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2009-06-02(Tue)

枇杷の実を食べる

6月2日(火)

昨日は夕方から何も見るものがないので、DVDで伊丹十三の映画「たんぽぽ」と続けて「お葬式」を見た。
それから寝ようと思い、レンドルミン2錠だと効かないようなので、暗がりの中二人の薬袋などを入れた箱の中から錠剤を一つ見つけて飲んで寝た。12時過ぎに割合すうっと寝られた。

ところが今朝目が醒めると8時だったのはいいが、猛烈に眠くだるい。起き上がる気力がなかなか出ない。ビールをしこたま飲んだわけではないし、おかしいな…と思いつつ9時前にのろのろと起きた。
朝のルーティン…トイレや洗顔のあと仏様の水を換え線香をあげ、三津子のお茶を取り替えて、写真の周りの花の水を換えたり枯れてきたものは捨てたりして整える。それから台所の洗い物をする。さらにTシャツを着て新聞を取りに行き、ソファに倒れ込むが、どうにもそれだけで何もやる気がおきない。確かにこの上猫のトイレの始末や仕事のメールチェックなどをしなければいけないことが残っているのに、気力が出ない。やる気が出ない上に生あくびが出る。ソファに転がってBSで何とはなしにイチローの試合を見ていたら眠くなってしまった。眠っているのと起きているのとの中間くらいの間で、部屋の中にいて同じ状況の夢を見ている。この部屋の今真正面にある壁の壁紙がなぜか濡れて、ぺろりと剥がれ落ちそうになるのを必死で抑えていたり…という変な夢だ。そうして朦朧としているうち、アッと気付いた。
昨日飲んだ余計な薬は何だ。
ゴミ箱を見ると銀紙に「メイラックス」と書いてある。
これは三津子が生前貰っていた抗うつ剤、いわゆるマイナー・トランキライザーだ。うかつだった、しかも持続時間は超長時間、60時間以上から100時間以上残る場合もあると書いてあるところがあった。つまり今もこうして眠いようなだるいような感覚があるのは、この薬のせいだった。
確かに自分は最愛の妻を亡くし、ただでさえ鬱状態に近いところにあるのは自覚している。けれども処方薬、それも抗うつ剤を飲むなんてとんでもないことをしてしまった。深く反省すると同時に、これまで三津子が貰っていた薬、残っていたものは全て整理し、注射針などは病院で医療廃棄物として処理して貰おう。


その後昼はまた日射しが強くなってきたので、苔玉を水につけ、枇杷の木や草などに水をやる。それから1時前、冷凍のピラフを温めて食べた。
その後メールチェックしていると、Nさんという知らない方から、新聞にやまだ紫の追悼コラムが載ったと教えてくれ、その画像を添付してくれた。「朝の風」という匿名連載の囲みコラムだが、ずいぶんとキチンとやまだや「COM」、「ガロ」について把握していて、評価して下さっている。どうやら同世代の人が書かれたらしい。何のコラムか解らなかったので、御礼と何に掲載されたかを聞くメールを返信した。
そうするまでもなく自分で検索してみると、そのコラムは「しんぶん赤旗」であることが解った。間もなくNさんというその人からも、「赤旗」であることを連絡してくれた。携帯でわざわざ撮影して添付してくれたそうだ。俺が読んだこともなく、これからも読むことのない新聞でしょう、とも書いてあった。

そもそも「ガロ」や「COM」が元気だった頃のアクティヴな読者というのは、バリバリの学生運動世代だ。知り合いの学生運動世代のご夫婦によれば機動隊との「戦い」の中、「腹に『マガジン』を巻いてた奴も多かったけど、本当の硬派は俺たちみたいに『ガロ』を巻いてたんだよ」と笑っていたことを思い出す。
そうしてその世代の人たちは朝日新聞や赤旗といった、いわゆる左翼系の言論・出版界へ入った人も多く、「ガロ」時代はそういう人たちがずいぶん好意的に作家や作品を取り上げてくれていたことも思い出す。
もちろん、あの時代を経験した人たちは右も左もなく、さまざまな分野へ散って行かれたのだけど、何か通底する意識というか(それが鼻持ちならない部分があったとしても)、金持ちのボンボンの世間知らず、政治家の二世だの三世だの、金や権力と見れば何もかも捨ててヨダレを垂らし尻尾を振る、そういったことを嫌う意識は共通であったと思う。もっとも徹底的に運動が弾圧されたために「転向」し、むしろそっち方面へ意識的に邁進する人も多かったらしいが。
ともかく、やまだ紫という作家を正当にキチンと評価して下さるということにおいては、嬉しいことだ。それをご連絡していただいたことにも、感謝申し上げた。

