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2009-07-01(Wed)

「偶然」など、ない。

今日のブログ(前の記事)をアップした後、仕事のデータが来たので済ませた。傍の箱のうえで寝ているユキをなでて、何気なく居間へ行き、本当に何気なく三津子が座っていたソファの背に重ねてあったティッシュの箱を手前に下ろした。それからその下にある、薬などを入れてあった小箱を開けた。
何度ももう見た箱だ。中には彼女の血糖値の検査キットの古いやつ、胃薬の束、化粧水の使い残しやハンドクリーム…。あと、昔ゆうちゃん夫婦と真夏に旅行へ行く前、遊びで作った丸めがねのサングラスケース。
そういえば、このサングラスをすると俺たちが「謎の中国人みたい」とか言って笑ったから、あなたは怒ってしなくなったんだよね。その後これが出てくるたびに「何でわたしこんなの作ったんだろう」っていつも言ってたっけ。
そう思いつつケースのフタを開けると、サングラスと一緒に、切れた水晶の腕輪が出て来た。

「うわー」と声が出た。もう、こんなことばっかりだ。

去年の夏、比叡山へ登った時に延暦寺で一緒に買った数珠のような腕輪。俺は黒檀のにして、三津子は水晶で自分の守り仏様である千手観音の梵字が入ったやつにした。
それを彼女はしばらく身につけていたのが、突然切れた。
「こういうのって何だか嫌だな」と言って、「直してもらおうよ」と話してしまっておいた。
明青さんに去年だったか、お邪魔した時に何気なくそういう話になったら、おかあさんが
「お数珠や腕輪直す方知ってますよ。ほんなら今度持って来て」と言ってくれた。
その後、二人で必死であちこち探したのに、見つからなかった。どこを探しても無くて、おかあさんに「見つからないんですよ〜」と情けない顔で話していた。
彼女はあの腕輪が切れたことを不吉だと思って気にしていた。もちろん俺も嫌な感じがしたから、直したいと言っていた。アクセサリで買ったものならともかく、高価ではないが延暦寺まで登って買ったもの。その時二人はお互い、相手の健康と二人長く暮らせることを祈ってきたはずだ。
それが突然切れた、彼女も気にしていたし俺も気にしていた、だから探したのに、どうしても見つからなくて、そして彼女は逝ってしまった。
不吉な予感は「予感」ではなかったのだ。
…それが今突然出て来た。これも、彼女が教えてくれたのだろう。
なぜ、そう言えるか。
なぜ、「たまたまだよ」とか「偶然だ」と思えないのか。
それは、この腕輪が見つかる直前に、明青のおかあさんに子供たちが京都へ来るので、その日の予約のメールをしたばかりだったからだ。彼女が
「あなた、明青さん行くんならあの腕輪持ってって」
と教えてくれた。
おかあさんに返信で、すぐにこの腕輪が見つかったことをお知らせした。君が逝く前に見つかったのなら良かったけど、きっとこれは決まっていた「運命」を教えてくれたのだ。だから、逝く前に直すことはきっと出来なかったんだね…。でもこれで直せる。

それからちょっと前に押し入れを整理したときに出て来たハンディカムとそのテープ類を片付ける。孫たちのムービーはそれぞれの親つまり娘たちへ渡そう。けれどその前にムービーを見たいと思っても、カメラからつなぐコードがどうしてもみつからない。液晶モニタで見ればいいが、せっかくテレビがあるのに…と思って二階のゲームやコード類の箱を見に行く。
すると、愛着があって捨てられずに持って来たブラウン管テレビの上の大箱の中に、A4大のノートを見つけた。パラパラとめくると三津子のアイディアメモのようなものだったが、なぜこれを今見つけたのか、全然意味がわからない。コードは結局見つからなかった。
この箱は何度も何度も見たし、だいたいこれは舟渡のマンションで、テレビの周辺にあったものを引越社のバイト軍団がてきぱき詰めていってくれたものだ。それをこちらへ来てから開けて確認をしているし、その大半は出して捨てるなり整理なりしてある。だから、あとはもう不要ということでテレビの上に放置してあった。
こういうノートがあれば彼女は見ただろう、それが自分のものなら出して持ってくるなり、見られたくなければ捨てるなりしたと思う。

