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2009-06-18(Thu)

何もしない日々3

6月18日(木)
夜中は3時ころ、それから4時くらいからやはり1時間おきくらいに目が醒め、朦朧。またこんな感じだ。強烈に強い睡眠薬でも飲まないと、もう朝まで熟睡できないようだが、それは怖い気がする。
ついこないだ、三津子が生きていて隣で一緒に寝ていた頃は、レンドルミンを2錠飲めばちょうどよく朝7時ころに目が醒めた。そういえば夜中に目が醒めて眠れなくなるなんてことは、薬を飲み忘れない限りあり得なかったのに…。

朝は9時前に下へ降りた。
うす紫と同時に咲かないかと思って買って来た黄色いユリは結局一輪も咲くことはなく、2輪のガーベラはぐったりと頭を下げていた。可哀想だなと思って「後で花を買いに行こう」と三津子に声に出して言った。
朝は尿酸値を下げる薬を飲み、それからイチゴジュースの材料が半分あったので、「イチゴジュース飲もうか」と言って作った。イチゴジュースは飲んだ後習慣で「体にいい!」と言ってしまうが、三津子は死んでしまった。もう、健康にいいとか体にどうだとか、薬だの健康食品だのは関係ないんだなあ、と思った。

11時過ぎ、自転車で外に出る。今日も雨は降らず、日が射していて暑い。すでに27度くらいはあるかという陽気。スーパーまで行き、まず文具売り場で画鋲というかピンを買った。カレンダーの大きなやつをずっとトイレに吊っていたが、トイレにあってもあまり意味がない。なので仕事部屋の脇に吊ろうと思ったが、どこを探してもピンや画鋲が無かったので買った。再び賃貸に暮らすようになり、釘や画鋲をあちこちに刺すのは気がひけていたが、仕方が無い。
あと額も買おうかな…と一瞬思ったが、もうキリがないので、そこは我慢した。額があれば三津子の写真を入れて、置きたくなる。すでにそこここに三津子の写真が溢れている。
下の食品売り場へ降りて昼の弁当、夜のおかずなどを買う。そういや猫にもたまにはご馳走を、と思ってマグロの切り落としも買った。
いつもの花屋へ行き、4日に買ったのと同じうす紫のユリを買った。今度は一輪咲いており、もう一輪が開きかかっているもの。つぼみも2つついているから、前のように順番に咲いて行ってくれるかも知れない。
戻ってユリをすぐ花瓶にさし、壁の横の小ダンスの上、三津子の遺影の横に花が来るように置く。それから買って来た弁当を暖めて食べる。
その後はテレビを見て新聞を読んで週アスを見て、時間をもてあまし、現存する一番古いデジタルの日記データ、90年のテキストをちょっとずつ切り貼りして、日記ソフトに移していった。日記ソフトは、何年前であっても同じ日の日記がすぐに参照できるので便利だということに気が付いたのだ。

