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2009-05-25(Mon)

二通の手紙のシンクロニシティ

5月25日(月)

夕べは12時半ころ就寝、シマをなでているうちにすぐ寝られた。ユキは寝るときに「ほら、おいで」と手話で一旦上へ誘導したのに、またすぐ下へ降りて行った。まずいなあと思っていたがこの日「夜泣き」はなぜかしなかった。
朝は8時前に目が醒め、うつらうつらして9時ころ起きる。今日も仕事がある。こんな時代に仕事があるということに感謝しなければ、しかも自宅でできるという幸運にも。
朝はおにぎり2つをウーロン茶で食べた。今日は薄曇り、午後からは日が射すらしい。

仕事をしていると1時過ぎ、旧知のライター・神田ぱんさんから電話があった。三津子を悼み俺の体を案じる手紙を書いているうちに、電話した方が早いと思ってかけてくれた。10分少々話しただろうか、ぱんさんは俺が病気になったときにはお見舞いをくれ、今回も香典を送っていただいた。お子さん二人を抱えて何年か前に離婚されたのは知っている。そちらこそ大変でしょうに申し訳ありません…と感謝。何か手伝うことがあったら言ってくれれば手弁当で行きますよ、とも言って下さった。お気持ちだけ、有り難く…と話す。

その後仕事を一段落させ、BSでヤンキースが負けた試合を見て、1時半ころ着替えて外に出た。タクシーを拾って左京区役所へ行き、住民票と印鑑証明を貰う。すぐ外へ出ると青空が出ていて、暑い。通りかかったタクシーに手をあげ、近所の交差点で降りて、今日の晩、明日の朝の弁当と総菜を買って帰宅。すぐに手洗い、うがい。
うちでは俺が白血病で入院した後、マスクは50枚入りのサージカルマスク(不織布)を3箱ずつ買って常備してあったのがほとんど一箱残っている。消毒用のエタノール溶液ボトルも家の各所に欠かさず置いてあって、今回のインフルエンザ騒動でもひとまず防疫体制(というほどではないが)は整っていた。
マスクをいつも買っていたサイトを覗くと「品切れ」で「入荷未定」とあり、別な大手のサイトでも割高な小分けされたもの以外は全滅だ。これでは本当に罹患した人がつけられないのではないか、と余計な心配をする。

今日は『コスモス短歌会』の桑原さんからお手紙と香典、中央公論新社のTさんから手紙が来ていた。それと本当に色々とやることがあって、途方に暮れるとはこのことだ。そうして家の中は全く整理がついていない。掃除すらたまに床にモップをかけ周辺をハンディ掃除機で吸う程度で、ほとんど出来ないでいる。病人がたった一人なので重いものの立ち運びがしんどいというのもあるが、やることばかりに気があせって、結局何かをして一段落すると全く動けなくなる。そうすると悲しみに襲われる。

中公のTさんは『BlueSky』連載当時「婦人公論」の編集部にいらした方で、やまだ紫がエッセイや連載にとずいぶんとお世話になった方だ。そして夫婦でずいぶんとご無沙汰もしていた。
実はTさんは3年前にご主人を病気で亡くされたと、その手紙で知った。
お互いケンカや行き違いはあったが、ずっと身近にいた気の合う「伴侶」を失うという喪失感と虚無感は、いまだに消えないという。もちろん周囲の方々のお力や励ましがあって、何とか普通でいられるようになったのだと思う。けれど明るくなったねとか、元気になって良かったと言われても、本当の心は自分しか解らない。

「多分ずっと、この『つまらない』気持ちを抱えていくのだと思います」

…本当に、その通りだと思う。

二人で見たり聞いたり食べたり笑ったり泣いたりケンカしたり…。
ごく普通に、お互いがお互いの傍に居た、あの時間。
底の深いところでしっかりと手をつないでいた最愛の人の手が、離れていく。

俺も「しっかりしなさいよ」「元気だせよ」「いつまでもメソメソしてんな」と言われるのが、実は一番しんどかった。
今でも正直言うと、苦痛でしかない。
人生で最大最悪の悲しい出来事があって、たった数週間で立ち直れるはずがあろうか。だけど自分以外の人には、例え身内であったとしてもこの喪失感、孤独感、そして虚無感は解ってもらえないと思うから、しっかりしているように、元気を出しているように、メソメソはしないように、頑張って見せているだけだ。
親兄弟には申し訳ないが、これほどまでに大きな絶望と虚無感は、生涯でもう二度とないだろう。
なぜなら、人生の半分以上を、二人三脚で一生懸命生きてきた「連れ合い」を失ったからだ。最愛の伴侶を失うということは、俺にとっては自分の死よりも辛く悲しいことだ。