よくよく見てみると、「金魚の殿様 2」とメモがあって、その簡単なアイディアが数行書いてある。キャラクタ造形のスケッチらしいラフもあった。
「金魚の殿様」はあの『COMICばく』の1984年春号から連載されたものだ。2回目ということは、季刊だから夏号…か。
メモには「殿様のおばはスチュワーデスをやっている…」と数行書いてあるが、あの「金魚の殿様」にはそんな話は出てこないから、恐らくボツにしたのだろう。
とにかく、いずれにしても1984年の夏ころのものであることが解った。つまり、まだ俺と出会う前のノートであることは間違いなかった。
彼女と俺が出会うのはその年の夏〜秋、けれどそれは彼女は「ガロ」で活躍する先生であり、俺は長井さんの学校のただの学生だった。ちなみにその時は水木しげる、林静一といった豪華な「講師」も来られ、俺はサインをいただいた。もちろん、彼女のサインも。
その84年の暮れに、俺は長井さんに「明日から来てくれよ」と言われて「ガロ」でアルバイトを始め、翌85年の春、正式に社員として勤めるようになった。
その間、彼女とは編集部や忘年会などで何度か顔を合わせている。飲み会の時は俺が巣鴨に住んでいたから、彼女と帰り道が一緒で、急接近した。だから本当に相手を個人として意識しての「出会い」は、翌85年以降ということだ。

ノートをめくると、たった2行だけの鉛筆書きの文字。

私は卑怯な人を憎み
   至らぬ人を 除外視します。

さらにその後
「6/30〜7/1にかけ
 浅川マキのオールナイトコンサート 池袋(文芸座)始発まで」とメモがあり、数行つぶやきのようなコトバ。
やはり、1984年の6月から7月ころのノートらしい。
そして
「7月○日 <待つ>」
と題して、これも数行の日記の書きかけのようなもの。
それをめくると、今度は詩なのか散文なのか、あるいは単なるメモなのか、数行の文章があった。

狭い団地の
水色をした ホーロー風呂だった
なまぬるい湯に 顔面をつけ

泪を流した

悲しくなく 淋しくなく
痛くなく 口惜しくもなく
(こんなのはいやだなあ)
と思い乍ら
同じ日が 明日もくる
その次の日も 次の日も…

恐ろしい泪だった
もう 幾年も前のことだ


この「泪」を流した日が、この時点から数年前ということは、つまり、離婚の後だろうか。
彼女は彼女いわく「地獄の結婚生活」の後、心からの安堵と幸福の日々を送ったと、後年俺に語っている。
朝は「もう殴られなくて済むんだ」、夜寝る前は「明日も誰にも殴れないし、怒鳴られなくて済むんだ」、そのことに感謝をした、と。
つまり、その「安堵と幸福」の数年を綴ったのではないだろう。

三津子が斃れ、この世から旅立とうとしていたとき、俺の頭に響いた彼女からのメッセージが、カーペンターズの「Only Yesterday」だった。その詩の意味と、彼女が俺に伝えようとしてくれたメッセージは、もう理解している。
彼女は俺と出会えて良かったと伝えてくれた。出会う前はずっと誰にも解ってもらえず、一人で悩みや困難と向き合っていた。ずっとこんな日が続くのかと、ただ何かを「待つ」だけの日々なのかと、ようやく得たささやかな幸福、愛する娘たち二人と猫三匹との安寧な暮らし。それを一人で必死で支え守ってきた数年間。
けれど、そのまま老いていくことを、きっと彼女は怖れたのだと思う。

彼女は「しんきらり」で壊れゆく「夫婦」という関係を、実際の壮絶な体験とは別に、凛としたかたちで、心に響く彼女のことばで描いてみせた。
その後に、実は「しあわせつぶて」があり、それから「Blue Sky」へと繋がっていく。「しあわせつぶて」は一緒に暮らし始めたばかりの若い夫婦の、まだ危うい「揺らぎ」を描いた作品だ。そのラストは現実の自分の「結婚生活」ではあり得なかった結末を、ひとつの理想の姿として提示している。
彼女は、本当はちゃんとした幸福な結婚生活と育児を、安寧な普通の夫婦生活をやり直したかったに違いない。もちろん、それは叶わないことだし、前の夫とそれをするつもりは毛頭なかったと思う。
「しあわせつぶて」は『新鮮』(祥伝社)1984年1/2合併号から1985年11・12月号まで2年間にわたって連載された。
その間に俺たちは出逢った。
単行本でいえば『続しんきらり』の後半と重なって描かれた「しあわせつぶて」は、同名で86年の秋に青林堂から単行本化された。
これが、はじめて俺が彼女の単行本を編集者として担当したもので、最初で最後のものになる。
俺たちはこの頃にはもう団地で同居していたから、表紙はどうしようとか、途中にこんな漫画を入れたいとか、相談しながら作ったと記憶している。
彼女はそれからの5年後、婦人公論に「Blue Sky」を連載する。そのラストが、俺への答えなのだと、今ははっきりと理解出来ている。


