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2009-05-24(Sun)

四人の写真

5月24日(日)

夕べは12時半ころ床に就くが、暗い中三津子に話しかけていると全く眠れず、2時過ぎにようやく寝られた。今朝はそのせいか9時ころ目が醒め、起きたのは10時ころ。それから洗い物などをし、朝昼兼用でポトフを温めて食べた。その後BSでメジャーリーグを見ていると宅配が来る。注文しておいた、三津子の原稿を整理するための角0封筒に、やまだ紫の名や原稿タイトル他の項目を書き入れる印刷をしたもの。しかし納戸、一階の押し入れ、二階の押し入れなどに分散した近年の原稿や原画を整理するには、病人一人では重労働。少しずつやるしかない。俺しか居ないのだから。
今日はうす曇りに時折日が射す感じで、過ごしやすい。13:38

2時過ぎにマスクをして自転車で近くのスーパーへ買い物に出た。マスクをしている人は店員が100%、客では2割弱程度だろうか。まず生活用品売り場へ上がり、三津子の写真周りを飾る花瓶を探す。食器やタンブラー類はあるが、花瓶が見つからない。仕方なくレジへもう一つの買い物であるフライパンを一つ持って並ぶ。うちのフライパンはコーティングが剥がれていて、簡単な炒め物はおろか目玉焼きすらくっついて出来ないので、新しいものを買う。
それから店員に「花瓶売り場は何回ですか」と聞くと、そこにあると言われ、行ってみるとさっき見たところだった。普通に十種類くらいあった。うちにある花瓶は大きなものだけだったので、玄関に飾ってある。写真周りのテーブルに置くための小さめのものを一つと、一輪挿しを買った。それから額縁を1つと釣り下げ金具を買い、1階で今日の夕、明日の朝・昼のものを買って、ヒイコラ自転車を漕ぐ。最後はセブンイレブンで朝のパンの時に飲むコーヒー牛乳を買って帰宅。2時40分、汗だくになった。これしきのことで…と思うが膝にコブのようにあって時々腫れるリンパ節が邪魔なのと、やっぱり引きこもり気味なので萎えてるのだろう。
マスクを捨て、手を入念に消毒してから、花瓶を洗って花を生けた。
毎日、こうやって三津子の写真の周りの花を生け換えている。大きな花束をそのままズボッと玄関の大きな花瓶に生けるのはどうにも不細工なので、少し間引いて、写真の周りに飾っている。しかし花瓶が足らず空き瓶を使ったりしていたが、それではあんまりだと思って花瓶を買った。これでまた、写真周りが少し華やかになった気がする。花が好きだったから、花で囲んであげたい。

その後夕方は5時過ぎに三津子に酒をあげて、こちらはしばらく相撲を見る。
日馬富士が1敗で念願の初優勝。今日は国技館にお母さんが来ているとのことで、嬉しそうだった。確かこの力士はお父さんを亡くしている。母親を尊敬し、愛している、だから母親のために…とはっきりいつも言っている。
三津子の写真と顔を見合わせて、そっと手を叩きながら「良かったねえ」と笑顔を向けた。少し目頭がジンと熱くなった。
三津子は元々涙もろい人で、人が泣いているとよくもらい泣きをしたり、映像を見てもそうだった。俺は男が人前で涙を見せるのは恥ずかしいと言われて育った(父親がいないということで、そのことだけでずいぶん泣かされてきたが、相手を負かすか泣き止まないと家に入れて貰えなかった)。
けれど三津子を失ってから、些細なことで涙が出る。スポーツニュースを見ているだけなのに、日馬富士が目をうるませて母に感謝しているというのを見ただけでこちらも胸が熱くなる。車椅子テニスで日本のトップ選手がプロ転向したという話で、彼がどれだけ苦労し頑張ったかを見てやっぱりジーンとする。ソフトボールで日本に負けたアメリカの中心選手が日本に学びたいと言って来日し、チームメイトと友情を育み、「次は勝って恩返しをしたい」というようなことを聞いてはまた…。
ももちゃんもゆうちゃんも、三津子が倒れた後うちに来てくれた時に、俺が泣いたところを恐らく初めて見たのではないか。それくらい、家族の前でもあまり泣いたことはなかった。テレビなどでこちらが少し感動でジンとする場面を見ても、まず三津子を見るともう泣いているので、こちらは「泣いてるね」と言って誤魔化したりしていた。
何だかあの人の魂が乗り移ったみたいに、涙もろくなっている。


