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2009-05-19(Tue)

泣き暮らす

家に居る時はテーブルの上の三津子の写真に、いろいろと話しかけている。
猫たち…シマはふだん「二階」(メゾネット)の俺たちの寝室で寝ていることが多いのだけど、俺が居間で三津子の写真に話しかけていると、「ママ」が帰ってきて俺と話していると思うのか、ぎしぎしどんどん、と階段を降りてくる。そして俺一人だと知ると、寂しそうに「アァ」と一声泣いて、俺に甘える。
ソファの、三津子が座っていたところは空けてあるのだが、どういうわけかシマもユキでさえも、絶対にそこに座ったり丸くなったりしない。
「見えてるの?」「居るのが解るのかい?」
と聞きながら撫でても、猫たちはゴロゴロと喉を鳴らすだけだ。

そんなことをしたり、パソコンに向かって仕事をし、一息つきがてらソファに仰向けになってぼーっと相撲を眺めていると、腹が張ってきた。今履いている室内着のズボンのゴムがきつい。白血病になって脾臓が腫れる前は、腰はゆるゆるで内側のひもで縛っていたほどだったのに、最近はこんな案配だ。しばらく腰まわりからズボンを外していたが苦しいので、ゆるいパジャマの下に履き替えようとクローゼット部屋へ行く。
すると一緒にシマとユキが入ってきた。
シマは丸い折りたたみ椅子の上に飛び乗り、脱いだままになっている三津子の服の匂いを嗅ぎ始めた。今までそんなことはしなかったのに。思わずそこへ乗ってはダメだよ、と引きはがす。三津子の着ていた冬物のセーターに爪がひっかかって落ちた。シマは早足で出て行った。
床に落ちたセーターを取り上げ、「これはダメだよ…」と言って抱きしめると、やっぱりまだあの人の匂いがする。その下になっていたセーターからも。ダメだ、あの人の着ていたもの、身につけていたものなんかどれ一つとして捨てられるわけがないよ。そう言うと情動失禁のようにまた涙が溢れてきた。
泣きながら居間に戻ってきて、セーターを戻した時に発見した宅急便の送り状を見てまた泣いた。それは二人の最後の旅行になった2月末の白浜〜奈良旅行の最後の朝、帰りがけに奈良ホテルから荷物を自宅へ送った時のものだった。ついこないだのことだ。
こんなことではいけない、何をしてるんだ、そう思うけれどもフとしたことで三津子がもうこの世には存在しないということ、もう話したり手を握ったり出来ないのだということを思い知る。そうしてそのことの余りの辛さに魂が悲鳴をあげ、涙が押し出される。
俺はこの先、普通に三津子の思い出話をして笑ったり、別な人と飲んだりできるようになるんだろうか。

それからふらふらとソファに戻り、テーブルの上で花に囲まれている三津子の写真に語りかけながら、号泣した。両手で顔を覆い「うわぁ」と大きな声が出た。
あなたは俺と一緒になって本当に幸せだったのか。
頑張って頑張って歯を食いしばって小さい体で前夫の暴力と浮気に耐え、離婚し、そして幼い子二人を育て守りながら、たくさんの名作を生み出し続けた。俺と知り合ってからも経済的には余裕があった時は少なく、挙げ句の果ては自身の病気で長く苦しんだ。
その上に伴侶である俺に癌の宣告だ。
あなたは俺と一緒になって本当に良かったと思ってくれているんだろうか。
その確証が欲しい。
そう言ってくれたのを聞いた、でもそれはここ数年のことじゃないか。
本当は、ずっとずっとずっと辛かったんじゃないのか。
あなたは小さい頃からずっと「寂しい人」だったんじゃないのか。
俺はそれをじゅうぶんに埋めてあげられなかったんじゃないか。
けれどその答えはもう聞けない。
だから、どうしても自分を責めてしまう。

昔、まだ子供たちが小学生の頃、もちろんみんなで団地で暮らしていた頃だ。次女のゆうちゃんが、何やらたいしたケガもしていないのに手に包帯をしたり絆創膏を貼ったりして、ちょっと嬉しそうだったのを思い出す。周りのみんなが「どうしたの」「大丈夫?」と心配したりしてくれるのが嬉しかったのだと思う。微笑ましい子供時代の話だ。そういう心理って子供の頃なら誰にでもあるだろうし、似たような態度を取ったことは誰にでもあると思う。

