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2009-08-01(Sat)

未発表作に思うこと

8月1日(土)

夕べ寝たのは1時ころ。
今朝はまたユキが足元で寝ており、熟睡出来ず。言葉がわからない生き物を、無碍に蹴飛ばしたりベッドに来るたびによけたりすると、嫌われていると思わないかと、変な心配をしてしまう。なので途中で気付いても、そのままにしてこちらが気を使っている。

朝方からそういう状態で朦朧としたまま10時手前にふらふら起きると、ユキはいつの間にか足元に置いた折りたたみイスの上ですやすや寝ていた。俺の足元から移動して外を眺めているうちに寝てしまったらしい。
曇っていたが比叡山は山頂まで見えた。
下へ降りて朝のもろもろを済ませる。しばらくメールなどチェックしたり返事を書いたりしていると、ゴゴゴンと雷の音。いつの間にか空は薄暗くなっていて、大雨になった。
こういう天気、三津子が好きだったなあ…と思いつつ外を見る。あの人は雷が鳴り出すと飛び起きて、満面の笑みでベランダへ出て行ったっけ。
その後しばらくして雷雨は止み、夕方までには青空に白い雲。どうなってんだか。

その間、『樹のうえで猫がみている』の原画を整理をしようかと思って納戸を開けて原画の袋を取り出し、ついでに別の袋を出して中身を改めると、「COM」以後「ガロ」でいわゆる「復帰」をするまでに描きためられたと思しき、描きかけの原稿の束が出てきた。

その中に、けっこうな枚数があり最後までペン入れを終えている作品があった。それは「描きかけ」といっても扉がないのと、本文の鉛筆線を消しゴムで消していないだけで、あとはタイトルとタイトル画があれば立派な完成作品だ。原稿のようすと画風からいって、「ガロ」復帰よりは数年前、だから「太郎」や長月三津子名義での「GALS LIFE」への執筆よりも以前と思われる。
誤解されがちだが、彼女の処女「単行本」上梓は遅く、青林堂の『性悪猫』(1980=昭和55年8月)である。
漫画家としてのデビューは「COM」に掲載されたのが1969=昭和44年(「ひだり手の…」)なので、そこから単行本が出るまでずいぶんかかってしまった。それはもちろん、結婚と出産育児によってのブランクがあったためである。それにしても、10年のブランクがあっても、作家性に衰えはなく、いや、さらに進化して画力も大幅に向上しての「復帰」は、いかにこの「休筆(せざるを得なかった)期間」にも、彼女が精進を欠かさなかったかということの証明だろう。

そういうわけで「COM」に描かれたものを中心に編まれた初期作品集『鳳仙花』(ブロンズ社)が最初の単行本だと誤解されることがよくあって、実際やまだ自身も数年前までそう勘違いしていたことが、彼女に聞いて解った。
「あれっ、『鳳仙花』が先じゃなかったっけ?」と言って笑っていた。「休筆」前の自分にとっては未熟と思っていた作品群が、『性悪猫』のあとに出たとは、本人でも記憶上思えなくなっていたのだろう。
もっとも『鳳仙花』は『性悪猫』とほぼ同時期(…同じ年の10月)に出版されたから、勘違いも無理はないが。

