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2009-06-25(Thu)

画稿の整理

6月25日(木)

朝は6時前に目が醒めた。外はもう明るく、足元の送風機だけでは寝苦しい。クーラーをつけてもう一度寝ようとして、そのままごろごろした挙げ句、結局7時過ぎには起きる。
今日は薄曇りで青空も覗くような天気で、暑くなりそうだ。朝のルーティンを終えてから、7時半ころジーンズに履き替えて半袖シャツを羽織って下へ降りる。暑くなる前に買い物をと、コンビニでおにぎり2つと昼の弁当、キムチ、温泉玉子、冷凍のシュウマイと焼きおにぎり、文春、イチゴヨーグルトなどを買ってすぐ戻る。
おにぎり2つとウーロン茶で朝食。その後は8時過ぎからずっとBSでアトランタでのヤンキース戦を見る。先発の川上憲伸は制球が良く、打たせて取るピッチングで3回までパーフェクトピッチングを続けていたが、3回ツーアウトでピッチャーのチェンバレンのライナーを右鎖骨から首のあたりに直撃され、チェンバレンはショートがバックアップしてアウトにしたものの、川上はマウンドに座って呆然と首を抑えた表情が大写しになる状況だった。
ベンチからは監督やトレーナーが飛び出してきて、付き添われてベンチに下がり、結局そのまま次の回の攻撃で代打が出て降板となった。ようやくメジャーに順応してきたかと思われ、この日はいいピッチングをしていたのに残念だった。

その後、四十九日も終わったので、ちょっとずつ始めよう…と思い立ち、階段下の納戸を少しだけ整理。
ここは三津子の原稿の箱や袋、そして一番奥はVHSのテープラックが入っている。

やまだ紫の単行本として一度出版されたものは、そのタイトルごと一袋にまとめてあり、基本的に段ボール箱へ収めてある。だからそれらを敢えて引っ張り出してまた再度仕分けをする必要はあまりないし、古い原稿はそういうことをすると写植が剥離したりする。なので最後に慎重にやることにする。こういうことは餅は餅屋で、自分も漫画編集に関わってきた人間だから良く知っている。
その他のイラストや連載のものも、きちんとした編集者なら一枚一枚トレーシングペーパーをかけたうえ、「要返却」の印を押すなりシールを貼って、連載が終了したら御礼の手紙と共に返却されてくる。そういうちゃんとした編集さんは当然当て紙もちゃんとあててくれているから、原画もシャンとしたままだ。
けれどだらしのない、と言ったら失礼だが、ズボラな編集だと普通の封筒にそのまま入れて返却してきたりする。すると折れていたり、ひどい場合は周辺が黄ばんだりしていることもある。漫画家の原稿というものは、画家における一枚絵と同じ、世界にたった一つしかないものだという意識が欠けているように思われる。
とにかく一点もののカットやイラスト、細かいものも、解る範囲で整理用に作った角0号の名入れ封筒に、摘要を書きながら入れていく。
それから懸案だ、いや懸案だろうと思っていた包みを取り出した。これは『やま猫展?』(92年)の際にパネルに原画を透明フィルムで挟んで展示したものが、それがそっくり3つほど包みになったままあるものだ。
懸案というのは、このパネルには粘着面があり、そこへ原画なりを貼って、その上に透明フィルムをかけてカバーするというものだからだ。このパネルは、値段が安く軽くて、会場のコンパネに四隅をブスリとピンなどで貼れば展示完了というお手軽なもの。
だがそのまま放置しておくと「フ●ルアルバム」のように原画が接着面に張り付いてしまい、はがせなくなる。余談ながらあのタイプのアルバムに大切な写真を貼ったことで、取り返しがつかなくなった人は多いのではないか。
このパネルも展示からもう十数年経って、それをどううまく剥がすなり切り取るなり、あるいはそのまま分類するなりしようか…と思っていた。それが「懸案」だった。
意を決してそれらを取り出し、一つの包みを開けてみると、パネルに原画がない。残りも全部確認したが、何と、当時の俺たちはちゃんと展示が終わったら原画がくっつかないように外してくれていたのだった。
そりゃあそうだよな、いくら何でもな、と思ってホッとしたものの、ならなぜ使い終わったパネルをそのまま後生大事にずっと取っておいたのかが意味不明だ。
京都へ越す前の住まいに引越したのは99年だから、その時わざわざその前のマンション(ガロ93年2/3合併号、やまだ紫特集号参照:「仕事場」となっているところ)から運んだことになる。
その後京都前のマンションの納戸にずっと原画の箱と一緒に入れておいたので、ということは「大事なもの」=「原画がそのまま貼ってある」といつの間にか俺たちが勘違いしていたらしい。
ならば遠慮なく捨てられるな、と思ってそれらの大きな包みを3つ、廊下に出した。

