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2009-06-15(Mon)

6月15日(月)

夕べは11時ころには上へ上がっただろうか。いったんテレビをつけるが何も無いのですぐに消して寝た。
朝は何度か目が醒めたが、はっきり醒めたのは7時過ぎだった。デジタル時計を見ると「7:17」、俺の誕生日だったので、思わず「三津子…」と声に出した。しばらくベッドの上でうとうとして、8時過ぎには起きた。ユキは足元にベランダの方を向けて置いた椅子の上にふかふかのマットを敷いてやったところに居て、ずっと外を見ていた。
朝のルーティンを終え、三津子の花の水を換えようと花瓶を台所へ移すと、うす紫のユリの花びらがぽとりと落ちたので、落ちる前に取ってしまう。もうこれであと一輪。それにしても4日に二輪開いた状態のを買ってきたのに、その後次々と三つも咲いて、凄い長持ちをした。こないだ買ってきた黄色い同じ種類のユリはまだ3つともつぼみのままだ。

朝は9時ちょいから仕事をする。今日はやけに目と首、肩が疲れた。いったん休みがてら、10時半ころにポトフをレンジでチンして、トーストにバターを塗ったのとで食べた。しばらくすると眠くなってきて、12時ころまでうとうとした。
朝食が入ると胃に血が集まって眠くなるのね、とよく三津子は言い訳ぽく笑いながら、食後はソファで寝ていた。もちろん怠惰な意味ではなく、体が疲れていてそれを要求しているという風情だったから、俺はいつもなるべく起こさないようにそっと動き、テレビの音を小さくしたものだ。
今日は晴天、日射しも強い。12時をまわってしまい、仕事を終えると、やることが山積していることを改めて考える。

三津子の遺したものたちを、どれ一つ感情的には捨てられないものばかりだが、そこはこれから子供たちと相談しながら、整理していかなければならない。原稿や画稿、形見として遺しておくもの、そういうものの分類を一人では全て出来ない。
それと相続とか準確定申告とか面倒くさい法的な手続きも残っている。これも子供たちが揃わないと何も出来ない。
その後で、ゆくゆくは引越さなきゃならないだろうし、一人の生活では不要なものを全て処分するとか、俺にしてもそろそろ人生の終わりのこと、俺が死んだ後のことを考えて整理をいろいろしたい。それも出来ないままだ。
毎日自分の仕事のある日はそれをやるが、それ以外はたいしたことも出来ずに過ごす日々が続いている。四十九日までは仕方が無いと思うが、やりきれない。三津子が居ない、一人なのだという事実をただただつきつけられる日々が耐えられない。
こういう気持ちを理解してくれと言っても誰にも無理なのだろうな、と思う。余計にやりきれない気持ちになるだけだ。

仕事部屋の机周りだけでも整理したいが、この間押し入れを整理して三津子の本を探した時に出て来た、俺が「ガロ」編集部時代の献本とか資料本の箱がドカッと2つ3つ出て来て、積んだままになっている。これらをエイヤと二階へ移動させ、いずれ不要な本をまとめて業者なりに買い取って貰うなり、いずれにしても一カ所に集めておきたいのだが、その体力がない。健康体なら問題ないが、腹に力を入れられないから、腕力だけで運ぼうとするので、どうしても限界がある。こないだはちょっと頑張ったら両腕と手首に痺れが出て、腰をおかしくした。
そんなことで出来ない作業がけっこうある。どう考えてももういらないと思うものをゴミ出しするとか、まとめておくとか。いずれにしても便利屋なり業者に来て貰って、一度整理したものを持ってってもらうしかないとは考えている。考えているがそこに至るまでの下準備、作業が出来ないのがはがゆい。