1990年というと、長井さんが「ガロ」の経営から引退をしたいと言い出して、曲折の結果、ツァイトに売ろうという相談をしていた時期だ。
俺はいつもいつも青林堂の普段のルーティン仕事に加え、会議の資料やレポート作り、そして会議に追われていた。なぜか会議のレポートはほとんど俺しか作ってこず、他の社員のものは今も手元にあるが、手書きで薄っぺらなものだ。
こちらは読者像の分析をアンケートハガキを集計してグラフにしたり、意見を抽出したり、それから年間計画を立てたり、具体的な編集作業の改善策を出したりと、ムチャクチャ頑張っていた。
その分山中さんに頼りにされて、結局俺が編集専業で「ガロ」の立て直しの中心になるように言われた。片手間だった「営業」は版元にとって死活問題だからと、先輩のYさんが役員として営業を専任でやるという分担をおおまかに決めた。
まあ、それを外部から聞いていて「おいおい青林堂金持ちのパトロン出来たって? 白取がガロの編集責任者? そうはいかないよ」ということでどなたかが「出戻って」きて、山中新生「ガロ」を牛耳っていき、やがてそれがクーデターへとつながっていくのである。このあたりはクーデターも含めた克明な記録が残っている、そして残しておいて本当に良かったと思っている。
もう、どうでもいいことかも知れないが。
90年はもちろん、その後の流れなど全く知らぬ頃で、俺は若さと体力に任せて一生懸命、仕事仕事仕事…と突っ走っていた。三津子はそれをいつも黙って、いやけっこう愚痴や不満は言われたが、「ガロ」や長井さんのことは彼女も良く解っていたから、我慢していくれていた。
ある日の日記には、会議を終えて夜くたくたで帰ると、
「刺身があって、三津子と一緒にご飯を食べた」と書いてある。あの団地のちゃぶ台で、二人でお刺身で夕飯にした夜のワンシーンが、鮮明に頭に蘇った。
刺身といっても西台のダイエーで買った、いつもの薄ピンク色の安いやつだ。それでもご飯はほかほかで山盛りで、俺用にちょっとだけ濃いめの味付けにしてくれた味噌汁。今はもうとっくに消えた「クォリティ」という銘柄の缶ビールを冷やしてくれたのと、彼女の晩酌の冷や酒。
思い出すのはやっぱりこういう、何てことはない普通の日常だ。そして彼女の優しい笑顔。
忙しかった、もの凄く駆け回って働いて走り回っていたあの頃。労働量に比べ安月給で、報われることもあまりなく、時間が足らず、一日がアッという間に過ぎて行った。三津子はそれでも我慢して俺を支えてくれていた。
あれから20年も経ってしまった。京都へ来て二人、本当に穏やかで幸せだったと思う。団地の頃は二人とも当たり前だけど今より若く、まだ健康で、大変だったけど、つつましく助け合って生きていた。
日記をつけておいて本当に良かったと思う。
あの頃の暮らしが、文字を追うたびに鮮明に蘇る。忘れていたこともあるし、記憶違いもけっこうある。でも日記には確実に、当時の生活が「記録」されていて、それを今の日記ソフトにマージしていく作業の間、その時その時のシーンや思い出に脳の多くが支配されてくる。すると、何だか三津子が生きているような錯覚を覚えるのだ。

作業を一休みし窓を見ると、とたんに現実に引き戻される。そう、ここは団地ではなく京都だ。1990年は遠く過ぎ去っていて、今は2009年。そして三津子はもういない。
5時過ぎから、外は雷が鳴り、雨が叩き付けるほどの勢いで降り出した。三津子が生きていたら、小走りでベランダへ出て行っただろう。君の大好きな雷だ。

6時ころからまた「晩酌」の支度を始める。
昨日買ってあったタコサシと、まぐろの切り落とし、それから焼き茄子。それらを並べて三津子にももちろん陰膳をして、乾杯してビールを飲む。
そういえば、俺が一人で居る時にビールを飲むなんて、ここ数年ほとんど無かったことだ。二人で飲むことがほとんどだったから。
テレビはニュースが終わり、何も見るものが無い。何年か前にHDDに録画してあった、NHKハイビジョンスペシャルの伊藤若沖の番組を見直す。もちろん若沖はプチ・ブームの来る前から二人とも知っていて、この番組も録画したあとも何度か二人で見た。HDD録画で、まだダビング10もブルーレイも無かったから、DVDにムーブするしかHDDから持ち出す術が無かった。そうすればせっかくのハイビジョン画質が著しく落ちるので、そのままHDDに残してある。