もちろん「やまだ紫」という作家は、「しんきらり」「しあわせつぶて」「Blue Sky」を夫婦、男女が共に暮らし連れ合うということを軸に、さまざまな時々の彼女の「想い」をからめつつ、フィクションとして、エンターテインメントとして作品化している。
でなければ、あれだけたくさんの人に影響を与え、今なお心に残る作品とはなっていないと思う。
何度も繰り返しているように、「しんきらり」を読み現実の三津子もそうであると重ね、現実生活がそのままあの作品に描かれていると断じるのは、「作家としてのやまだ紫」をいかに冒涜しているかお解りだろうか。
「漫画家は作品に真実を描きません」彼女は『愛のかたち』でそう断言している。それまで説明するのもヤボで面倒だと、愚問を繰り返す連中には「『ハイハイ、おっしゃるとおりです』と言ってきた」と笑っていた顔を思い出す。

俺は当然、連れ合いとして彼女の最後まで一緒に居られた幸福な人間だ。だから、後半生、作品に含まれるさまざまなメッセージを読み取れるというのは特権だと思う。ほんとうに、幸福の極みだと思っている。
誤解していただきたくないのは、「やまだ紫」が世に送り出した作品は、彼女が俺に宛てた私信ならともかく、全ての読者に対する作家としての彼女の「作品」というかたちのメッセージであるという当たり前のことだ。

それぞれの読者の方が、それぞれの「今」に、彼女の声がどう響くのか。

メロドラマでもホームドラマでもない「人間のドラマ」だから、彼女の作品は時代を超えて人の心を打つ、射貫くのだと思う。
彼女が二十代前半で描いた『鳳仙花』の一連の作品が、今、四十年経って彼女の倍の年齢になった男の心に染み入り、感動させる。
三十年以上前に発表された『性悪猫』の一篇が十代の自分の心を打ち、三十年後に別な一篇がまた同じ人間の心を打つ。

昨日、ある漫画評論に関わる方に
「そういう作品が『品切れ』という状態にあるということは、読者にとって大変な不幸なんですよ。だって、書店へ行って手に取ったら絶対に読みたくなるし、共感できる作品でしょ。その機会が奪われちゃってるんだから」と言われた。

ほんとうに、その通りだと思う。(この方が誰なのか、それは後で明かします)
そしてもし、彼女の作品から何も感じられない人間が多いとしたら、たいそう不幸なことだと思う。


それから何をどう思ったのか、あれほど調べた仕事部屋の押し入れをもう一度、調べ出した。突然、本当に自分でもよく解らない行動だと思いつつ、この間二度目か三度目に調べて積み上げた箱を脇へどかして、何度も見たはずの袋や箱をもう一度開けては中を見る。
写真があちこちの箱や袋から出てくるが、どれもこれも年代もバラバラで、後で大変だな…と思いつつ、まとめて箱へ入れて行く。
「自分は何を探してるんだっけ」、ふとおかしな感覚になって、押し入れの整理棚が全て露出したところで、一番下をあけた。

原稿の袋がいくつか出て来た。
まだ、あった!

性悪猫の「梅雨」の漫画原稿描き下ろしの『御伽草子』全部。デジタル入稿した女性誌のカラー漫画の原画とデータ3本分、毎日新聞に連載したイラストとコラム「お勝手に」の原画…。
まだこんなに原画があったじゃないか、おいおい俺は何をやってんだ、と思った。
そして、「性悪猫」と書かれた厚紙で保護された大きな固い封筒。
開けてみると、数年前にロッテルダムで開催された国際交流基金主宰の漫画展に貸し出した原稿だった。基金の担当者からの御礼の手紙も入っている。

出て来たのは、『性悪猫』のあの、「梅雨」の回だった…。

つい先日、その「梅雨」の一場面を青林堂版単行本のためにカラーで描きおろした原画を、全然違う納戸から、当時の箱から発見したばかりだ。
今日出て来たのは、その元絵となった漫画原稿そのものだ。しかも全く違う、ここ数年の雑多な掲載誌や返却原稿の中から。

「ああ、これであのカラー原画と原作が一緒になったね」
そう思って、立てかけてあったカラー原画と一緒に、封筒を立てた。

これからの作業を考えるとあまりに膨大で、冗談抜きで俺の命が持つかどうかという感じだ。けれど彼女もその節々で、何となく手伝ってくれている感覚がある。
俺は何か作業をやる場合は、それこそ単行本の台割を作るかのごとく段取りをエクセルなどで緻密に組み、その多くを自分でやらねば気が済まないタチだった。大掃除や引越も含め、健康だった時は非力な彼女をなるべく立ち働かせないように…と思ってのことだったが、彼女は俺がそう言い出したら聞かないので、手を貸そうとしては俺に「あなたは休んでて」とか「あなたはこっちの(軽い方の)作業をして」と指示されて、周囲をオロオロしつつちょこっと手を出しては引っ込めたり、という風情だった。
今、俺がやっている原稿や写真の整理、それも何となく彼女が遠巻きにして、時折「ここにもあるんだけど…」と見せてくれたり、解るようにしてくれたりしている。