でも俺はそういうことを、「生き死に」というとても重要で大変なことで、三津子にしていなかったか。

俺の病気は全身のリンパ節に腫脹が見られるもので、その親玉は脾臓。次に大きいのは縦隔。あとは関節などは豆粒大から指先くらいまで、大きさはさまざまだ。それらのどこかが、毎日苦しかったり痛んだりする。小さい痛みなら普通に笑顔で過ごしていられるが、脾臓が痛い時は立っていられない。だから別に詐病で心配を惹こうというのとは違う。
けれど三津子は俺がこうして毎日どこかしらが痛いという状態を、いつも一番近くで心配してくれていた。そのことが、彼女のストレスとなって寿命を縮めやしなかったか。俺が病気になる前、彼女が手術の痛みやその後の鬱状態でひどい状態になった時、それこそ筆舌に尽くしがたい生活が続いた時、俺はそれでも彼女が居てくれさえすればいいと思っていた。どんな状態になっても絶対に見捨てるもんか、と思っていた。そのことで自分の体がどうにかなるとか思わなかったし、仮に自分の体のどこかを犠牲にしてこの人の苦しみが緩和されるのならそれでもいいとさえ思った。
こんな俺みたいなチンケな人間でさえ、そう思ったのだから、癌宣告をされて以降の俺を見て彼女はどう思っていたのだろう。俺は滅多に「痛い痛い」と訴えない人間だったけれど、三津子は俺の具合が悪い時はすぐにそうだと悟って、心配してくれた。時には涙を浮かべてさすってくれたりもした。

ずっとずっと前、まだ俺たちが一緒に暮らし始めて一年くらいの頃に、俺は夢を見た。
和服の紋付きの喪服を着た三津子が、俺の遺影の前でがっくりと肩を落として泣いている夢だった。
余りにリアルだったので、俺は「自分が彼女より先に死ぬ」ということを運命だと教わったのだと思った。
あれからずいぶん、いや二十年経って俺は癌に冒された。
三津子も三津子で、あちこちの内臓が悲鳴をあげている時期だった。
「もしあなたが先に死んだら私も死ぬ、だから私の方が先に逝く」という彼女に俺は
「違うよ、俺が先に逝くことはもう運命なんだ」と言って、三津子に昔見たあの夢のことを話した。
彼女はそれを聞いて「わあ」と泣いた。

それは彼女にとって受け入れ難い「運命」だったに違いない。『愛のかたち』でも書いているように、もし俺が先に死んだら彼女はヌケガラになって後を追うように死ぬだろうと思っていた。俺をそれほど愛していてくれたがゆえに、ひとり残されることに到底耐えられないだろうと思っていた。
だから、先に逝ったんじゃないのか。
だとしたら、俺は何という罪なことをしたのだろうか。
彼女を抱きしめ手を握り、「大丈夫だよ、俺は絶対君より先に死なないから。二人で長生きしよう」と力強く何で言ってあげられなかったのか。
今俺がまだ生きていること、癌に進行がほとんど見られないこと、そのことを「奇跡」と信じ、大切に二人で分かち合おうと、強い力で彼女に訴えてあげなければいけなかったのは俺だったのに。

泣くまいとしても涙が流れ出る、枯れることはないのかと思うほど泣けて仕方がなかった。
今こうしていても、涙が止まらない。
彼女に申し訳ない。済まない。たくさんたくさん謝らなければいけない、そしてたくさんたくさん感謝しなければいけない。そしてもっともっとたくさん、愛していることを伝えてあげなければいけない。
でももう、彼女に直接それは伝えられない。そのことが悔しくてまた涙が出る。

「彼女はあなたの傍にいて、ちゃんと解ってくれている」

皆さんが異口同音に慰めて下さるのは嬉しいしとても有り難い、自分だってそう思うし思わなければこの先とうてい生きて行けない。
でも、現実にはついこないだまで普通に過ごしていた「二人の普通の暮らし」に、あの人はもういない。泣いてはいけない、ダメだと思うが、今は全ての涙を絞り出そうという思いで泣き続ける。

