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2009-05-14(Thu)

はじめてお客が来る

5月14日(木)
このところ曜日の感覚がないというか、三津子と最後の夕飯を食べた土曜(4/25)、そして床について数時間後に倒れた翌日曜(4/26)。週末が大嫌いになった。亡くなった5日は連休中だったから、もとより曜日の感覚がない。
朝目が醒めても隣に三津子はおらず、しばしの後階段を降りても一人だ。トイレ、歯磨きと洗顔、写真におはようと語りかけ、お酒とお茶を片付けて新しいお茶をあげて、線香をつける。「ごめんね、ありがとう、ずっと愛してる」と手を合わせる。それから台所の洗い物をして、猫たちの水を取り替えて新しいご飯をあげる…。その間もずっと無言だし終わったところで話す相手もいない。「咳をしても一人」だからこうして記録に向かう。
間の日は月も金もみな同じようなものだ。

夕べは寝たのは11時半頃だったか。今朝は何度か目が醒めた後、8時半に起きた。
夕べはウインナくらいしか食べてなかったので、ももちゃんが送ってくれた「レンジでチンもの」の中から焼き豚チャーハンというのをチンしてみると、まあまあうまかった。最近のこうした即席食品は凄いね、と写真に話しつつ食べたのが9時過ぎだったか。

今朝はどうしよう。
外で黙々と一人で外食をしている人はもちろん多いけれど、ああいう人たちはかつての俺のように、仕事の途中などで「たまたま」一人で食べている場面だろうか。家に帰ればそこにはちゃんと迎えてくれる家人が居るのだろうか。
俺が今のところ一人でまだ外食する気になれないのは、今までほとんど三津子と二人で食べてきたからだ。でも今一人で何かを食べられるとすれば、それは家で写真と向き合って話しかけながらだけだ。
京都に夫婦ふたりっきりで引っ越してきてからは、二人で過ごす時間がもっと増えた。そうは言っても、もちろん何度か自分一人で食べに行ったことはある。彼女が大学へ向かう時に一緒に出て、俺だけ牛丼やココイチのカレーだのという下らぬもの(すいません、でも好き)を食べたりした。「カップヌードル」みたいなもので、たまに「あそこのあの味」が食べたい時は誰にでもあるだろう。
三津子が大学へ通うようになって間もないころは、早めに出て宝ヶ池の「ドルフ」で食べてから行ったりしていたが、ここ一年くらいはずっと、大学の研究室で簡単なパン類やスポンジケーキみたいなものだけを義務感で食べるという感じだったと思う。ここ一年ほどは、三津子は大学へ向かう前は「食欲がない」と言って、朝のイチゴジュースだけで出かけることが多かった。

「一人で食事をする」ということが、嫌いな人だった。
いつだったか、ずいぶん前に俺が青林堂に勤めている頃、帰りにどこかで待ち合わせてラーメンを食べようということにした。携帯もない時代で、「ガロ」編集部の黒電話に家から電話がかかってきて、「もう何分で出られそう」とか時間を合わせながらの、夫婦のささやかな楽しみだった。
それがどういうわけか何かイレギュラーな事態が発生し、出かけられなくなった。彼女はもう出ていて家には居なかった。しばらくすると「どうしたの」と公衆電話から連絡があった。「ごめん、行けなくなったから一人で食べて…」
結局俺たち社員の夕晩は店屋物にしたか、もう何で行けなくなったのかも覚えていないが(たぶん新刊が倉庫から到着したとか、そういう力仕事だったと思う)、帰宅すると三津子がふくれていた。
「私ね、一人でラーメン食べたんだよ。喉もと引きつらせて、寂しくさ」
と言って頬を膨らませていた。
「ごめんごめん」と謝ったが、女の人が一人で外で食事をするということが「恥ずかしいこと」という概念を初めて知った。その「喉をひきつらせて」一人でラーメンをすする、「美味しいね」と言い合う人もいない、もちろん無言で全てを終えて一人で家路につく。
二人で暮らしているのに、一人。
そんな些細なこと…と思われるだろうが、この「二人なのに一人」ということが彼女が寂しい、辛い、と感じていたことだ。同居するようになって6、7年も経つと俺は中堅編集者になってアレコレと忙しくなった。月刊誌の校了近くは戦場になったし、その合間に担当する単行本も抱え、さらに、毎日その間も書店から注文を受け、その都度伝票を書き、自分たちで本を梱包したり取次へ受け渡す支度をした。もちろん返品も受取り、それを狭い階段を上って部屋に積んだり、あるいはトラックを手配して倉庫まで運んで積んだりもした。その上、自分たちで作った本は分担して書店へ営業にまで行っていた。
そこら辺の人が「若い頃はコキ使われて苦労したよ」とよく言うが、恐らくそういう想像を超えていたと思う。
休日は疲れで「昼まで」寝ていたし、起きても居間に「ズシリと」腰を落ち着けて、外へ出る体力も気力もなかったと思う。彼女にしてみれば、我慢して我慢してようやくやってきた休日だ。二人で近所の土手でもいい、公園でもいい。どこかへ散歩へ行きたいと思う。けれど俺も忙しく疲れていることを知っているから、あまり強くは言わなかった。だから、寂しかったと思う。
「二人で暮らしているのに、いつも私は一人だ」
そう言われたこともある。胸にズキッときた。申し訳ないな、と思った。97年に親会社に移籍した後、元の「ガロ」編集部の連中がクーデターを起こして自分たちで新しい出版社を興した前後は、その忙しさは殺人的なものだった。家に帰って倒れたことも1度ではない。

三津子は怒っていた。
何でこんな目に逢わなきゃならないの、悪いのは向こうでしょ。
法律も犯してるし人の道にも外れてる。
自分たちの都合で「ガロ」を殺した。嘘をついて人を騙した。
でも周りの人たちは何で、誰も「筋道を通せ」って言わないの?
何であなたがその尻ぬぐいで失業保険貰ってまで賭けずり廻って倒れなきゃいけないの!

