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2009-05-03(Sun)

「最良の日々」

夕べは11時過ぎ、二階の寝室へ上がった。その前にリビングのフローリングの上で丸くなっていたユキが目を開けたので、(おいでおいで)の手話をするが、じっと見ているのに来ない。仕方なく電気を薄明かりにして、階段を上がると、隅っこの畳の上に置いてあるフリースの「猫つづら」の中で寝ていたシマがベッドに飛び乗ってきて喉を鳴らした。
あの猫つづらは、いつもシマが二人の間に割り込んでくるし、冬だったのもあるが、「ねぐらをちゃんと決めてやろうよ」と言って通販で買ったものだ。しかしシマは全くそこへ入る気を見せず、相変わらず俺たち夫婦の間、どちらか(俺が多かったが…)の肩にズシリと体重をかけて寝ていた。つづらは結局ベッドの足元に放置された。そこにどちらかが自発的に入って寝ているのを見たことは、ほとんどない。
枕元にも、夜に作った手のひらに載るほどの小さな額に入れた、三津子の笑顔の写真を置いた。「おやすみ、三津子」と声をかけて、電気を消した。

…あの思い出したくない、いやそれでも三津子の声を聞いた最期の夜。
「頭が痛い」「薬…」

あれからちょうど一週間が経った。

救急車。脳CTの写真。残酷な告知。ホンのわずかな奇跡に賭けた手術。そして絶望…

今でも、目を閉じるとこうしてフラッシュバックする。あの忌まわしい一連の光景を思い出すと、動悸がする。時間を戻したい、とも思った。けれども時間を戻し、寝る前の三津子を前にした俺は、「君の頭の中に時限爆弾がある。リミットはもうない、すぐ手術しよう!」と言って助けられたか。それは無理だ。
A先生にはもちろん、助けられただろうか、という話をさんざん伺っている。

「そういう脳の奥の血管奇形…あるいは血管障害などは、『まず手術できるかどうか』を判断するために、血管造影その他の精密検査をしなければなりません。
 仮に『できる』と判断した場合でも、とても高度な技術が必要ですし、もちろん万全の用意と体制をつくってからになりますが、成功するとは限りません。
 手術した結果、術中に命を落とされる方もたくさん、おられますし、手術の目的そのものは成功したとしても、脳ですから、命と重度な麻痺とが引き替えだったりということも多いです」

「それに、検査した結果、該当する部位が余りに脳の奥だったり、手術そのものが今の医学では不可能だという判断に至る場合も、たくさんあります。
 そういう場合は、もう爆弾を抱えたまま慎重に暮らしていただくしかありませんし、『残念です』といってお帰りになられた後、あちこち病院や医師を廻られたあとで、1年後に『亡くなりました』という悲しいご連絡をいただいたこともあります」

「ですから、ああすれば良かったこうすれば良かった、助けることが出来たかも知れない、そういうご家族のお気持ちは当然ですし、よく解ります。
 ですが、助かるのも亡くなるのも、これは皆さん人それぞれの運命やと思いますし、それは我々医師には解らないことなんです」

解っている、それは本当にその通りだと思う。もう、理屈では理解している。
三津子の頭の中にあった『爆弾』を発見することは、奇跡のような偶然が重なれば、出来たかも知れない。例えば去年の段階で精密検査のために入院をし、彼女がアレルギーを持つ造影剤とは違う方法で、ピンポイントで脳の血管撮影を精密に行って複数の医師の所見をいただく…とような形であれば。
そこでもし仮に発見できたという奇跡が一つ起こる。その上で、手術可能かどうかを調べたら可能だという奇跡が起きる。そうして手術をして、爆弾を除去できるという奇跡がまた重なる。さらにその上、重度の障害が残らなかったという奇跡が重なる。
そんなことは、ほぼ考えられないことだし、考えても詮ないことはじゅうぶん承知している。