さて、新に発掘した「未発表作」だが、例によって執筆された年代の特定が困難だ。
そもそも『鳳仙花』所載の「落花生」にしても、『鳳仙花』のために「描き下ろした」のではない。「未発表作」だっただけで、描かれたのは恐らく「ガロ」の入選前後だろうと思う。画力からいうと「ガロ」入選作(1971年2月号掲載「ああ せけんさま」)よりも上のように見えるので、その後に描かれたもんかも知れない。
ちなみに「ああ せけんさま」は現在に至るまで単行本には未収録だ。
そして今回発見した未発表作より、『鳳仙花』に収録した当時未発表作だった「落花生」の方が漫画としても画力も、上だと思う。こういうパラドックスみたいなことがあると、「クロニクル」作成には本当に困ることになる。
しかし今回の「未発表作」、執筆時期は恐らく1971年の中頃と見た。
主人公は、両親はおらず姉と二人で暮らす中三の少女。繊細な心を持つがゆえに同級生や教師と折り合いが悪く学校をサボりがちだが、それを友人に「不良」と断じられ、危うく本人もそういう道へと傾きかける。だが踏みとどまり、姉の自分への思いへも気持ちを寄せて、精神的に一つ大人になる…という「小さな日常」を描いた小編だ。
大事件が起こるわけでもない。大雑把に過ごせば何てことはなく過ぎ去ってしまう、子供と大人の間の一瞬、その日常を切り取った、まさしくやまだ紫の作風と言えるもの。こうした感性とテーマは「COM」時代からのもので、その意味では立派な「やまだ紫の作品」だ。
ただ彼女は完成寸前だったこの作品を発表することはなかった。
つまり、『鳳仙花』出版にあたって彼女は、十年前の「COM」時代の「未熟な作品」をまとめるというのは、かなり「恥ずかしいこと」だったと後に述懐している。それで、せめて当時の、つまり「結婚・休筆」前の未発表の作品の中から「これなら」というのを選んだのが「落花生」だった…。
『鳳仙花』所載の作品は、確かに後の「やまだ紫」から見れば未熟かも知れないが、今見ても、どれも素晴らしいと思う。何気ない日常、暮らしの中でひとの内面を鋭く描き出し、読む者に「気付き」を与える。画力が少々追いついていないだけで、これぞ「やまだ紫の世界」という作品ばかりだ。
ちなみに「落花生」のタイトル画は紛失したとして、『鳳仙花』出版時(つまり十年ほど経って)描きおろしたものだ。なのでこの扉の一枚絵だけ、収録作と絵柄が違うことに、お持ちの方なら気付かれるだろう。
今回、その「落花生」の幻のタイトル頁も未発表原画の中から発見した。
『鳳仙花』に収録された、「COM」から十年を経て大幅に向上した画力に磨き上げたものではなく、どこか無骨で初々しさの残る絵だ。やはり「ああ せけんさま」と同時期だという推理は正しいのではないか。
そしてもしこれが『鳳仙花』にそのまま「落花生」のタイトル頁として収録されていたら、どうだっただろう…と想像してしまう。

無題の「未発表作」をなぜ1971年ころと推測するかという理由はもう一つ。「ガロ」の「ああ せけんさま」の画力と「落花生」では、「落花生」の方が画力からみて後であろう。「未発表作」は、この「落花生」と同時期か、少し後のように見える。
しかし彼女があの超難関・「ビックコミック賞」に佳作入選したのは1972年(掲載は73年)。この作品では、たった一年でメジャー一流誌に認められるまでに、めざましい画力の向上を見せている。
つまり、この間…1971年の「ガロ」入選以後一年ほどの間に、何作かこつこつと描き溜めたものが「落花生」でありこの「無題」の未発表作品だと推定するわけだ。
おそらく、『鳳仙花』の出版にあたって、未発表作で何を入れるか、彼女は「落花生」を選んだ。そして今回出て来たタイトルのない「無題」作品は没とされ、いつしか彼女もその存在を忘れた…。
そういうことではないかと、想像するわけだ。

同じ封筒からは、ペン入れだけをざっと粗く入れてあるもの、鉛筆線だけのもの、さらにラフっぽい線だけのものなど、けっこうな未完成原稿が出て来た。
これらは恐らく、先の推測からしても、使っている原稿用紙などからも、1971年から1979年にかけてのものにはもう間違いがない。
1971年に結婚し、1972年「風の吹く頃」という少女が父親を殺すというある意味ショッキングなストーリーで見事「ビッグコミック賞」佳作を受賞してから、1978年に『ギャルズライフ』に長月三津子名義で「わたしの青い星」を描くまでの間、彼女はこつこつと作品を創ることを忘れていなかったのだ。

彼女自身が後年よく話してくれたように、単に「結婚・出産・育児による休筆」ではなく、「結婚直後から夫の飲酒による暴力、度重なる浮気、挙げ句の別居」もあったという。
けれど、数年間好きで交際した相手と結婚し子をなすということは、愛し合った男女の生活がそこにあったことは間違いがない。
一方的に彼女の最初の結婚が、その日その瞬間から全てがどす黒く暗いものだったとは思えないし、思いたくない。
これも彼女自身の口から聞いたことだ、結婚はともかく出産や年子で生まれた赤ん坊を、たった一人で面倒を見ながら「漫画を描く」なんて「物理的に不可能である」と。
目尻を下げて何もかもやってくれる優しい夫や義理の父母でもいれば、それは苦労はないかも知れない。しかし彼女は「一人」だった。
赤ん坊という生き物は、知性を持って生まれては来ない。傍にいる者に、ただ欲望と本能のまま、一方通行で泣いたり笑ったりして訴えることだけしか知らない。側に居る人間が自分だけだったとしたら、それをほったらかしにするということは、「母親」としても「人間」としても、出来ることではないでしょう? 彼女はそう言っていた。