その後7時過ぎ、三津子のお姉さんから電話があった。
東京で行う四十九日の法要の打ち合わせと、その後大丈夫ですか、という話。お姉さんはやっぱりたった一人の妹だったから、やっぱり寂しそうだ。ばーちゃん(三津子の母)は先週からようやく勤め先に顔を出せるようになったという。家に居ると思い出して辛いから、その方が気が紛れると言っていたそうだ。
身内には「葬儀済みました」の挨拶状は送っていなかったが、お姉さんは先日ゆうちゃんが三津子の遺骨を納骨まで保管するために取りに来た時、見せてもらったという。その時同梱した絵はがきと、三津子の写真の額を作って、お姉さんに送ることにした。ばーちゃんは思い出して辛いから写真もいらない、と言っているという。
俺の場合はあの人の写真が無いと駄目だ。もし写真が無かったら、そして猫も居らず完全に一人だったら、正気を保っていた自信がない。

時折、自分はなぜこんなに詳細な記録をつけているのだろうかと、またも疑問に思ったりする。

もちろん三津子が倒れて、彼女の声を聞けなくなってもう一ヶ月が経とうとしているから、話し相手の居ない寂しさと、自己を相対化することで悲しみを一時でも忘れようという意味で、向き合っていることは理解している。それにしても、何かしていないと駄目になってしまいそうで、まだ怖い。

お姉さんの電話を切った後、こちらは精華大に油彩画を寄贈した時に一緒にお渡しした額と色違いのものを取り出した。横長に円形の窓が3つ空いているオシャレな額で、それに入れるよう、デジカメや原画の画像を探した。
デジカメの画像は2000年代に入ってからのものなので、それ以前は昔のアルバムを見なければならない。一番の「近影」は今年に入ってから白浜や奈良を回った旅行よりも、京都転居から半年ほど経った、府立植物園でチューリップをバックに微笑んでいるものが、やっぱりあの人らしい。
お姉さんにしてみれば、京都へたった一人の妹が引っ越してしまった「後」のものより、少し旧くても俺たちが元気で仲良く暮らしていた写真がいいかなと、押し入れを探った。

「アルバム」と書かれた段ボール箱が一番上にあって、開けると俺と三津子が暮らし初めて数年経った頃のアルバムが出て来た。
二人で写っている写真も何枚かあるが、やっぱりベタベタしたものはなく、離れて立ったりしている。しょうがないなあ、と苦笑する。
アルバムをめくっていって、一番最後のページを見て「アッ」と声が出た。
そこには、俺たち夫婦と二人の娘が四人揃ってご馳走を囲んでいる写真が貼ってあった。
これは『アサヒグラフ』に掲載された際、プロカメラマンに撮っていただいたものの紙焼きで、ずっと探していたやつだった。団地の近くに仕事場を作って、ほぼそこに夫婦の生活がシフトしつつあったあたりだから、おそらく15年ほど前だと思う。巻末のカラーグラビアページに「我が家の食卓」というコーナーがあり、そこに掲載したいということで、当時の仕事場の近くにあった和食割烹の座敷で撮影されたものだ。
団地も仕事場も、撮影で人様に見せられるような部屋など一つもなく、外食を撮って貰うという苦肉の策だった。
写真の中で豪華な料理(お店が紹介されると聞いてフンパツしてくれた)を囲む俺たち夫婦はまだまだ若く、ももちゃんもゆうちゃんも化粧をして大人びた格好をしている。まあ色々なことはあったけれど、みんなそれぞれ笑っている。
幸せな「団欒」がそこにあった。

その写真は粘着性のある台紙に貼って、上から透明なフィルムをかける形式(…つまり「フ○ルアルバム」)に貼り付けてあるものだ。このアルバムは自由にページを増やせて、いちいち糊やテープなどを用意せずとも、アルバム台紙と透明フィルムの間に写真を挟めばいいというもので、一時期ずいぶん流行ったものだ。けれど今は、その大切な、唯一と言っていい四人の団欒の写真は、剥がそうとすると写真が剥離せんばかりにキッチリと張り付いている。恐らく無理に引きはがすと、写真が壊れてしまうと思う。
なので、フィルムをめくり、写真台紙ごとスキャナーで取り込んだ。
そうして三津子がチューリップをバックに微笑んでいる京都での写真、『樹のうえで猫がみている』でジローを描いたイラスト、それから『アサヒグラフ』に掲載された写真をトリミングして、プリント、額装した。
それを送る梱包の前に、宅配便の集荷依頼をして、それから仕事のデータが入っていたのでまずそれを片付ける。データを転送している間に、お姉さんへの額装にエアキャップをかけて、さらに保護をし、ポストカードと近況を伝える短い手紙などを添えて、梱包した。23:38
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
やまだ紫クロニクル

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