…気を取り直して、昨日ゆうちゃんとメールでやりとりをしたことを思い出した。ゆうちゃんは自分の母親の作品『性悪猫』も『鳳仙花』も、大人になってからちゃんと読んでなかったという。なので「うちから送るよ」と言ったのだが、この日は病院でそれを忘れてしまったのを詫びた。
本2冊はもう用意してあったので、それをエクスパックに入れるための保護にエアキャップを探す。確か本を入れるのにちょうどいい封筒型になったエアキャップがあった…そう思って押し入れを開けると、薄暗い中にある箱にハガキを見つけた。
宜保愛子さんからの、十年くらい前の年賀状だった。「ケガのことを心配してくれてありがとう」ということも添えてあった。そしてその手前には宜保さんの本があった。帯に「遺稿」と書いてあった。きっとこれも何かのメッセージなのだろう。そう思って取り出した。
それからエアキャップ…と思ったら、何と三津子の仕事机の手前の足元に落ちていた。何で? と思ったら、デジカメプリント用のミニプリンタにカバーがわりにかけておいたやつだった。苦笑しながら
「三津子ありがとう。でもこれはダメなんだ」
と言ってプリンタに被せてテープで止めた。そして視線をその横の書類ケースに移すと、その上の箱にやはり同じようなエアキャップが封筒状になったものが載せてある。
「じゃあこっちを」と言われたようだった。
三津子、ありがとう。
そう言ってそのエアキャップ封筒に二冊の本を入れ、エクスパックでゆうちゃんに送る梱包をした。
それから三津子にお酒をあげ、昼間近所の総菜屋で買ったご飯に、錦市場で買った「ごまおかか振りかけ」とパックのカリカリ梅をまぶし、小さな椀に入れて添える。それから彼女の好きだった温泉たまごも。総菜を並べて俺もビールで「お疲れ様」と乾杯をした。
あれだけ泣いた後だけど、三津子と差し向かいで一杯やりながらだと、不思議と落ち着いてものがちゃんと食べられる。19:48


…その後少し落ち着いてから、見るものもないので、三津子と何度も見たジョディ・フォスター主演のSF映画『コンタクト』のDVDをかけて、オープニングをちょっと見たところで電話が鳴った。

出るとご近所の割烹「浦」の子供さんからで、「おかず持ってきたんで開けてもらえますか」とのこと。あらら、と思ってすぐポストカードを何枚か持って下に降りると、3人の男の子が揃っていてくれた。「浦」のお母さんが車で岩倉の自宅まで子供たちを送るついでに寄って下さったようだ。
ここは寿司や季節料理を出す気取らない割烹で、夫婦でたまに寄せてもらっていた。3人の子供たちが普通に店に居ることに何の違和感も感じない家庭的な店だった。
伺うといつも男の子三人兄弟が、客の邪魔にならぬよう、隅で本を読んだりゲームをしているのだけど、特に一番上の子は下の子らがちょっとでもテンションが上がるとすぐに自制心を持って諫め、真ん中の子はそれをちゃんと認めつつも子供心を忘れず、一番下の子は無邪気に客であろうと知った顔は慕ってくれ愛想を振りまいてくれた。
三津子は特にこの一番下のY君を可愛がっていた。この三人が重なるようにして何かに夢中になっているのを、「いつか油彩に描きたい」といってそっと携帯のカメラで撮影したこともある。
その子供たちが揃って、ちょっと沈んだ顔で並んでいる。上の子が差し出してくれた紙袋を受け取って「ありがとうね、これ、あのおばちゃんが描いたポストカードだよ」と言って手渡すと、もう我慢の限界を超えて涙が溢れてしまった。

「浦」のお母さんがそれを見て車から降りてきてくれ、「うちもう戴いてますし、全然気にせんといておくれやす」と言ってくれる。
「写真も今度お渡ししますね」と言いつつ、涙が止まらない。子供たちには格好悪い姿を見せてしまったけど、でも嬉しさもあった。「優しいおばちゃん」として心に留めてくれていたのが、やがて「マンガを大学で教えてる凄い人」が加わり、これからはその作品に触れてくれれば「凄い作家だったのだ」と理解してくれる日が来るだろうと信じている。
「浦」さんからいただいたお総菜はまだ暖かかった。俺がたまに生ビールとハーフにしていたギネスの黒瓶も一本入っていて、そのお気遣いにまた涙が出た。何もかも、三津子の人徳だと思う。感謝しかない。


