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2009-07-04(Sat)

娘たちと明青さんへ行く

7月4日(土)

夕べは11時過ぎに寝室に上がり、寝たのは12時前だったと思う。しかし朝は5時に目が醒めてしまい、ずっと寝られずに往生した。7時過ぎに起きるが眠く、朦朧としている。
天気は晴れ間がある薄曇りで、今日の予報は雨だ。
関東から三津子の二人の娘が京都に来る。もう「涙雨」はおしまいのはず、降らないといいが。

朝のメールチェックや仕事関連のことを終えてすぐ、着替えてコンビニでサンドイッチとおにぎりの他、ヨーグルトや週刊誌も買って戻る。
サンドイッチを食べてから一息ついて、段ボールを畳みゴミ袋を一つ縛ってマンション下に出す。それからダスキンの床モップでホコリ取り。掃除機はかけたばかりなので、軽くホコリと毛取り。
それから猫トイレを掃除。3日目なのでむちゃくちゃに汚れている。ユキがせめて中に収まるようにオシッコをしてくれれば、後は便をこまめに取ってやればいいのだが、どういうわけか頭を奥に突っ込んで腰を上げたまま尿をするから、全部外へ飛び出してしまう。なので毎回ユキが飛ばした尿の始末で大変。
何とか掃除をヒイコラ終えて、前に買っておいた消臭剤を垂らす。同じものと知らずにお袋も「これは効くよ」と送ってくれたもので、数滴で匂いが消えるというもの。確かに匂いが消えたのは凄いが、反面大丈夫なのかという不安もある。
それからクイックルワイパーで床の掃除&ワックスがけ。腕、肩、腰などに力がかかって辛い。でも放っておくと夏場は床がすぐべたべたしてくるので、これだけはこまめにやらないとダメだ。

そして一仕事終えて、ようやくシャワーで汗を流す。
シャワーで体を洗っていると、いつも三津子のことを考える。
病気になると解るが、こうして自分の体を洗うことでさえ「重労働」だ。彼女は恐らくストレスだったのだろう、一時肩が顔より上に上がらなくなったことがあった。そういう時は風呂やシャンプーがしんどそうで、よく手伝ってあげたものだ。
その後俺たち二人とも、病気の違いはあれど「腹が膨れて右側に傷を負う」という、全く同じような体の不具合を持つようになった。俺は白血病による脾臓の腫れと胆嚢切除の手術痕。三津子は右腎臓摘出手術の傷と、それによる腹筋の寸断で腹が膨れた。「ぽっこりお腹に右に傷」。
若いころ、また健康な人であれば何でもない普通のことが、つくづく病気になるとしんどいと感じることが多い。年齢差が17もあったのに、俺がこんな病気にかかって同じような体の不具合を持つことは、まさしく「手を携えて助け合え」という啓示であったと思う。

三津子の死の何週間か前、昔っから背中の毛穴に油が溜まるところがあって、そこがぼっこり膨らんだのを切った。近くの個人病院へ毎日通ってガーゼ交換と消毒をしてもらっていたが、そのあたりで風呂場から呼ばれて背中を流してやったことがあった。
あれが、最後になったな…。でも最後に背中流せてやれて良かった。小さな背中だった。

その後昼はおにぎりで済ませる。今日はいい加減な食事だけど、夜はご馳走だ。
そうこうしていると、1時前に次女のゆうちゃんから「今向かってる」とメールがが入り、ももちゃんと食事をしてから向かうとのこと。1時半ころにマンション下からドアフォンで到着を告げられ、玄関で二人を迎える。
四十九日の法要から2週間ぶりに二人の顔を見た。

長女のももちゃんは旦那のT君が作ったという梅の実を漬けた瓶詰めを持って来てくれ、ゆうちゃんはいつもお世話になっっている明青さんに箸置きを買ってきてくれた。
二人ともソファに落ち着いてから、先日オーダーして届いた銀のリングをそれぞれに渡した。これには三津子の遺骨が入っており、首から提げても良いし、ふだん写真と一緒に飾っておいても、身につけておいても構わない。ちなみに俺は違う形のものに遺骨と遺髪を入れて、常に首にかけている。
二人ともすぐにそれを首から下げた。これで三津子の遺骨は常に、俺たち三人と共にある。

その後、三津子のアクセサリや愛用品を整理した小ダンスを開けて、ネックレスや指輪などを見せるが、もとより高級品やブランド品はない。「好きなの持って行きなよ」というと二人とも、「これはこれでこうしておけば?」と言う。
なるほど、この箱一つに「ママの形見の小物」が収まっていれば、俺が死んでもこれごとどちらかの家へ行けばいいか。