その後3時ころ、自転車で銀行から送られてきた書類の返信、簡易書留を出しに郵便局へ行った。切手はすでに銀行によって貼られていたが、嫌な予感がしたのと、書留はポスト投函では駄目だったかなと思って出向いた。窓口へ出すと簡易書留には速達印も押してあって、80円切手が7枚貼られていたが、案の定料金が90円足りないと言われて差額を支払った。こういう予感は当たるものだ。

郵便局を出て向かいのスーパーで今日の晩飯に弁当と、明日用に納豆巻き、それからサラダなど総菜をほんの少し買う。2000円でおつりがくる程度。買い物籠をぶら下げて総菜類を見ながら、心の中で三津子に「これ食べる?」「食べないか」と話しつつ買い物をする。
そういえばあの人がたびたび病院に入院していた頃、よくこうやって一人で買い物をした。家へ帰ってもあの人はおらず、買ってったものを一人で食べた。それでもあの頃は病院には三津子が居て、しょっちゅうメールでやりとりをしていた。だから寂しいと思ったことはあまりない。でも今は溜まらなく寂しい。

外は天気が良くて暑い。梅雨の前の、本当にいい季節だ。自転車を漕いで近くの交差点で信号を待つ間、山を眺めながら「三津子、いい天気だね。ここまっすぐ行ったら百万遍。曲がって川端抜けて河原町、それから二条もよく行ったね。」と心で話しかける。信号が変わってすぐ走り出し、まっすぐマンションへ帰った。

ポストには舟渡のマンションの管理費関連書類と、「放送人の会」の今野さんからの手紙が届いていた。今野さんの手紙は「たった二度しか会っていないのに、凄く印象に残る方だった」、また三津子が招かれた「InterBEE」でたった一度しか会っていない他の役員や出席者も、訃報を聞いて一様にそう言っていたという。
今野さんは『樹のうえで猫がみている』を見返して、改めて「大変な才能を失ったのだ」と思ってくれたそうだ。


…ひと段落すると、外でパトカーがうなり声をあげてマンション前で止まった。叡電の踏切安全確認の停止を怠った車を待ち構えてはつかまえている、いつもの光景だ。
網戸にしてあるベランダをそろそろ閉めようかと出て枇杷の鉢を見て、「そういえば」と思った。
さっきスーパーに買い物に行った時、レジで精算して帰ろうとフと出口の脇を見たら、枇杷の実がパック詰めされたのがたくさん売っていた。淡いオレンジ色の可愛い実が整列していた。

あっ、と思った。
そういやうちのベランダの枇杷の実も、もうこんな色だ。

さっきスーパーでそう思ったことを思い出して、ベランダへ出る。
4月の末にはまだ緑色だった実が、すっかり淡いオレンジ色になって、重そうに細い苗木がしなっている。
枇杷の実
その枇杷の実を2つもいで、よく水で洗ってから皮を剥いで食べてみた。
ほんのり甘くておいしい。
三津子の写真に「ほら、俺たちの枇杷。もう実をつけて、こんなに美味しいよ」と見せる。
あの地獄のような東京暮らしの最後、三津子が手術後の痛みでのたうち廻った日々。井坂さんに送っていただいた枇杷の葉を湿布して腹に巻いた。藁にもすがる思いだったが、「楽になった」と久しぶりに見せた三津子の笑顔が忘れられない。
その葉が無くなって、マンション前の工場の隅っこにあった枇杷の木から、葉をよくいただいた。「枇杷ちゃん、ちょうだいね」といつも声をかけた。その枇杷の木が工場移転とかで無残に切り倒されて、俺たちは泣いた。「今までありがとう」と合掌した(その時のことはここに書いた。)。
そうして今度は自分たちで苗から育てようと、近くのホームセンターに注文した。それが届き、取りに行ったのが一昨年(2007)の正月2日のことだ。
それが今、ベランダにあるこの枇杷の鉢だ。
枇杷は手がかからない、強い木だというが、実がなるまでは何年かかかると聞いた。
枇杷の苗木東京で住んでいたマンションは煤煙だらけの過酷な環境で、三津子が好きだった草花のプランタはことごとく全てが枯れ果てて、二人ともとても嫌な気持ちになった。植物を置くのはもうやめよう、と思った。
けれども一昨年の正月に手に入れたこの枇杷の苗は、何とか育ってくれないかと手を尽くしていた。
けれども、いくら枇杷といえども、ほとんど日が当たらず空気も悪い環境で、苗木はなかなか大きくならなかった。葉も力なくしおしおで、やっぱり駄目かと諦めかけていた。
その年の9月、京都への転居が決まった。
もちろん、枇杷の苗木も一緒に京都へ来た。
京都のベランダで、枇杷はぐんぐん成長した。途中から枝分かれをして、俺たちに嬉しい驚きを与えてくれた。
その枇杷が実をつけてくれた。