考えながら立ち歩いては衣装部屋へ行き、三津子の服の匂いをかいだり、抱きしめたり、カバンの中を探って注射針をいくつか見つけてボトルに入れたり。
仕事机の傍らに、こないだ押し入れを整理した時に出て来たビデオが数本崩れていたのを集めながら、「どうせもうこんなの見ないよな…」と思って捨てようとして、ラベルに「やまだ紫」と書いてるのを発見した。
「VARIETY vol.6」と俺の字で書いたラベルがケースに貼ってあり、中のテープのINDEXラベルの一番最初に「'89-10-25 NHKイブニングネット・やまだ紫」と書いてある。20年前の録画だ。
さっそくうちのDIGAに入れてみる。うちは前のDVDレコーダも今のHDDレコーダも、VHSが一体についているタイプのものだ。なぜならうちはVHSの録画テープが山ほどあるからだ。昭和天皇の大喪の礼の時などほとんど一日中、あちこちの局を録画していた。オウム事件も報道や特番などを録画しまくった。その他には三津子の仕事のネタや自分たちの興味が少しでもあればいずれ見ようと思って、「NHK特集」(後のNHKスペシャル)はほぼ毎回撮っていた時期もある。
一番多いのは大相撲ものと心霊・オカルト・UFOものなどだ。大相撲は子供の頃から好きで見ていて、20年ほど前は関取というとけっこうなスター扱いで、「相撲特番」もけっこうあった。それらをよく録画していたし、なんだかんだで数十本あるから、今となっては貴重な映像もけっこうあるはずだ。
オカルト関連はもちろん「面白いから」で、何もオカルト全面肯定しているわけではない。四半世紀もこうして録画したりいろいろと見ていると、ほんとうにいかがわしい奴が現れては消えていくのを見せられてきたなあ、と思う。もちろんメディアに出なくなっただけで、一回テレビにでも出れば、その残滓で地方へ行けばいくらでも稼げることだろうから、商売替えしたわけではない人たちもいるのだろうけど。
例えば今話題の「○○の母」が、何と「霊能力者」という触れ込みで、どこかに霊視だか除霊に行った番組なんかも覚えている。
もっと昔(あの逸見さんが司会した番組だった)、街頭で「名刺占い」をやっているという若い女が、十数年後に立派な「霊能者」とやらになって「除霊」を行っている映像も見た。
いずれも俺たち夫婦は「あれっ、お前占い師だったじゃん」とすぐに解って、ツッコミを入れながら笑ったものだ。
テレビ局も次から次へとほんとうに解りやすい偽物ばかり出してくるが、我々は何十年もそういうのを「ウォッチング」して来たから、ヘタな心霊研究家とかコメンテーターよりよほど精通していると思う。

そんなことはどうでも良いが、発見したVHSはかなりテープの状態が悪く、途中から「キィィイイ〜」と変な音がし出して、映像が波のように細かく揺れ出したものの、何とか10分弱のやまだ紫の放送部分はHDDに移すことが出来た。

やまだ紫という人は『しんきらり』発表後、「自分マンガ家」とか「主婦マンガ家」とかレッテルを貼られて、こうしてよく「解りやすい例」としてテレビや対談に引っ張り出されたことがある。
このNHKの夕方のニュースか何かの一コーナー、「くらしの中の芸術家たち」というのは三回シリーズだったらしく、その三回目ということだった。
『しんきらり』の中のシーンをカメラで写しつつ声優がアフレコを入れて再現したりしながら、やまだのインタビューや、子供たちとの夕食の支度の風景を撮影していた。
やまだはインタビューで
「主婦と漫画家と区別して生きてるわけじゃないですからね、全部つながってることでしょ。いつでも自分がやってるってことだから。ことさらその…大変なことだろうとか、そういう風に考えたことはないですね。」
そう言っている。
けれども報道する側としては、「主婦をしながら」「母として」「家事に手は抜かない」とかいう部分を強調したいわけで、そういうかたちで構成されている。
最後に若いキャスターが
「生活の中で言いたいこと、伝えたいことがあるんだけどうまく伝えられないときに、やまださんのように表現手段を持っているというのは強いし、羨ましいな、とも思いました」
と締めていた。
男性キャスターも「色んな価値観に振り回される時代になって、これからそういう自分が生きてきた証とか、そういう自己表現をしたいと思う人が増えて来るんでしょうね」というようなことを言って、コーナーは終わった。まあそういう了解なんだろうな、と思う。