青林堂版『性悪猫』原画が見つかった時、まさにこの記録を打っているキーボードの横には、青林堂版『性悪猫』。

世の中には「偶然」とかそういうものはない。

それに、「人は死んだらそれでおしまい」ということも、ないのだ。そう言い切れる人は一度死んでみるか、心通じ合った最愛の人に死なれてみねば解るまい。いや、それでも何も気付かない鈍い感性しか持たないようなら、それはその人にとっては「人は死んだらそれでおしまい」なのだろう。

とにかく、これからも彼女の助けがないと、これは俺一人では無理だと思う。そしてこうしてその助けは、その都度きっとくる。
pm6:58
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コメント

紫さん、ありがとう

 きょう、偶然、ネットで紫さんが逝かれたことを知りました。私はキヨシローさんが逝ったことで、心身がいっぱいになり、きょうまで、紫さんのことを知りませんでした。ごめんなさい。

 20代、紫さんの漫画を読み、女の哀しみが伝わってきました。その後、自分自身も、その哀しみの渦の中にいることを知りました。

 6年前、火災で、猫と紫さんの漫画が、私より先に逝ってしまいました。いつも、空をながめています。

 きょう、白取さんの日記を拝見し、はじめて、紫さんが再婚なさったことを知りました。白取さんにはことばで表せぬほどつらいことでしょうが、紫さんが遺されたのではなく、看取られたことに、安らぎを感じます。

 親友が逝き、彼女に会えないことが今でも受け入れられないのですが、肉体に魂が閉じ込められていたときよりも、身近かに感じます。先に逝った猫たちのこともです。さまざまな困難なときに、かならず、扉が開かれています。

 きの、買ったばかりのガラスの器がまっぷたつに割れました。夜にはホタルが私にささやくように飛んでくれ、空高く舞っていきました。誰だろう。私の好きな誰が、知らせてくれてるんだろうかと思っていました。私にとっては、紫さんだったということがわかりました。

 白取さん、愛するものたちを私たちが生かし続けることが、私たちに遺されたことだと感じます。私たちが逝くとき、ささやかな自分の生が完成するのだと実感できるようになり、私はうれしいです。

 白取さん、どうぞ、紫さんと共に生き続けてくださいね。

徒然。

ワレは、卑怯なヒトでつ。
ワレは、至らぬヒトでつ。

できた親をもつ特権で、ひきこもりのように生きておりまつ。
おととしは就業してまして、んで、1年ちょい傷病手当もらい
今失業保険受給しつつ、少し、求人に応募しつつ。
でも本心は、働きたくない、でつ。

というか、生きていたくもないのでつ。

なぜなら、自分は至らぬヒトなので。
大学までは、、、「至る(?)」ヒト、であったかもしれません。

でも、その後は。(沈黙)

他のヒトから「もったいない」と言われまつた。

でも、その「もったいない」らしい、自分の使い方がわかって
ないのでつ。

せめて、紫さんが描かれたヒトビトのあるいはねこたちの、
甲斐性が自分にあれば。

ああ、いまわかりまつた。(ほんとにわかったのか?)

ワレはたぶん「自分」に至れていないのでせう。
「自分」に至る方法、、、紫さんに教えてほしかったでつ(甘え?)。
紫さんならこんなワレを見てどうおっしゃるか、、、

答え、知りたくもあり、知ってしまったなら、壊れてしまいそう
でもあり、でも紫さんならヒトが壊れる答えなど、なされなか
ったかも、など、思いみだれます。

生きている

奥様は生きておいでです。一読者の私の心の中にさえ、作家やまだ紫は生き続けているのですから。これからなん年も、なん十年も、いやもっと長く、人が悲しみや孤独の癒しを求めるかぎり、彼女が滅びることはないと信じます。歴史がそれを証明するでしょう。
白取様、奥様との同行二人の旅が始まりましたね。奥様が、そして歴史がかならずこのお仕事を成功させると信じます。どんなに長くかかろうとも私達は待っていますから。頑張ってください。

Unknown

ずっと拝見しております。
先生の作品が少しでも多くの人の手に届きますように。
私たちの子や孫の世代でも、いいものはいいと言う社会でありますように。
祈ってます。
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
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