一番近くにずっと一緒にいた俺が、あの夜、彼女が痛みを感じて目を覚ました瞬間に「脳内出血だ!」と天啓のようにひらめいて、救急車を瞬時に呼び、アッという間に病院へ搬送したとする。状況から緊急手術へすぐに入れたとしても(実際はCTや各種検査、説明、同意、処置、移動がある)、救命確率は著しく低い状態だった。
それでも救命の可能性は「手術をする・しない」では、明らかにした方が救命確率は上がる。

通常はだいたい一度の出血で終わり、そこに出来た血腫を速やかに除去する。救命率は高いものの、障害が残る可能性は高いという。
けれど三津子の場合は出血は一回ではなく、複数回起きたと考えられ、脳内に出た血液の量がかなり多かった。断層写真でもそれは解ったので、血腫をうまく取り除いてあげても、重度の障害は避けられないという説明も受けた。

出血部位が取り除ければ、あとは失われた脳の部位の機能を、他の部分が埋めていくのか、あるいはリハビリなどで辛抱強く待つか、それはいくらだって出来る。俺や子供たちだって、生きていさえくれれば、必ずどんな辛い介護だってする。

命が助かれば、寝たきりだろうが車椅子だろうが、筆談だろうが何だろうが、とにかくいずれ「奇跡」は起こる。そういうことは何度も実例としていくつも紹介されているし、二人でそういうドキュメンタリーをも何度も見たものだ。
「一生寝たきりです、意識回復は100%ありません」と言われていた人が回復した例は山ほどある。

そこに賭ける。家族なら当然だ。
生きてさえ、いてくれたら…。
だから、「一生介護になってもいいから」と手術をお願いした。

この判断もA先生は「ご家族ならそうされるでしょう。私も妻がそうなったら、お願いすると思います」と言ってくれた。

そうして手術をするため開頭をしてみたら、「単なる脳内の出血」ではないことが解った。
さらに画像では解らず、該当部位を見て初めて解ったことがある。
それが、「元々今回出血した血管に、何らかの病変がすでに存在していた」ということだった。
なので、すでに脳内に流れていた血液や、固まった部分は除去できたが、出血箇所周辺を処置しようとすると、その都度さらに大量に出血をし出したという。これでは術中に命がなくなる。
なので、最大限の処置をして、手術を終えた。
結果は、脳の活動の停止だった。

この残酷な手術中に解った事実、そしてその術後、つまり予後の状態を、手術する前に100%予想し一致させることは、神でもなければ無理だ。

「だから手術をしなければ良かった」という嘆き・後悔は、こうして順を追って理性的に確認をしていけば、間違っていることが解る。
「手術に踏み切ったことは正しかった」そう確信している。

いくつもの奇跡が重なれば、最悪でも脳全ての死は避けられたかも知れない。そうすれば残された部分の機能で、残り全体をカバーすることは不可能でも、ホンの1%以下でも、再生の可能性がある。ゼロ、ではない。
医学的には、肝臓のように細胞が少し残っていても再生するのとは全く意味が違うということも解っている。それでも、奇跡を信じて祈るのが、愛する者の当然の行為だと、はっきりと胸を張って言える。

奇跡は起こらなかった、いやあの人の時限爆弾が残酷な時を刻み続けていたとしても、それが解ったとして延命は難しいという状態だったとしても、それを知らずに居られたお陰で、俺たちは残された時間を京都で楽しく過ごてきたことは事実だ。
人生の最後をこの美しい古都に住まい、ふたりで楽しい人生最良の日々を送ったこと、そのことが「奇跡」ではなく何だというのだ。

俺の向かいに座り、大好きだった焼きフグを網の上でひっくり返したあと、俺の顔を見て

「わたし、今が一番幸せだと思う」

と、目を潤ませながらにっこり笑って言ってくれた。あの顔を思い出すと、今でも涙が滲んでしまう。
俺も「うん、俺も今が人生で一番幸せだよ。」と言った。
俺は癌を患っているし、時限爆弾のことは知らぬとはいえ、三津子も満身創痍だった。それでも、俺たちは幸福感に包まれていた。