やまだ紫という作家が「COM」でどれだけ凄い作品群を発表し、同時代の才能や読者の度肝を抜いたか、そして世間は何も知らずに「結婚・出産・育児による休筆」と簡単に総括する時間、どれほどその才能を発表したくても出来ずに泣いたか。そういうことは何も知らされていなかったのだろうな、と思った。彼女は「主婦マンガ家」とか「生活に追われる主婦だって何かを表現したいんだ」という人ではなく、
もともと
作家であった
人なのだ。
「マスコミ」は当然ながら見ている人の数もケタが違う。
だからこういう浅い「了解」のうえでイメージなりレッテルなりを決めつけられてしまうと、そういう「了解」が広く伝播することにもつながってしまう。
もちろん夕方のたった十分ほどの一コーナーで、そこに登場する作家を深く理解したうえ、「創作とは何か」という話をするのは無理だろう。だいたいが、主婦層に向けての放送時間帯なので、それを見た人に「私もこの人みたいに何かをヒョーゲンしたいわ」と思わせる、そういうことでいいという番組造りなのだろう、と。
それに、決して世間的に有名な媒体ではない「ガロ」から出た自分の作品(『しんきらり』)が少しでも売れるためには、多少の「誤解」があったとしても、こういった「マスコミ」に出ることは作家にとっても利益にはなる。

映像の中のやまだ紫…三津子は、まだ40歳そこそこで、当たり前だけど今の俺よりも若い。短髪で、当時流行っていたせいか(?)、太い眉を描き、いつもはしない濃いめの化粧をしていた。そしてもちろん、健康そうで、とても理知的に見える。
「今は二人のお子さんと三匹の猫を養う毎日です」とナレーションが入り、団地の居間や台所にいる三津子が写っている。二人の子供達や、もう死んでしまった猫のそう太やマイちゃんもいる。
ナレーションで「ももちゃんは高一で、ゆうちゃんは中三」だと言っていた。

当時、俺はもうこの「家庭」の一員だった。一緒に暮らし始めて3年ほど経っていたか。貧乏な「ガロ」編集部員で薄給で多忙で、でも元気一杯で団地でみんなで暮らしていた。
映像で3人が作っていたのは、夕食のヒレカツだった。当時、夕飯はだいたい家族みんなで、団地で食べていた。俺は出版社キンムだったから、遅い日や外食もあったが、貧乏だったので家で食べる事の方が多かった。
こういう日は俺が帰って来ると、すでに玄関から揚げ物のいい匂いが漂っていて、すぐに三津子が俺の分だけ別に取っておいてくれたヒレカツをわざわざまた揚げてくれた。いったん油切りをして、すぐ山盛りのキャベツの千切りとカットレモンが添えられた皿に、揚げたてのヒレカツがどっさり載せられた。
着替え終わるともう、居間のちゃぶ台にはソースとケチャップを混ぜたタレと辛子の皿、湯気の上がったヒレカツがあった。そして大盛りのご飯がダイニングテーブルの上にあって、三津子はもう味噌汁をよそってくれていた。それらを受け取って、俺はリビングのちゃぶ台で、もりもりと食べた。

本当に、彼女の料理はおいしかった。
ヒレカツ、餃子、煮込みチャーシュー、ハンバーグ、カレー、唐揚げ、天ぷら、焼きめし…。子供たちも育ち盛りで、俺は若くて「食べ盛り」だったから、今思い出すのは油ものが多いけれど、キュウリのぬか漬けやなます、煮物、魚料理も多かったし、本当に料理が上手な人だった。
俺がいつもバカみたいにばくばく食べるのを、あの人はにこにこ笑いながら見てくれていた。俺が一食に一度は必ず「うまい」と言ってくれる、と喜んでいた。
だって、本当に彼女の料理はうまかった。小さい頃から家の料理を任されることが多くて、自然と料理はうまくなったのだと彼女は言っていた。
俺が校了まぎわなどでずっと遅い時、三津子は子供たちと夕飯を済ませていたけれど、そういう時は缶ビールを冷やしていてくれ、自分は冷や酒をお銚子に入れて、夕飯の残りものか漬け物を「肴」に、俺の夕飯に付き合ってくれた。
団地の、家族のリビング兼彼女の仕事場でもある、あのちゃぶ台に肘をついて、彼女は洋服ダンスに背を向けた格好で、夕飯をパクつく俺を見ていた。
俺が視線に気付いて「ん?」と一瞬箸を止めると、笑いながら「何でもない」と言った。「よく食べるな、この人」と思っていたんだと思う。俺も「よく食うなと思ってるんだろうな、この人」と思いつつも箸が止まらなかった。
幸せだった。
団地の雑然とした狭い、お世辞にも綺麗とは言えない住まい。
NHKの映像に俺は映ってないし、一緒に暮らしていることも世間には明かしてない頃だから、「三人と三匹」となっている。でもそこに俺たち「四人と三匹」が居た。
裕福ではなかったけど、つつましく、賑やかでいつも誰かが笑っていた。思春期の子供たちとは、難しいこともたくさんあった、そりゃあもちろん笑いだけじゃなく涙だってあった。簡単な話ではない。
でも、あれから二十年が経った今、二人の子供たちは結婚し、それぞれ二人ずつ「孫」を産んで家庭を持っている。大きく道を逸れることもせず、幸せに暮らしている。母親が何を成したか、そのことも理解している。
その「結果」が、三津子が母として正しかったことの「結果」なのだと思う。