それから納戸の隅に、一度も俺が見たことのない、かなり大きな紙の古い手提げ袋があった。その中には古いスケッチブックのような大きなものが入っている。
それをエイコラと引っ張り出して見ると、スケッチブックは三津子がデザイン学校へ通っている頃のものらしかった。
街の線画のスケッチ、課題と思われるデッサンやレタリング。学籍番号らしい数字が67とあるから、三津子が19歳の時のもののようだ。今見ると「COM」時代、単行本でいう『鳳仙花』収録の作品群につながっていく、彼女の絵が完成しつつあるのがわかる。
それからもう一つの大きな束は、1964年つまり三津子が高校一年の時の、美術部時代の課題などが入っていた。石膏デッサンや鉛筆での課題のデッサンはだいたいがC-とかD+とか失礼な点数がつけてある。
遺影を思わず振り返る。
大丈夫、君のことを尊敬しこそすれ、笑ったりバカにしたりする筈ないじゃないか。こういう昔の、「やまだ紫」以前のものが見られるなんて、ファンとしてはこの上なく嬉しいことだよ。
これはまだ君が未熟なころのものだから、君が恥ずかしいと思うのは当然だけれど、その作家の全てを蒐集し研究したり展示をしたりする場合は、非常に貴重で重要な「資料」でもあるんだよ…。
それにしても、高校一年生だった「山田三津子」の石膏デッサンや課題制作は、本人がそれほど熱心でなかったことが解る。一生懸命やってはいるが、別なところに描かれた未完成の猫や犬、植物などの簡単な素描の素晴らしい出来に比べ、決められたことを「こう描け」「言う通りにやれ」と言われてこなすことが、苦痛だったと解る。
絵を描く上でのいわゆる「絵画技法」、基本的なデッサンや道具の使い方など、それはそれで必要なのかも知れない。けれど誰でもが同じような到達点を目指す、そういったルーティンを学びながら、彼女は「漫画」、それから「詩」という「手段」で自分を表現したい、世の中に一人で立ちたいと思っていた。
十代の少女がスケッチブックの隅っこにチラっと描いた、煌めくような才能の萌芽。
ひどい採点で傷ついただろう、つまらんデッサンの課題類に比べて、のびのびと描かれた「描きたかったもの」の素晴らしさ。
途中からは課題もいい加減にこなすだけで、描きたいものがある、やりたいことをやりたい…という抑圧が伺える。
「アート」「美術」「芸術」何でも良いが、人に「表現」を教える場合に、もっとも必要なのはその人の個性の煌めきを発見し伸ばしてやることだと思う。
たくさんの先達あるいは同志の作品に触れることによって、感性が養われ磨かれる課程で、個性=作家性が涵養されるものだと信じている。
その最も重要な「個性」を抑圧するだけの「教育」だったら、有害だと思う。三津子の「やまだ紫」になる前のデッサンや素描は、そのことを教えてくれている。

どうでもいいことだが、俺も高校時代は美術部に入った。中学の時すでに周囲から「漫画がうまい」「将来はプロ漫画家」とおだてられ、鼻高々で入った美術部で、名物だったU先生に鼻をへし折られた。
課題のポスターデザインを絵の具でキャンバスに描いている時、「お前のはデザインじゃない。漫画だな」と言われた。何かバカにされたようで、もの凄く恥ずかしかった。
その先生は連凧をもの凄い数揚げる名物先生で、いい先生だった。だから余計に漫画ってバカにされてるんだな、と思い失望した。
けれど後でその先生から「お前は美術じゃなくて漫画を学んだ方がいい。レタリングなんかちゃんとやればすぐ仕事が出来るレベルだし、うまいこと組み合わせてやればいいじゃないか」と言ってくれた。「美術」という漠然とした概念より「漫画」が低いと言われたと誤解していたのだが、実際は高校で習う「美術」というものは画一的で基礎的な技法が中心で、むしろ「漫画を目指せ」と言われたことは、珍しく「個性を伸ばせ」と言われたのに等しかったのだった。
いい先生に当たって良かったと思った。それで、受験はモラトリアムにしてもらい、その一年間で漫画家を目指す約束を母親に取り付けたのだ。(実際はほとんどだまし討ちのようだったと母は後に述懐しているが)