もし「時限爆弾のことを知っていたとしたら」。京都へはもちろん来られず、教職もお断りして、爆弾を除去できる「神の手」を求めて日本を、世界を探し続けただろう。俺たちがよく見ていた番組で、そういう難度の高い脳手術を高い確率で成功させている「神の手を持つ医師」がいることも知っていた。
それでも、出来る場所と出来ない場所があるだろう。それに除去するのは固形の腫瘍ではない、脳の奥にある「破裂するかもしれない血管の障害」だから、それはまた別の手が必要になるものかも知れない。

いずれにせよ、人から「クソ真面目」と言われ頑張り抜いてきた彼女の小さい体が、二人で「人生最良の時間」を過ごせたかどうかは、解らない。俺は、苦しいまま、そのストレスを抱えて辛い死を迎えるよりも、むしろ爆弾の存在を知らず、「人生最良の日々」を暮らせたことに感謝したい。

また爆弾の存在が解ったとしても「手術は不可能」と言われていたら、俺たちは毎日、絶望のカウントダウンの日々を送ることになっていたはずだ。
酒を飲んだり旅行へ行くなどはもっての外、それこそ買い物はおろか普段は安静に寝かせておき、たまに車椅子などでそろりそろりと外の空気を吸わせたりの生活だろう。食事もなるべく血圧や糖尿に影響の少ないものをコントロールされ、あとはいつ破裂するかも知れない爆弾の影に怯える日々…。
何より、俺を自分の代わりに立ち働かせることになり、俺の体を自分のことよりも気遣ってくれていた三津子にとって、それは耐え難い苦痛の日々になったと思う。
三津子はそれに耐えられなかったと思う。
精神が壊れるか、自分の命を自ら絶ったかも知れない。いや、彼女は常々自殺はいけないと言っていたから、それはしなかったかも知れないが、自ら命を絶つことも出来ないのであれば
「結局は運命に任せる」
しか無かったということではないのか。
最期は同じ「運命」なのだとすれば、俺たちの暮らした「人生最良の幸福な日々」が、最も三津子にとって、いや二人にとってそれこそ「幸福であった」と言うことにならないか。

二人で行く最期の旅行になった、南紀白浜温泉から奈良への楽しい旅行の写真を見て欲しい。
今まで、何度も三津子の笑顔は数え切れないほど目にしてきた。
しかし、これほどまでに輝く…そう、西日があたって文字通り輝いている、最高の笑顔を見たことがない。少女のような、そして仏に感情があったならこういう笑顔なのではないか、と思えるほどの輝き…。
この「笑顔」が、何より俺たちが「人生最良の時間」を過ごせていたことの証明だと思っている。だから、涙が出る。
2009/2/26、東大寺大仏殿前で

…こういうことはもう何度も考え苦しみ、悩み嘆いて、後悔し涙した結果に、ようやく、ようやく血の涙を流す思いで到達するに至った「結論」だ。
正直を言うと、直後は後を追うことを真剣に考えていた。
そのうちに、理性で、次に知性で「彼女が死ぬ」ということを少しずつ理解をしていった。
三津子は毎日、瞬間瞬間、常に俺の健康や回復を願っていた。ずっとずっと。
その俺が自ら命を絶つことで一番悲しむのは誰か。
そう考えて、「考えて」後追いへ転げそうな自分を何とか乗り越えた。
周りの人のお陰でもある。

俺の順番では、次は「感情」だけど、ここが一番難しいと思う。悲しみはきっと一生消えないだろう。
これらの全てを包み込んで、それでも生きて行けるのは、「愛」があるからだ。
愛し愛される、過去形でもいい、愛したし愛されたという実感があれば、やがて感情も癒されるのだろう。別な幸せな場所へ行き、彼女はそこで一切の苦悩から解放されて、猫たちと笑顔で遊びながら、俺を待つ。
そこに俺がもし行くことを許してもらえれば、その時が二人の「人生にとって」ではなく、「二人の愛にとって最良の日々」を迎えることになる。

だから俺は三津子に迎えに来て貰える人間になりたい。

今のままの俺では、とても彼女と同じ世界へは行けない。
そんな人間ではない。09:06
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
やまだ紫クロニクル

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