「猫たちは?」というのでユキはすぐ起きたが、シマが二階へ逃げたきり降りて来ない。ゆうちゃんが「見てきていい?」というので皆で二階へ上がると、ベッドの下に隠れていた。出て来ないので、3人でさんざん呼ぶが結局そのままだった。
シマは諦めて、壁面の本棚を見せる。これもちょっとずつ俺が整理して、ガラス戸の中には貴重な「ママの本」を保存してある。もうオリジナルの本も残り少ないこと、でも新たに代表作については復刊が決まった、ということなどを話した。

それから下へ降りて一息ついてから、ぼちぼち今後のことを話した。人が一人亡くなると、いろいろと面倒な手続きが生じてくる。相続もその一つ。詳細は置いておくが、俺はとにかく「やまだ紫」の作品を後に遺し、伝えていくことにしか執着はない。
二人とも、それは任せると言ってくれた。
また衣装部屋へ行って三津子の服で欲しいものがあれば送るよ、と話す。しかし服というのはサイズや好みがある。これらにしてもブランド物などないし、ここ数年着ていたオーバーオール数着は本人の体を採寸してオーダーで作ったものだ。着るにしても大幅に直さないとならないし、結局「これもこのままでいいんじゃない?」ということになる。
俺は「そうだね、まだどうせ俺、捨てられないし…」と言うとちょっとだけ胸にこみ上げるものがあった。ちょっと前は、この部屋に入るたびに彼女の服を抱きしめては泣いていた。
子供たちの前でヒイヒイ泣くことは避けたかったし、だいたい三津子が生きていた頃、俺はそんな姿を見せたことはただの一度もない。
じゃあ愛用していたカバンは適当に分けて送るよ、ということにした。要するに二人に今何かを持たせても荷物になるだけだし、送った方がいいわけだから、じゃあそれはまあちょっとずつ整理しながらその都度考えよう、と話す。
それからは3人でデジカメの写真やハンディカムのムービーを見たりして、もっぱら思い出話をする。
みんなが忘れていたのに、遺品の中から三津子が団地時代の子供たちとのやりとりやメモを大事に取っておいたのを見せて、当時の話をしたり。懐かしい、気が付けばもう25年も前のことだ。

途中、函館のお袋が三津子の月命日だからと手配してくれた花が届いた。三津子の写真の周りがまた花で埋まり、華やかになった。
団地の頃のことを思い出して一度ちょっと涙が出たが、それでも久しぶりに家族が集まって、笑顔で思い出話が出来た。子供たちと花に囲まれて、三津子もきっとこの輪の中にいて笑っているだろうと思った。

5時をちょっと過ぎたので「そろそろホテルへ行こう」ということにして、3人でマンションを出た。
ゆっくり歩きながら、「ここもよくママと通ったんだよ」と話しながら、近くのホテルへチェックインをする。6階のツインの部屋へ一回落ち着いて一息ついてから、5時半ころ予約しておいた明青さんへ向かうことにする。
少し歩いたらもう蒸し暑くなっていたので、クーラーの効いた隣接するSCの中を歩いてから川端へ抜け、高木町へ向かう。ほんとうに、京都に来てから何度も何度も三津子と歩いた道だ。徒歩で、バスで、タクシーで何度ここを通っただろう。
バスで金閣寺方面へ行く時。彼女の大学への通勤もここを通って深泥池へ抜けた。河原町方面へ出る時は信号のない「泉川通り」を抜ける指示をして通った。もちろん、明青さんへも数え切れないほど通った。
?野橋の上から「あそこが猫たちの骨を流した飛び石」、下鴨病院の前で「ここの桜が見事で、脇の桜はしだれ」、下鴨病院も「ママがコケた時何度か通ったよ」と話しながら歩いた。本当に、一緒に三津子が歩いていればどんなに良かったかな、と思う。

明青さんには6時前に入った。
毎週毎週通っていたのに、三津子が死んでしまってから、お袋と一度来ただけでご無沙汰しているのが申し訳ない。
店の「長ーいカウンタ」の俺たち夫婦二人がいつも座っていた席には、すでに知らない夫婦が座って飲んでいた。俺たち二人が必ず行くと決めていた曜日は、あの席におかあさんが「御予約席」という紙を置いて取って下さっていた。
俺が一人でカウンタへ座れるようになる日は来るのだろうか、まだ解らない。

おかあさんはいつもの笑顔で迎えてくれ、旦那さんもカウンタの奥から威勢良く「いらっしゃい!」と言ってくれる。「こんばんは」と言って俺の後から着いてくるのはいつもいつも、三津子だった。今日は彼女が愛した娘が二人。
奥の小上がりを取って下さっていて、すでにテーブルの上には三津子の写真の額と花、陰膳までおいてあって、驚いた。
「明日は月命日やからね」と言ってお花を置いて下さったのだ。陰膳のぐいのみはよく冷やされていて、すでに彼女が好きだった日本酒が注がれていた。
(ああ、待ちきれずに先にやってたんだね、良かった)と思った。