「山田三津子」は高校から美大へ進学を希望したが、経済的に余裕がないのと、高校の推薦が受けられなかったのとで断念したという。
推薦が受けられなかったのは「基礎的な絵画技法」の成績が悪かったからで、そのまま美大を受けても、恐らくそこで落とされるだろうと言われたそうだ。
俺はその話を聞いて「大丈夫、ビートルズやカーペンターズだってデモテープがレコード会社で落とされてる」と頓珍漢なことを言ったことがある。
それで彼女はデザインの専門学校へ通う。それからデザイン事務所でアルバイトのようなことをしつつ、漫画を描き始めるのだ。
結果として、彼女はそれからすぐに「やまだ紫」になる。
ということは、それで良かったということだろう。漫画界にとっても、俺たちファンにとっても、あの『性悪猫』はじめ名作の数々に出会えたのだから。
何度も書いているが、絵も、素人ほど実物そっくりの写実画を「うまい」と褒める。実物に近いことを評価とするなら、写真でいい。それに評価が高くなればなるほど、誰が描いたのか解らない=個性の否定ということになる。
字も少しそれに似ているが、文字の場合はいくら達筆でも読めなくては仕方が無いので、すっきりとした楷書体が好まれる。そう、ペン習字の教材ノートに、見本として薄く印刷してある「あの字」だ。誰が書いても、あれをなぞれば読みやすい楷書体になる。よく国語の先生が板書するような字というか。
だから基本を習い、そこからどう崩すか、どう個性を出すかが難しいのだ。
やまだの字は誰にも真似の出来ない、個性のある文字だと思う。俺は彼女の絵の隅に一字「紫」とあるのが大好きだ。

気が付くと1時を過ぎていたので、お茶漬けを残っていたたらこで食べた。

その後、封筒に入れていったん整理してあった、三津子の水彩画を取り出した。全部猫の絵で、三津子の死後注文しておいた大きな額にあらためて額装し直す。ちゃんとマット加工もして貰った額だ。
今入れてあるものは、額ではなく東急ハンズでまとめて買ったフォトフレームみたいなもので、1つ1000円もしない安物だ。しかも三津子はそのサイズに合わせて絵を描いたから、大きな額に余白を取って入れる場合は、ほぼきっちりの大きさにマットを作って貰わないと額装できない。
厚紙に絵を載せて、慎重にマットの中心に絵が来るように位置を調整するが、やはりどうしてもマットちょうどにはならない。これはもう仕方がないので、そのままとりあえず額装して箱に入れ直す。それらを終えると3時前。

その後、二階へ上がって、もう一度原稿の箱がもう無かったか押し入れを見てみると、下の段に積まれた箱に「やまだ原稿 COM」と書いてある箱があった。
まだあったじゃないか、しかも大変なものが! と思い、押し入れの手前の場所をあけて、エッチラかつぎ出した。こういう作業はしんどいのだが、これこそ俺がやらねば誰がやる。
一応一度開けて確認したようで、ガムテープは剥がされていた。
それを下まで汗をかきつつ下ろしてきて、さっき一段落したばかりの整理用封筒をまた出して、順番に整理を始める。

「COM」時代の原稿はもちろん『鳳仙花』に収録されたものだが、原稿を紛失されて刷り出しにホワイトを入れたりして版下にしたものもある(『鳳仙花』参照)。
原稿だけでなく、同時代の美麗なイラストの原画もあった。今の整理され研ぎ澄まされた最小限の線ではなく、描きこまれた、それでも美しいやまだ紫の「漫画絵」のイラストだった。思わず「うわあ綺麗だねえ」と声が出た。遺影を見ると三津子はにこっと笑っているように見える。
ブロンズ社『鳳仙花』はいわずと知れたやまだ紫の最初期作品集で、彼女はしきりに「あれは未熟な頃ので恥ずかしい」と言っていた。だが原画を見ると、その素晴らしさがまた一段と伝わってくる。
本当に、彼女は、二十代のはじめに、これらを描いたのか。
「凄い」とか「早熟」といった言葉ではとても足りない、本当に「才能のある人の凄み」を感じる。
昼に発見した、三津子の高校〜専門学校時代のデッサンやスケッチなどの時代からわずか数年で、「山田三津子」は「やまだ紫」へと見事に変態を遂げた。ただ、やまだ紫という作家の足跡を見ていくと、醜い毛虫が華麗な蝶に変化した…というメタモルフォーゼではなく、元々美しかったものが、成熟してより一層気高い、凛とした大人になったという印象で、『鳳仙花』の時代はまさにその大人へと歩み出した「作家」の歩き始めであった。

