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2009-06-10(Wed)

「手」

その後、もう一カ所ちゃんと見ていないところがあったな…と思い出して、三津子の仕事机の背面の隅に積んである箱をいくつか調べた。
そこは俺たちのどちらか、あるいは両方が見えなくなるといつもユキが乗っかって尻尾をくわえてはくるくる廻っていたところだから、抜けた毛がわたぼこりのようになって、舞い上がる。
そこから静かに箱を降ろしては、開ける。
一つの箱は編み棒や編み物の本などで、もう一つは油彩の道具などの画材だった。最後に一番下にあった箱を開けてみると、スクラップブックやノート、写真などが雑然と入っていた。

十数年前から使っていたシステム手帳も出て来た。大学へ行くようになるちょっと前、五年くらい前までは使っていたと思う。毎日新聞に『お勝手に』というコラムとイラストの連載をやっていた頃の彼女の字は、しっかりした筆致でメモや住所録などが書き込んである。お金の貸し借りのことも、キチンと細かく書いてある。
手帳には彼女が好きで持っていたと思われる写真も挟まっていて、取られた記憶のない俺のポラロイド写真もあった。子どもたちのも、孫の写真も猫の写真も挟まっていて、つい挟んだものか、意識的に大切にしようと挟んだものなのか不明なものも多い。
途中から、彼女は病気病気の連続になって、いつしかそういう細かい「整理ごと」を諦めてしまったフシがある。
俺はこういう性格なので「ダメだよちゃんとしないと」と小言ばかり言っていたような気がする。

今ならもちろん、ここ数年はそれこそ自分にも痛いほど解る。
体がしんどい時、辛い時にそういう細かいことをしたくないし、言われたくないということが…。

病を得ると、黙ってじっと動かずにいたい時がある。ただ、一人にして欲しいわけでは決してない。むしろ、誰かが傍に居て欲しい。優しく、それでもこちらへアンテナは向けつつも普通に居てくれればいい。そうやって見守っていて欲しい…。

三津子はここ数年、「生きる」ということだけに精一杯だったと思う。ふたりで、一緒に暮らす日々をどれだけ長く続けられるか。それだけに頑張っていたのだと思う。
もちろん、暮らしの中での細かい雑事はある。けれど彼女がずっと全身全霊で守ってきたふたりの子どもたちは、もう母となり家を出て久しい。自分自身も五十を過ぎてからは病気、入院の連続だった。挙げ句の果ては連れ合いである俺が白血病、だ。
京都へ来てからは、もうとにかく「ふたりで一緒に、一日でも長く生きよう」が合い言葉だった。

彼女の歩んできた足跡が、名残が、息吹が、遺されたモノたちからしっかりと伝わってくる。書かれた文字、写真に残るちょっとした仕草。
彼女が断固として「守ろうとしたもの」があった若い頃のものからは、彼女の「強い気持ち」が横溢しているのが解る。
けれどもここ数年の文字は筆圧も弱く、文字もどこか気怠いものになっている。今年に入ってからの写真などはもう、彼女の存在そのものが、はかないものに見えて仕方がない。
もちろんそれは、今もう彼女の命が尽きたという事実から考えているのでそう見えているのだろう。それに人間だから単純に年齢的な「衰え」だってある。
娘であり、妻であり、母であり、作家であり、何よりも素晴らしい一人の人間としての三津子というひとの生涯を、俺のようなチンケな人間がどう語り、後世へ遺し伝えようというのだろう。
彼女自身がこれまで、インタビューや『満天星みた』『東京ノスタルジア』といったエッセイから、最後になった『愛のかたち』まで、自分で語っていることが何よりも全てだろう。
それと、作家としてはその「作品が全て」であることもだ。
その、
彼女自身が語った彼女の生き様と、
作家としての生き様すなわち作品
が遺せなければ、俺は死んでも死にきれない。
やはり、俺にはまだ生きねばならない理由があるのだ。理由…いや使命があるのだと思う。