若沖の役は岸辺一徳で、京の野菜卸しの道楽息子というキャラクタが良く出ていていい。以前から好きだった若沖ゆかりの地である京都に住む不思議を思いつつ、この放送を見たものだ。
若沖というと例のモザイク画のような像とかを描いたあの大作(?)をすぐ連想しがちだけど、やはりデッサン力とか、北斎がそうであるように、優れた芸術家は基本がものすごいな、と思う。
若沖は錦の野菜問屋を若くして継ぐが、店の経営などどうでもよく、今でいう「セレブ」の社交場である青年実業家同士の集まりで「変わり者」扱いされたというのは有名な話だ。なぜかというと、芸姑さんや酒の席やビジネスの交流よりも、蛙やヤモリを見ていたからだ。
そういうところが、もちろん若沖と並び称してはいけないのだろうが、三津子…いや、やまだ紫と重なる気がしてならない。
幼少時から普通の子はお人形遊びや塗り絵などの、女の子の決まり事へと進むのに、足元の微細な苔や生き物へと興味が向いていたという。色や造形、自然の色やかたちの不思議さと美しさに、早くから魅了されていた。
京都に来てから、近くの懇意にしていた和食割烹「M」さんのカウンタで、酔った戯れ事の冗談で、「お題」を出しその場で絵を描くという他愛もない遊びをやったことがある。
もちろん俺も若い頃は漫画家を目指したとはいえ、所詮はただの編集者、プロに敵うわけがない…と思った以上の、プロの作家の凄みというのを思い知らされた。
ホンの数ヶ月前のことだ。近所の腕は凄いが気取らない、カウンタだけの飲み屋さん。客が誰もいない時の板さんとの遊びだ。「サメ」とお題を出して、手元の紙に皆が描いた。板さんのは素人だからともかく、俺の絵はそれこそマンガだった。
三津子の描いたサメは見事だった。そういう観察眼とそれを具現化する才能こそ、作家の作家たる所以だと、その時深く感じ入ったのを覚えている。本当にホンの3ヶ月くらい前の話ではなかったか。
若沖のように蛙やヤモリや、小さな生き物の、その造形と生きている不思議に思いを寄せ、そうしてそのことから自分たち人間が生かされていることを思う。
そのような作家の「感性」というものは、時代がどう遷ろうとも、不変のものだと思う。

若沖の凄いところは、単に細密画を描くということではない。それでは「個性」が出ない。重ね塗りをせず、「描く」という行為そのものに妥協を許さない姿勢と、それを許す卓越した…いや、そんな言葉では言い荒らせぬほどの高度な技術と、それこそ天が与えた才が無ければ描けない作品の、その、天が与えた「本物の凄み」だと思う。
その作品の多くは、海外の富豪の蒐集となっている。
本家日本の評価がまごついている間に、解る人には解り、持って行かれる。いい加減にしろよ日本、と思った。

ところで、この間見たアレクサンドル・ソクーロフ監督『太陽』。昭和天皇が筆を執り文字を書くシーンで、筆の持ち方が全く違っていた。このことはイッセー尾形を責めてはいけない。彼は彼の書いた字を見れば解るように、書道の心得はない。とすれば、あの筆の持ち方などを含めて誰かが「演技指導」しなければいけなかったと思う。
人差し指と中指、それと親指の三本で筆を動かす。残りの指はそれを支え補助するだけだ。基本的に手首の回転が重要になり、これは箸の持ち方にも似ているが、要するに、筆は洋筆のように「寝ない」。ペンの場合は持つ箇所が下へ下がり、筆が寝るが、それは寝せないと書けないからだ。毛筆の場合なら筆は必ず立っているはずで、右手の平は紙には着かずに最後まで書ける。心得のある人なら、の話だが。
『太陽』では、何と昭和天皇が筆を洋筆のように寝せており、しかも書かれた文字がひどく稚拙というあり得ない映像だった。その上「半紙」なのか洋紙なのか、便箋のようなものに書いて、めくったりしていた。不思議だが、あれが史実ならしょうがない。
だが箸の持ち方とか、筆の持ち方とか、このままデタラメで滅茶苦茶になっていくのを看過していていいのか、という思いもある。
そういう意味では、若沖が絵を描く際に、それを演じる岸辺一徳の筆使いは全く正しいもので(もともと毛筆は文字を書くためのものである)、もしそれが岸辺一徳の元々の所作だとすればそれは素晴らしく、演技指導があったとすれば、またそれはそれで大変素晴らしいと思った。
単に脚本も書けぬ漫画原作に頼り、演技も出来ぬいけメンだか知らぬが大手タレント事務所のバカをそのまま使う下らぬドラマなどに、こういった細やかな配慮や「考証」など望むべくもないのだろうとは思うが…。
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
やまだ紫クロニクル

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