その箱からは、原稿だけではなく、色々なものが出て来た。
個人的な電話番号の早見表。几帳面にレシピが書かれた「料理手帳」と表紙にある、新書判くらいのノート。『アサヒグラフ』や『週刊文春』から『BeLOVE』『コミックモーニング』などの掲載誌とその切り抜き。資料に使おうとした大量のグラビアのスクラップや写真。
それから、俺ですらもう忘れていた、団地で暮らしていた頃の「家族」の連絡メモや家庭内新聞なども出て来た。
三津子が打ち合わせかパーティかで遅くなると言っていない日の夜、俺がその日のことをレポート用紙に簡単に漫画風に描いて、先に寝たりしたことがある。
「ももちゃんが洗濯をしてくれてたから後で褒めてあげて」とか「ゆうちゃんに算数を教えた」とか、他愛のない内容だ。
別なものは子供たちに「朝、8時何分に俺だけ起こして、ママは仕事で遅かったから寝かせておいて」と書いたメモ。逆に「ママ」である三津子が俺を起こしてと書いたメモ。ゆうちゃんが俺たち4人のコミュニケーションのために作った家庭内新聞…。
何度も何度も思い出す、あの狭い団地での、4人と3匹の暮らし。こんなものも、あの人は取っておいたんだ。きっと捨てられず、そっと原稿用紙の間に隠して、保存しておいたんだね。あの頃はそれが「日常」で、そうやってみんな一生懸命「家族」をうまくやっていこうとしていた…。
涙は出ず、そのかわりに暖かい気持ちに包まれ、顔がほころぶ。遺影の三津子に「ほら、ゆうちゃんの絵!」とか言って見せる。
それら俺たちのプライベートなものや写真は分けておいて、作家・やまだ紫の原画や原稿を、黙々と整理用の封筒に入れては、摘要と確認日などを記入していく。気が付いたら日は西に傾いていた。
絶対にもう不要というものはゴミにして、段ボールをホコリなどが出ぬようベランダに出してから中のゴミを袋に開けて、畳む。ついでにベランダの苔や草に水をやってから戻る。
ずっと俺の仕事机の脇で寝ていたユキが、ベランダが開いた気配で起きてきたのが見える。水で濡れているから今日は出せないよ、ごめんな、と声をかけてベランダから戻り、ゴミと畳んだ段ボールを玄関へ運ぶ。そしてパソコンに向かって仕事のやりとりをして時計を見たら6時近かった。

こうしてやることがあると、時間が経つのを忘れるから、まだいい。けれどもその「やること」が、あの人の思い出に直結する作業だから、どうしても作家である「やまだ紫」と妻である「三津子」がクロスする。原稿などの袋をいったん整理してから、改めて団地の頃のものを見ると、やはりこみ上げるものがあった。
「懐かしい」とかそういうレベルではなく、もっともっと、切なく愛おしい、二度と来ない日々。しかも、それを懐かしく思い出し笑い合う「連れ合い」はもう居ないのだ。これほど残酷なことがあるのか、この世にこれほど辛いことが他にあるのかと、真剣に思う。

作業を一段落し終えると、両腕が軽く痺れたように痛い。これは作業のせいで、病気による今日の「腫れ」は縦隔=胸の真ん中のようだ。鈍く突かれたような鈍痛がする。そんなことより、やっぱり三津子を失った心の傷の方が遥かに痛い。だから物理的な痛みになかなか気付かないのだろう。
そういえばつい一週間ほど前、気がついたら左足のふくらはぎ、力こぶが出来るあたりが4cmほど切れていた。どこでぶつけたか切ったのか、全く記憶がない。なので放置しておいた格好になり、どうやら化膿しかかっているようだ。「そういえば痛い」というような傷ではなかった。カッターですう、と切ったような傷で、下の方がぱっくりと開いて膿んでいた。
俺の病気は免疫力が落ちているので、こういうところから雑菌が入ると治りにくい。気付いたのはまだ三津子の四十九日前だったので、動けなくなるとまずいと思い、すぐにアルコール消毒をし、抗生物質軟膏を塗ってガーゼでフタをした。
次の日もその翌日も同じことを繰り返しているうち、何とか化膿が進むことはなく、無事東京の納骨と四十九日法要に出て戻ることも出来た。ただ傷がなかなか塞がらず、今日あたりになってようやく治ってきたようだ。一週間以上かかったことになる。
今、こうして書いていると、思い出したようにふくらはぎの傷が痛み出した。心にあまりに大きな傷を負うと、体の表面の傷や痛みなどこれほどまでに小さなものかと、改めてぞっとする。
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
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