『コンタクト』を見終わると、11時過ぎだった。
結局500mlの缶ビール3本とギネスの黒の小瓶一本をあけてしまった。この映画はいわゆる科学万能主義者から言わせればただの荒唐無稽のSF映画、ハリウッドのオバカの典型というのかも知れない。
けれどハリウッドと言えば「ベン・ハー」であったり「アラビアのロレンス」であったり「十戒」であったりした時代から、予定調和の大いなる夢と娯楽を与えてくれるものではなかったか。だとしたら、これは非常に良く出来た、哲学的宗教的なことと科学というものをどう折り合いをつけるかを、ハリウッドの娯楽映画、SF映画という形で仕上げた良作だと思う。
西洋人の考えにしても、「神」なり「人智を超えた大いなる存在」へ畏敬の念を持つべきである…ということへの「気付き」をもたらすものだと思える。
この映画の最後に「for Carl」と出てくるが、もちろんそれはこの映画の原作者であり制作途中で亡くなったカール・セーガン博士へのものだが、セーガン博士の本や特番なども、俺たち夫婦にとっては「定番」であった。
この広い宇宙に地球人だけが知的生命体と考えるか、それともそれを不遜でありもっとたくさんの存在があると考える=すなわち科学的根拠はまだないが「内なる戒め」と共通の、「大いなる存在への気付き」を促すという意味では、科学者であっても我々と考え方は同じだと思っていた。
「だってこの広い宇宙に地球人だけなんて、もったいないじゃない。」
原作ももちろん素晴らしいが、ロバート・ゼメキスが単なる特撮じかけの突飛な監督、ではないことがよく解る。敬虔な気持ちと原作への深い理解とリスペクトを持ちつつ、ハリウッド映画としての成功へと導くことがこの監督の非凡なところかも知れない。
ただカール・セーガンからホーキング博士、あるいはNASAの一連の研究やそれこそ対極にあるSF映画やUFOなど全般に広く興味がないと、単なる「退屈なB級映画」と取られる恐れはじゅうぶんに、ある。中にはもちろん素晴らしい「思想」や「哲学」、そして「事実」もあり、対極に「インチキ」「詐欺」もある。そういう膨大な情報と知識の砂浜に、時々キラッと光るものがあって、俺たちはそれを見つけるのが楽しみだった。
この映画はもう4、5回は見ていて、そのうち今回以外は全部三津子と一緒に見ている。そして何度見ても、(ネタばれゆえ伏せるが)泣けるシーンがある。


それから二階へ行って日テレいや関西では「よみうりテレビ」の「NEWS ZERO」を見た。たまたまトム・ハンクスが映画の宣伝で来日しており、村尾キャスターのインタビューを受けていた。彼は
「世界中いろいろなところへ私は行った。その先々で先祖を敬うという儀礼にはいろいろな方法があったが、彼らの行く先は皆同じだと思う。その違いを認めることが大切だ」
というようなこと(うろ覚えで失礼)を言っていた。
俺たち夫婦は以前からフィラデルフィア、フォレスト・ガンプからプライベート・ライアン、グリーン・マイル、キャスト・アウェイ、エアポートなどなど彼の映画を好んで見たのだけれど、改めて、なぜこの俳優に惹かれるのかが解ったような気がした。
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フォレスト・ガンプ

「人には決まった運命があるのだろうか。
それとも、ただ風に運ばれる羽毛のように
ただあてもなく漂うだけなのだろうか。
ぼくは、両方だと思う。」-映画「フォレスト・ガンプ」字幕より

どちらにしても、羽毛のように軽くなければ、
ひとは舞うこともなく、どこへも運ばれない。
フォレストのようなシンプルな「賢さ」があると、
風がどこへでも運んでくれるし、羽毛も運ばれてくる。
ああなりたいなあ、と思いながら見ていました。
トム・ハンクスの映画はどれもいいですよね。

ガンプの「ぼくは、両方だと思う。」って言葉は、肯定的で強いですね。
大事なひとが幸せかどうかの答えも、そんな言葉の向こうにある
ような気がしませんか?

いまなお奥さんに心をしたがわせ、そばに居てあげられる白取さんの、
なんだかガンプのような素直さは、すばらしいと思います。
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
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