自分が癌宣告を受けて入院した時に「死ぬのは嫌だ」と思ったのは、俺が死ぬことそのものを言ったのではない。連れ合いつまり三津子を一人残すこと、つまり半身をもぎ取られた苦痛に、彼女が残りの人生ずっと耐え続けなければいけないこと。そのことが溜まらなく辛かったからだ。
俺たちは一心同体という言葉ですら陳腐なほど、深いところで結びついていた。
だからたぶん、この先もカラ元気を出して時には笑顔を見せなければならない場面がたくさん来ると思う。けれどもそれはそうやっていくしかないから、そうしないと生きられないから、そうするのだと思う。


『コスモス』の桑原正紀さんの奥様は、何年か前に突然脳出血で倒れられた。不幸中の幸い、重度の麻痺が残ったが、何とか夫である桑原さんの愛と支えによってリハビリを続け、何と今では車椅子から立ち上がって歩けるまでになった。
奇跡の回復だ、と思った。
今年の年賀状には、その写真が使われていて、俺たち夫婦は
「良かったねえ、ご主人大変だったろうに、でも通じたんだね」と言って二人で喜び合った。
その時三津子は「ちかおがもし倒れても、私がオムツ取り替えてあげるからね」と言ってくれた。言いながらもう涙ぐんでいた。俺も同じことを返したが、「でもあなたの場合なら軽いから俺はいいけど、俺の介護をするのは大変だよ…」と軽口を叩いたと思う。
介護さえ、させてくれなかった。

もう五年以上前になるだろうか、桑原さんとは、三津子…やまだ紫の連載の話で一度、夫婦同士4人でお会いしたことがある。故・宮柊二氏主宰の「コスモス短歌会」の会誌『コスモス』に、ぜひ連載をお願いしたいと言って下さった。創刊50年、日本最大の会員数を誇る短歌会に「認めていただいて嬉しい」と三津子は喜んでお受けすることとなった。桑原さんも「やまださんの『ことば』は漫画の世界だけでなく、詩や短歌の世界にも通じると思います」と言って下さり、俺も嬉しかった。
その時桑原さんご夫妻が、三津子と同じ昭和23年のお生まれだと伺った。桑原さんの奥さんの房子さんは、当時ある高校の校長先生をされていて、三津子は「先生、というオーラが出てる方ですね」と言っていた。「同い年とは思えないくらいしっかりしてらして」とも言っていた。「そうでもないんですよ」と奥さんは笑われた。
楽しい酒席だった。
その奥さんが、数年前に突然脳出血で倒れ、一時は寝たきりになると言われた。ご主人が懸命の介護を続けられ、リハビリを根気強く助け、そうして、立ち歩けるところまでこぎ着けたのだ。

同じ年齢で同じ脳出血で、桑原さんの奥さんは絶望的な状態から驚異的な回復をされた。

三津子の場合は…。

三津子が倒れた後、俺が手術を強く望んだのは、この桑原さんご夫婦のことを知っていたからに他ならない。

突然倒れた衝撃、絶望、悲しみ、苦悩…そんな中から、ほんの少しの希望を見つけ奇跡を信じて、必死で支えて来られた桑原さん。その様子は毎年年賀状やお手紙でお知らせいただいていた。
ご主人の正紀さんの歌集『妻よ。千年待たむ』は、そんな状態でも妻を愛し支え続け、小さな変化に喜びを感じる夫婦愛で、俺たちも読ませていただき、涙した。

俺も、命さえ助かってくれれば、どんな状態になっても絶対に介護してやる、奇跡を信じて。
あの夜、そう思った。
そう思う、そうするのが当然の努めだったと、今でも確信している。

桑原さんの手紙はそう言って下さっている、と思った。
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コメント

Unknown

私も一昨年大好きだった人が亡くなった後、ウイルス性の病気に二度罹りました。
自分でも、免疫力が落ちたな…と自覚していましたけど。
(これくらいのことで)免疫力が落ちるなんて、そんなにショックだったの!?と、人に笑われたこともあります。
でも自分の病気や、昨年父を亡くしうつ状態になりかけている母の姿を見ていますと、
哀しみで人が死んでしまうことって、確かにあるかもしれない
と…ぼんやりながらも感じることがあります。
白取様も、まずはお体大切にされて下さい。
心の軋みをむりやり取ろうとしても、無理はどこかに必ず歪みとなってしまうような気がします。
今は時に流されても、出来ることからされてみてはいかがでしょう…。
いつも偉そうな口振りで申し訳ありません…。
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
やまだ紫クロニクル

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