俺も、いつも部屋に飾ってあった遺影を持って行ったので、その額の横に並べた。おかあさんはおしぼりを持ってきつつ笑顔で「あ、今日は大きい写真やね!」。
カウンタのお客さんに配慮して、小上がりの内側でおかあさんに二人の紹介をした。
「こちらが長女のもも、こちらが次女のゆうです」と言うと、
「あ、ももちゃんに、ゆうちゃんやね」と確認するように言われ、二人は「何で知ってるの?」みたいな表情。おかあさんは「だってブログ読んでるもの〜」と言ってくれ、みんなで笑う。
そうして「やっぱりお母さんによく似てはるね」と言われて二人は顔を見合わせていたが、なるほど、俺も向かいから遺影と見比べると、だんだんと母娘3人がゆるやかに近くなってきたように見える。
二人とも、もう俺と三津子が知り合った頃の年齢なのだ。

俺は「ここへ来たら生ビールだよ。どこも同じと思ったら大間違いだから」と言って、3人ともまず生ビールで「ママと乾杯」。
二人とも「おいしい!」と言っていた。生ビールのサーバーの管理や掃除、グラスの洗い方は乾かし方、そして冷やし方。全てに神経が行き届いていると、明青さんの生ビールになる。決して「どこだってサーバから出すんだから同じ」なのではない。
料理は「何でも美味しいから」と俺が夫婦で来てた頃のようにオーダー。突き出しからして綺麗で美味しいと、二人とも料理が出るたびに写真を撮っては「おいしい」と言ってくれる。

美しいつきだし


はもおとし、しまあじのたたき、サザエのつぼ焼き、手羽中の唐揚げ…、どれもすこぶる美味で、二人とも大満足の様子だ。俺も久しぶりに明青さんの絶品料理を食べられて嬉しい。
二人とも母親と違って大酒呑みではなく、生ビールも1杯2杯程度。俺だけ夫婦で来ていた頃のように、お代わりお代わりでがぶがぶ飲んだ。そうして3人で楽しく食べた。


しまあじのたたき
サザエのつぼ焼き
はものあぶりと牛の握り

途中忙しいのに何度もおかあさんが相手をしに来て下さり、
「京都に来てから、お母さんはとても幸せそうでしたよ。その前は知らへんからあれやけど、うちのお店に来られた時はいつもいつもお二人で仲良くしてらして、お二人とも相手のことを気遣わはってね。だから順番にしてもね、きっと良かったんやと思いますよ」と言ってくれる。
そういう話を聞くと俺もつい溜まらなくなって、やはり涙が出てしまった。娘二人が泣いていないのに、俺だけ「すんすんすん」と鼻を鳴らしておしぼりで涙を拭くなんて、こんなこと三津子が生きている時はただの一度も無かった。
「ちかちゃん、ママそっくりだよ」とゆうちゃんに笑われる。そうだ、この泣き方はまるっきりあの人の泣き方じゃないか。そういうゆうちゃんの目もちょっと赤い。
おかあさんも「ご主人のご病気のことを心配されてね、そういう話をするだけでいっつも奥さん涙ぐまはって」と言うように、いつだって三津子が先にこうなっていた。本当に三津子がいなくなって、俺が彼女と同じようなことをよくしていると思う。
おかあさんは「悲しいんやからね、別に我慢することはないんよ。泣いたらええと思うわ」と言って下さるので、余計におしぼりが目から離せない。子供たちの前では泣くまいと思ったが、無理だった。
それでも、久しぶりに「4人」でおいしい料理を食べて酒が飲めて、本当に嬉しかったし、楽しかった。締めにははものあぶりと近江牛の握り。料理も絶品で、10時過ぎまで長居してしまった。
最後にレジまで出てくれたご主人に改めて二人を紹介して、御礼を言って階段を降りる。おかあさんも下まで降りてきて手を振って下さった。飾って下さっていた花も戴いてしまって、本当に有り難かった。幸せなひとときだった。

ホテルまでの道をまた、3人で歩いて帰る。
?野川の上に浮かぶ月は朧で、「明日は雨かな」と見上げる。三津子がほろ酔いで俺の腕にぶら下がって、よくこうして二人で月を見上げたのを思い出す。
今日は雨の予報だったのに、やっぱり三津子が止めてくれた。もう、彼女は悲しんでいないのだろう。

いただいた花とシマホテルの下で二人と別れ、いただいた花をぶら下げて、ゆっくりゆっくり歩いてマンションへ帰ると、10時20分頃だったか。
仕事机の横にあるスキャナの上に、三津子の本を積んでおいたのが、何冊か下に落ちていた。ユキが俺たちが居なくなったので、寂しがってそこでくるくると自分で自分の尻尾をくわえて、泣きながら回転したらしい。
本を片付け、着替えてから遺影を元の場所に戻し、いただいた花を飾った。シマがすぐに出て来て甘える。
それから三津子に手を合わせて「今日は子供たちと明青さんへ行けて、良かったね」と話しかける。
本当に幸せな一夜だった。
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
やまだ紫クロニクル

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