気が付いたら夕飯の時間だった。朝コンビニで買っておいた弁当で簡単な夕飯にする。弁当は暖めるだけだが、冷蔵庫にお袋が送ってくれたたらこがあったので切った。三津子にはいつものように陰膳をする。小皿にたらこを少しと、弁当のおかずをちょっと。
「こんなものでごめんね、でもたらこは北海道産の最高級だよ」と言いつつ、ビールで三津子のお酒と乾杯をする。たらこはすこぶる美味で、三津子にも「うまい!」と話しかけた。
不思議なもので、傍らの携帯を見ると、ちょうどそのたらこを出して切っていた時刻にお袋からメールが入っていた。店…やらないよりはマシというバーも、不景気で寂しいという。こちらは梅雨入りして雨だが、それがまた寂しいね、と返す。
こんな他愛のないやりとりがあるだけで、寂しさが少しだけ紛れる。誰からも連絡がない、メールさえ来ないという日が、一番辛い。

食後、パソコンに保存してある三津子の『樹のうえで猫がみている』のデータを見ていた。
『樹のうえで…』はもちろん、詩人であったあの故・吉原幸子さん主宰の『ラ・メール』に連載されたものだ。もう20年ほど前だろうか。当時は当然一家に一台パソコンがあるどころか、携帯さえなく、インターネットさえ誰も知らない時代だ。なので、当然見開きの詩画連載は手書き原稿で入稿していた。
それを筑摩書房が本にしてくれたはいいが、例によって全くその後再版をせずほったらかしだったので、俺がデータ化をして、CD−ROMにしたのだった。

原画のスキャンは印刷レベルの解像度で保存してあるが、WEB閲覧形式のCD−ROM用データ、つまり詩と合成した「版下」データは当然ながらWEB解像度だ。印刷には向かない、モニタで見るためのデータである。
思えばCD−ROM化するにあたって複製や不当に印刷などされないため、当然印刷クオリティより劣る解像度で収録したのは当然のこと。けれどその元になったはずの高解像度の「版下」データがない。
原画自体は高解像度でスキャニングしたデータがあるので、版下も当然残してあると当時の俺が勘違いしたようだ。フォルダの名前が「PSD」になっているから、きっとそれが高解像度の版下データだと思っていたフシがある。

この見開きの詩画作品は、『樹のうえ…』から十数年を経て、今度は短歌誌『コスモス』で『見上げれば虹』として再開された。
『コスモス』は『ラ・メール』誌と同じA5判で、この頃はもう毎回原画を取り込んで版下にし、データ入稿していた。
一度には無理だが、出版出来るくらいの高解像度データはあるので、版下さえ作っておけば製版・印刷コストがずいぶん削減されるし、自費出版してもいい。利益を出すことなど目的ではないので、いっそのことそうして全国の図書館や学校に寄贈したいとも思っている。

とりあえず『樹のうえ…』から、俺の大好きな一篇『冷や酒』を版下データにした。モノクロ2階調で、350dpi。プリンタで出力してみると、綺麗に出た。商業印刷に出来るクオリティだから当然で、「紫」の落款を押してフレームに入れて飾ってみる。

やはり、本当に絵といい詩というか散文があの人らしくていい。子ども達が寝た後の団地のちゃぶ台。仕事を終えた自分へのささやかなご褒美に、湯豆腐に冷や酒を用意。そんなひととき、何を思ったのか、感じたのか、彼女は涙する。
その光景を思って今、俺が涙している。

今、仕事机の前には彼女が元気だった頃の写真が何枚も立ててある。
たぶん1984年ころ、俺と知り合う直前の団地に居る三津子。
85年に「ガロ」の編集や作家さんたちとソフトボールをやっていた頃、俺たちがエビスさんたちと公園の椅子でカメラにポーズを取っている奥で、羨ましそうにこちらを見ている三津子。
86年ころ、いっしょに住むようになってすぐの、優しく微笑む三津子。
87年に家族四人で旅行した時、俺の隣でちょっと照れたような顔をしている三津子。

