある個室で、撮ったばかりの脳CTの画像を見せていただき、説明を受ける。

やはり、結果は変わらない。解っていた、知っていたが残酷な画像だ。
詳しくはもう、記したくない。
俺はもうじゅうぶん説明を伺っていたので、頷きながらほぼ聞いており、A先生はもっぱらももちゃんの方を見て説明をされた。あとは「ご本人さんの運命」ということで…。

ももちゃんは俺を勇気づけようといつも気丈に振る舞ってくれていたが、こうした残酷な画像を見て説明を受けたのはやはりショックだったようだ。ハンカチを手に、鼻をすすりながら黙って頷いて聞いている。
こちらから多少の質問をいくつかしたものの、それはまあ要するに解っていることの「確認」に過ぎない。そして結果も変わらない。
10〜15分ほどで説明は終わり、お礼を言って病室へ戻る。担当のナース(女性)に明日持って来て欲しいものなどを伺ったりした後、椅子に腰掛けて三津子を囲む。
もう、ここにいる俺たちも十分解っているし、ももちゃんに解らせてもらったこともあるし、みんな同じ気持ちだ。だけどやっぱり「肉体」がまだ滅びずに存在していると、どうしても寝ているように思えてしまうし、奇跡を望む気持ちになりかけるから、皆で
「ここにいるように思っちゃダメだよね。ママは外から今これを見ているから」と話す。けれど「でもやっぱり明日バァ(三津子の母)が来るから、まだ逝けないんだよね…」とも話す。その気持ちも、解る。
しばらく、もう涙を見せずに、思い出話や、京都へ来られて良かった、お別れも出来て良かったという話もした。そして、本当にお別れをしてもらう。

「最後に握手してやって」とT君にも促すと、T君は「ハイ」と素直に笑顔で三津子の手を軽く握った。
ももちゃんも目を真っ赤にしながらではあるが、「じゃね、ママ。バイバイ」と言う。
T君は立ったまま軽く会釈をしたので、俺が「ホレ、ちゃんとせい!」と言って肩を軽く叩くと、腰を折って最敬礼した。
そのシャツの襟首に「M」というサイズシールが貼ってあるのをももちゃんが見つけて、笑いながら「ママ、貼ったな」と言って取った。T君は「あ、ついたままだったコレ」とバツの悪そうな顔をした。
だから、みんなが笑顔での別れになった。
(これは本当の話だ。下手な脚本家のドラマではない真実なのだ)

病院の前で、「どうする? お茶でも…飲む?」と顔を見合わせたが、新幹線の切符もあるしあまり遅くなってもと思い、ここで別れようという話になった。

俺が「次は…辛い場になるけど、よろしくね」と言うとももちゃんは「大丈夫だよ。頑張ろう」と言ってくれた。そうして「これ食べてください、酢飯なので夜まで持ちますから」と言ってT君が鯛飯をくれた。お礼を言い、タクシーに先に乗せられ、手を振って別れた。3時半少し前だった。
…本当に、次は辛い場で会わねばならない。いや、辛いのではないな、安堵と新しい俺たち二人の生活のスタートだ。

家へはアッという間に到着した。
ももちゃんに「着いた、速いだろう」とメールすると「はやっっ!、また今度ゆっくりね」と返された。お礼のやりとりの中で、また色々励まされる。
ももちゃんは三津子の娘だけど、もう立派な母親だし大人になっていた。
「家族なんだから、みんなで助け合おう!」と言ってくれたのが嬉しい。

三津子、あなたは本当にいい子たちを育ててくれたんだね。小さな体で歯を食いしばり、頑張り抜いて命を賭けて。感謝しても感謝しても、し切れないほどの気持ちで胸が詰まる…。



17:01
…なるほどなあ。深い溜息が出た。
三津子のため、「やまだ紫」のため、二人のため…と言いつつ「自分が乗り越えるため」にこの記録を狂気じみたスピードで続けている。(自分で狂気じみていると思えているので、オツムは大丈夫だ)
しかし、ともすればやはり気持ちは三津子へと向かう。
病院で今寝ている三津子の体は、三津子であって三津子ではもう、ない。魂はもう、そこに縛られてはいない。
しかし縛ろう、そこに居続けて欲しいと引き留める魂が、縛ろうとするのか…。

そのことへの三津子自身の回答があった。

記録を打ちつつ、途中で「そういえば一緒に画材店へ行った時に、二人で『これ可愛いね』と言って猫の写真を入れようと買った小さな額があったな…。そう思って探したらすぐ見つかったので、そのまま三津子の写真をプリントして、3つの額に入れた。家中をあなたの写真で埋め尽くしたい。あなたのいない寂しさを、この空間をせめて写真で一杯にしたい。
バカバカしい、少女漫画か(失礼)お前は、と思われてもいい、だってこれは本心からそう思っているからだ。パソコンの周辺、視線を向ければすぐそこに彼女の笑顔が見えるようにした。
そうして、肩肘をつき何気なく彼女が綴ったブログの記事を、最後の記事から遡っていく。一年前まで来ると、文章もずいぶん長いししっかりしている。

そうしていくうちに、「みぞれ雪」という記事に当たった。
そこの記述を見てガンと打たれたような気持ちになった。

これまでの人生を振り返り、色々なことがあったけれども

 私は死ぬまで学びを続けたいと思っている。
 たとえ死の床について
 脳死のような状態になったときも
 魂が体から抜けてもだ。

と書いてある。

彼女は自分の運命=寿命を、理性ではなくその「魂」で知っていたのだろうか…。

そうなんだね、やっぱり君の魂はもう体から脱けているんだね。
まるで遺される者たちを癒すために残したような「ことば」に、彼女の魂の崇高さと潔さを感じる。
ありがとう。やっぱり、あなたは凄い人だったね。


この洪水、激流のような記録を全て読んで下さっている方が多くて、戴くメールやコメントに嬉しさとお礼の言葉もない感謝の気持ちで一杯です。

嫌なことも本当に多かった人生、でも二人で肩を寄せ合い手を取り合って生きて来られたことを、今は素直に喜びたい。
今自分が生きている、いや生かされている奇跡へ、二人が出逢い一緒に愛し合って最後まで暮らせたことへの感謝を、ずっと忘れない。
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
やまだ紫クロニクル

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