7時をまわって、すっかり仕事部屋が薄暗くなった。
三津子のNHKの映像を見たあと日記をつけて、やっぱり涙が出た。
三津子の料理、おいしかったな。また食べたかったな…。
京都に来てからは二人っきりになったし、君も学校のストレスがあったから、おいしいものを二人で食べておいしく酒を飲もう、というのがあなたの唯一の望みになったね。だから料理もあんまりしなくなったけど、やっぱり団地で暮らしてた頃、あの子供たちのために、俺のために料理を頑張ってくれてた頃は、あなたも元気だったから出来たんだよね。
いいよいいよ。君の料理が食べたいなんて贅沢なことだ。本当にそう思うし、もう二度と食べられないことも解ってる。
こうして現実に戻ると、三津子が死んだという事実が辛くて仕方が無い。

また夜が来る。夜になるとテレビも何もやってないし、これをやり過ごすのは「三津子と差し向かいで晩酌」するしかない。このままだと俺もアルコール依存になるかな…とちょっと怖い。いや、もうまずいかも知れない。
でももう、三津子がいないんだからいいやと思う気持ちがどこかにある。三津子が心配してそばにいてくれるのなら、節制をして二人で出来るだけ長く一緒に居ようと思えるし、実際そう言っていた。でも三津子は…。俺が癌になり「先に死ぬ」と言うから、「じゃあいいや」と思ったんじゃないか。私も死ぬよ、と。
どこかでいつも俺はそう自分を責めている。

彼女は自分のせいじゃなく医者の誤診のせいで糖尿になった。膵臓が機能しなくなったからだ。そのせいで腎臓にも影響が出た。ちゃんと日記を見ていくと、その関連性がはっきりと解る。
糖尿でインスリン自己注射をするようになれば、普通はほぼ飲酒はアウト。厳格なカロリー制限と自己管理が必要で、それでも合併症に怯え続けなければならず、高血圧を併発していれば死亡の可能性がハネ上がる。三津子は糖尿のうえ腎臓が片方しかなく、その上高血圧だった。これだけ二人で京都で楽しく過ごし、暮らせていたことの方が奇跡だという考え方もある。
そう思えば楽になれる。
でも。でも。
三津子を救おうと思えば救えたのではないか。
いや、ダメだ。例え一緒に暮らしていた俺が脳外科医だったとしても、救えなかった。糖尿の専門医だったとしてもダメだった。
救えなかったのは解った、運命だったことももう了解した、それでも、なぜ俺がこれだけ自分を責め続けているのか。

それは、もっと優しくしてやれたから、だ。
なんでもっともっと優しくしなかったのか。
なんでもっと愛しているとちゃんと伝えなかったのか。
なんで…。
ああもしてやれば良かった、こうもしてやれた。
毎日そう考えて、考えては涙に暮れる。
その繰り返しを、せめて写真と向き合って酒を飲むことで、何となく二人で飲んでいるかのように思うことで、それで、それで…。
三津子、戻ってきてくれないか。
無理を承知でそう思う。
この願いを叶えられる存在などあり得ない。
三津子、せめて俺の側に来てくれないか。

ここまで書いたら、背後のリビングでつけっぱなしにしていたテレビから流れてきたのが
「愛の季節」
だった。
これが君の答えなんだね、そうなんだね?
涙でモニタが歪む。
君は俺を愛してくれたんだね?
ありがとう。ありがとう。
19:30:31
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
やまだ紫クロニクル

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