何だか俺たち二人の子のようで、可愛い。

あの、東京のマンションの目の前で無残に切り倒された枇杷の木。人目を忍んで、三津子の痛いお腹に貼るために、「ごめんね、ありがとうね」と言いながら葉を貰ったあの木。気が付けば京都のうちの周辺は枇杷の木だらけだった。枇杷が俺たちを守ってくれると思っていた。

三津子は逝ってしまったけれど…。

こんなに早く実をつけてくれるなんて思わなかった。そして、うっすら、ほんのりと甘くて美味しい。実一つから種が三つ四つ取れる。これを誰かの庭に植えて貰おうか、それとも疎水脇にそっと埋めようか。
「俺たちの枇杷」がどこかで生き続けてくれると嬉しい…。
三津子に枇杷を見せる
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コメント

迷信は迷信ですよ

うちの枇杷の木は誰も亡くなってませんが、毎年実をつけてくれますよ。
おばあちゃんが種を煎じて飲むと薬になるって言ってます。もちろんまだ生きてます!
せっかくそういう「迷信」を白取さんが否定して、実はお二人の子供みたいって言ってるのに、迷信は迷信ですよ。
白取さんはお気になされませんように。

そうそう、枇杷酒っていうのはご存じですか?梅酒みたいに作るんです。おばあちゃんのお気に入りですよ!
やまだ先生と白取さんが愛した枇杷ちゃんは、これからもいっぱい実をつけてくれますよ、死人なんか出ません!!

枇杷

この季節ちらほらと枇杷の実がなっているのを見かけます。
オレンジ色がわさわさと濃い緑の葉っぱから見えると、なんだか「旨そう!」などと思ってしまいます
 
  やまだ先生のご冥福をお祈りします


やまだ先生が亡くなったのに不謹慎かもしれませんが、
枇杷の実は植えている家の人?が死なないと実を付けないと母が言ってました。そう思うと実はやまだ先生の化身なのかも・・・
梅雨入りしましたが白取さんもご自愛くださいませ。

枇杷の種

おかげさまで(?)、数個を残し引き取られました。皆さん大切にして下さるとのこと、感謝申し上げます。

枇杷

種が欲しいという方、メールにてお名前とご住所をお知らせ下さい。大切に育ててくれる方にのみお譲りします。
といっても数個ですから、先着順とさせていただきますので。。。すみません。

びわ

お二人の枇杷の種、欲しいです。
どうすれば、いいでしょう?
絶対、必ず、育てます。約束します。

ご冥福をお祈りします

あまりにショックです。

やまだ紫さんの作品にめぐりあったのは、古橋信孝さんの論文に『しんきらり』へのコメントがあったのを読んだことがきっかけでした。

何気なく取り寄せたのですが、その選び抜かれたことばの世界にまず圧倒されました。心のひだを繊細に描いてゆく絵の強さも、私がそれまで体験したことのない「漫画」の世界でした。
こういう感動は源氏物語に通じる。この方は現代の紫式部だ。
と、思いました(勝手にすみません)。猫好きであるところも、自分に通じているようでものすごく嬉しかったのです。

平安時代の物語を研究対象にしている私は、いつか、ご本人に『蜻蛉日記』や『源氏物語』について、お話を伺うことができればなあ。などと思っていました。
残念でなりません。

やまだ紫さんの作品は、毎日の普通の生活の向こう側にいろんなものがあるのだということ、それを見つけるまなざしのようなものを教えてくれました。やまだ紫さんの作品のおかげで、私の人生は確実に豊かになりました。

やまだ紫さんのすばらしさをきちんと伝えていきたいです。
長々とすみません。ありがとうございました。





枇杷

僭越の極みとは知りつつ、お伝えしたくてなりません。
奥様を失うとはっきりと理解されてからの苦悩と、受け入れられていく課程。
今もなお悲しみの淵におありなのに、ファンに対するお気遣い。
やまだ先生の作品の評価は揺らぐはずもない確かなものですが、それを残していくことの難しさと苦悩。
世の中は軽薄になって行きますね。そういう中で枇杷の木に合掌されるお二人の生き方に感銘を受けるだけでなく、涙が止まりません。
でも、お身内でさえ共感されるとは限らないですよね。
だって、そんなに聡明で優しい人ばかりじゃないですから、世の中は…。
枇杷の種、欲しいなあ…って思いました。
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
やまだ紫クロニクル

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