俺ももう、限界だった。ふたりで小さな事務所を興して、彼女は従来の執筆を、俺はそのサポートと編集やWEB構築・管理などの仕事をはじめた。最初は順調で、お互い一緒の時間も増えた。けれどそのうち不景気もあって、数年で仕事がどんどん減り始めた。また、苦労の連続になった。
彼女はこの頃から、気持ちが沈みはじめた。答えの見つからない質問を心で繰り返すうちに、自分を責めはじめた。「何でわたしたちだけがこんな目に」と。気持ちが沈み、さらに病気や不幸が重なったことがあった。
ほんとうに、色々なことがあった。詳しく書けばそれこそドラマになる、いや「実際」はドラマなんて作り事の悲劇や苦しみなどを遥かに凌駕する。

それでも俺はずっと側に居てあげることができた。もし、またどこかの会社へ勤めたりしていたらと思うと、彼女がほんとうにたった一人でそれらと向き合うことになった、だとしたら彼女の命はもっと早くなくなっていたかも知れない。

そんな中、2005年には俺が全く予想もしなかった白血病の宣告を受けた。当初は余命一年無いという進行の早いタイプだと想定され、すぐに入院となった。けれど途中から詳細な分析と検査の結果、極めて進行の遅いタイプと解り、自宅で経過観察となった。それから一度、翌年に一度三津子は吐血入院したものの、3年の間、ようやく平穏な生活が訪れたのだ。特に京都へ転居してからは。
今のところ京都市内で二人で行ったどの店へも、まだ俺一人では入れない。だから外食が出来ない。写真を持ってって向かいの席に立て、それに向かって真顔で話しかけながら食べていたら、店も迷惑だろう。家ならそれが出来る。それが出来るから、ものが何とか食べられる。9:22


15:11
ついさっき、旧知の知り合いであるSさんが帰られた。

今日は午前中に相次いで注文していた挨拶状のカードと三津子が描いたユキちゃんの絵をポストカードにしたもの、さらにローリングクレイドルことS君からは花が届いた。さらにこれも注文してあったアルコールティッシュ類、別の医療品店からウェルパスなどが届いた。
カードを確認したら、自分で打ち込んでイラストレーターで仕上げた版下に、取り忘れたひらがなが一つ残ってい。校正をちゃんとしたつもりだったが、やっぱりダメ編集者だな、と思った。
それから10時過ぎにももちゃんが送ってくれたレトルトや即席食品の中から、レンジでチンするだけのポトフと、水を入れてかき混ぜてチンするチキンライスを食べた。最近のこういうのってやっぱりバカに出来ないね、と写真の三津子に話しながら食べた。
それから、封筒に手書きで宛名をずっと書いていた。90枚ほどを2時間ほどかかって筆ペンで書いていた。

今日は2時にSさんがぜひにと言って訪ねて来られる予定だった。
三津子が倒れてから誰も家の中には入れていなかったし、正直を言うとまだ人と会うのが辛い部分はある。
けれど「どうしても」とおっしゃったのと、であれば何かの流れ、お導きもあるだろうと思って了承した。
Sさんは俺と同じ「地図オタク」とかで、住所だけで何と玄関前まで時間通りに来られたのでビックリした。
Sさんは元々大手の版元の編集畑にいた人だが、後に独立して版元を興した。元々いた版元では派閥争いなどでそうとうゴタガタがあり、独立したとも聞いていた。その後興した会社が倒産してしまってから、ずいぶんと大変な思いをされた。もちろん家や土地などは全て負債の返済に充てたということも聞いていた。

Sさんにはソファの三津子がいつも座っていたところは避けてもらい、俺が座っている側寄りに座っていただいた。テーブルの上に花と遺影があるので、線香をつけて手前に置き、合掌していただく。
それからお断りしたのだけど、お香典をいただいてしまう。その上、以前俺たちの事務所が仕事として戴いていた、Sさんの経営する版元のWEBサイトの管理・更新料、最後の分が倒産で支払えなかったからと、持って来られた。
そんなことはもう済んだことですし、ご苦労されたんですから結構ですと固辞したのだけど、これは経理をされていた奥さんが「ぜひお返しして」と言うことで、消費税まできっちり入っている。結局これも、妻からきつく言われてきましたのでと押し切られた。
それから三津子の思い出話や、出版界のこと、新しい企画をやまだ先生にぜひお願いしたかった…という話などをする。その話は実際少し前に連絡があって直接三津子…やまだと話したことだし、彼女も「よーし、何を描くことになるかわかんないけど頑張るぞぉ!」と言っていた。
そうしてライトテーブルも軽くて明るいものに買い換えたばかりだったし、「アシスタントなら(学生がバイト&実習ということで)たくさんいるからね!」と言って笑っていたのを思い出す。Sさんは三津子の中公文庫『御伽草子』を高く評価してくれており、次に何を描いていただくか楽しみだったと話される。

一時間ほどお話をさせていただき、Sさんは3時過ぎに帰られた。京都はちょくちょく来るので、そのうち食事でもしましょうと言っていただいた。有り難いし、何よりやっぱり来ていただいて良かったと思った。
文庫は小さいとか贅沢は言っていられない。手に取って読めるかたちでやまだ紫の作品を後に遺すこと。それが一番の希望だ。何とかそういう方向へつながればいいな、と思った。
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
やまだ紫クロニクル

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