作家「やまだ紫」が生まれた「COM」入選作『ひだり手の…』(1969年5月号)、そして「ガロ」入選作『ああ せけんさま』(1971年2月号)、さらに「ビッグコミック賞」佳作受賞作『風の吹く頃』(1972年、掲載は1973年5月15日増刊号)。
「ガロ」と「COM」という伝説の雑誌に加え、「ビッグコミック」という超メジャー、マスの世界でも高い評価をされたという「事実」は、作家・やまだ紫が単に彼女が謙遜して言っていたような「単なるマイナー作家」などではないことを示している。
このことは、漫画史にきちんと記しておかねばならないと思う。







凄い三作●これほどの凄いスリーショットがあろうか…
「ひだり手の…」●「ひだり手の…」・「COM」入選作、1969年5月号
「ああ せけんさま」●「ああ せけんさま」・「ガロ」入選作、1971年2月号
「風の吹く頃」●「風の吹く頃」・「ビッグコミック」佳作受賞作、1972年・掲載73年
柱には白土三平先生評が!●掲載時、柱には巨匠三人の論評つきだった/コピー提供…小学館クリエイティブさん

ちなみに「ビッグコミック賞」の選者が73年の作品掲載にあたってコメントを寄せている。
その顔ぶれがもの凄い。
白土三平、横山光輝、藤子不二雄である。
白土三平は、絵には「一見粗雑さを感じる」としつつ、「もう一水準上での表情の工夫があれば、グーンとよくなる作品です!」と絶賛している。
横山光輝は「少し荒い感じのする絵だが、この作品の場合は、これでいいという気がする。」、「これだけの描破力のある人だから、次回はゼヒ読者がとびつくようなおもしろさへの挑戦を!!」とやはり絶賛。
藤子不二雄は「作者の才気と生活の実感がよく出てい」るが、「ドラマとしては若干絵に頼りすぎ」としている。
これらの先生方を「巨匠」と呼ぶのに、誰も反論はないと思う。そして、その先生方からの「やまだ紫への評価」も。
まったくもって惜しい時期に、彼女は「休筆」をしたものだ。いや、「休筆せざるを得なかった」のだが。
もちろん、二人の子供たちにとって、母親がちゃんと赤ん坊の時に常に守ってくれたことは幸いだったと思う。しかしこの時期に「作家・やまだ紫」がほぼ6年間作品を発表できなかったということは、漫画を愛し漫画業界の端くれに居る者とすれば、不幸以外の何ものでもない。

自分は、一人の女性、妻、連れ合いとしての三津子というひと、ももちゃんやゆうちゃんの母親としての三津子と一緒に暮らすことが出来たが、その部分と、尊敬する偉大な才能であった「やまだ紫」とをなるべく分けて接していた。
そうしなければ、とても彼女に料理をつくってもらったり、「夫」などという立場に居させてもらえるわけがない。敬愛する作家に「ねえもうちょっとご飯よそってよ」とか言えるわけがない。
もともと「編集は黒子たるべし」という自分なりの哲学があったのと、やまだ紫に比べて自分という人間などカスみたいな存在だという認識があったので(今でもあるが)、一緒に暮らすようになってからずいぶん、公には二人が「夫婦」であることを隠してきた。隠さないと、彼女の作品の読者にも失礼だと思ったからだ。

今、三津子は死んでしまった。でも俺と共に彼女はある。
やまだ紫も作品と共にファンの皆さんと共にある。
俺もファンの一人だから、今、俺の中でようやく三津子とやまだ紫先生が一つになって、共にあるのだ。
三津子の歩んできた人生と、作家であるやまだ紫を重ねて研究していくことで、作品の理解は深まるし、違った感動もまた生まれる。つまりはファンとしてまた違う喜びを新にする、ということだ。
こんな作業を任されるとは、幸福の極みだと思わねばならない。
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
やまだ紫クロニクル

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