これらから二十数年後に京都で、彼女の頭の中の「時限爆弾」が炸裂することなどもちろん、誰も知らなかった。
俺も病を得てから、人間誰もが生まれてから避けられない「死」に向かって歩む…などと悟ったようなことを言ったこともある。
だけど俺たちが一緒になってから、彼女が先に死んでしまうなど、本当に考えたことがなかった。特に4年前に癌宣告を受けてからは、絶対に俺が先だと決めつけていた。
十七も年上なんだから仕方がない、と考えたりもした。それにもし俺が先だったら遺された彼女はどうなっていたかと考えれば順序はこれで良かったと考えもする。
でもそれらは全部「彼女が俺の側にもういない」という事実をどう脇へ追いやるか、いかに直視せぬよう視界の隅へ隅へと移動させるか、そのための屁理屈に過ぎない。

写真を見れば思い出が吹き出してくる、激流のように彼女と過ごした時間が、記憶が、感情が押し寄せてくる。メソメソするわけではない、むしろあまりに真正面からそれを見据えて受け止めたら、自分が崩壊しそうで怖い。だからわざと気を逸らしている。

ここまで書いたところでユキが俺の左後ろに積んであった段ボール箱に飛び乗ろうとして、足場にした本を崩した。ユキが載ろうとした箱は昼間にいったん開けて、あとで原画や掲載誌などを整理していこうと思っていたものだ。
フタがピシッと閉じておらず、その上に額を入れてあった箱が軽く乗せてあっただけで、ユキはどうやらその上に載ろうとして額の箱を落としてしまったらしい。
抑えていた額の箱が落ちて、フタがパカッと開いている。その段ボール箱を見て、なぜ開いているのかを確かめると、中にあった一つの封筒が出っ張っており、フタを押し上げていることが解った。

その封筒を取り出して見ると、中にはスケッチブックが入っていた。
もちろん三津子のものだ。
開いて見ると、2003年のカレンダーを作った時の原画だった。
前に展覧会をやったり、招き猫のシールを作ったりしたらけっこうファンの人が喜んで下さったので、三津子の絵を取り込んでCGで着色し、カレンダーを作ったのだった。原画は買えないけれど、カレンダーなら欲しい! と言って下さる方が何人か居て下さって、好評だった。
その元になる原画なので、当然モノクロの線画だけが描かれている。CGで着色などするよりも遥かに、彼女の繊細な線が美しい。
見たことのない絵、いや下書きも数点だけ描かれていた。でもその数点以外はほとんど使っていないスケッチブックだ。

メモするとその間に小さなメモ用紙が挟まっていた。
「耳セン、リップクリーム」
とメモ書きがしてあって、それを線で打ち消した下に、散文が書かれていた。耳センとリップ、これは入院の時の買い物だとすぐに解る。恐らくは詩画のアイディアやフレーズを、手近なメモ用紙に書いて、いずれちゃんと推敲して絵を添えようと思ったのだろう。


「手」

「子育て盛りの娘の腕は、日焼けをし
血管が浮き出して筋肉もたくましい

子育てを終え娘達も結婚し
力仕事もしなくなった私の手は
生白く偏平で力もない

その手を握ってくれる夫がいる」


と書いてあった。

それを見た瞬間、今まで堪えてきた涙が一気にあふれ出た。

俺が昔の写真や動画を見て、自分を責めている。それを見た三津子が、今、これを見せてくれたのだ。
ありがとう、君はほんとうに優しい人だ。
メソメソする自分をいつもこうして慰めてくれようとする。それが俺には嬉しい反面、やはり悲しくて寂しくて仕方がない。

彼女の手の感触はまだはっきりと覚えている。忘れたくない、ずっと。
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
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