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2009-08-05(Wed)

三度目の月命日

8月5日(水)

夕べは11時前に寝てしまった。その後朝方4時過ぎに目が醒める。ちょうど三ヶ月前のこの時間、三津子は息を引き取った。あれからもう三ヶ月、三度目の月命日がきた。

三津子と仲良く元気に暮らしていたここでの暮らしは、なぜか遠く感じるようになってしまっった。けれども、あの「悲しい十日間」の記憶はあまりに辛く厳しい現実だったせいか、いまだにはっきりと記憶と映像で刻み込まれ、はがれない。思い出すと今でも情動失禁を起こしそうで怖いほどだ。
彼女が深夜に倒れ、救急車で搬送し、医師からの残酷な診断を受け、それでもほんのわずかな可能性に賭けた。そして、その結果の非常な宣告。彼女は十日の間、遠く離れたところから肉親がお別れに来て、俺自身にも、突然に半身を引き裂かれるという現実を直視する時間をくれた。
肉体が温かく「そこにある」という状態は、とうにそれは「三津子」という人格ではなく魂は別にあるのだという理解を超えさせるリアルさで、遺される者に執着をもたらし続ける。
もし、あの状態が一年、二年…続けられても、「脳死」という悲しい現実はどんなに医学が進歩しようとも、絶対に覆すことはできない。ごく一部でも脳の機能が残っていれば、意識が戻りリハビリによって運動機能の回復に期待も持てる。そういう人を何人も知っているし、我々の近いところにも、何組かそういうご夫婦がおられる。「コスモス短歌会」の桑原さんご夫妻。「ねこ新聞」の原口さんご夫妻。
三津子の場合は、残念ながら、何らかの血管異常がすでにあり、手術を開始して初めて、「救えない」ことが解った。その後の脳のCT映像は、もう奇跡は起こらない、二度と彼女の意識が戻ることは完全にないという現実を残酷に示していた。
ありありと、蘇るあの人生で最も悲しく辛い日々。
あれから、もう三ヶ月。

12日には百か日、そしてここ京都では13日には迎え火をし、16日には五山・送り火で霊を送る。

けれど彼女はもうすでに「遍在」であり、どこかから帰ってきて、どこかへ戻る…という存在ではない。彼女は「つねにある」。彼女を思う、慕う、愛する、全ての人とともにある。
だからお盆や法事は、生きている俺たちのために区切りとして行われる儀式だ。そして、そのことで彼女を思う人たちの思いが「一つになる」という意味において、その「儀式」も大切なのである。
昨日はグーグルストリートビューでなつかしい街々を見た。京都へ転居する前に住んでいたマンション。そこから浮間公園やら、清竜丸のマスターたちとよく遊んだ蓮根駅周辺、団地のあった西台や買い物にしょっちゅう出かけた志村坂上や大山ハッピーロード…。
いろいろと懐かしく見た。どこも、三津子といったい何度、何十回歩いただろうか。そこへ戻れば二人の生活がまだ続いているような、濃密な二人の「思い出」という記憶の塊に比例するかのような、「重さ」さえ感じる映像だった。

今日は新聞を取りに下のポストへ行くと、ゆうちゃんから封書が来ていた。その後、携帯でメールを打つのはもどかしいので、返信をパソコンで打つ。
手紙を書きながら彼女の母である三津子のことを思い、ちょっと涙が出る。三津子は突然の死が訪れる直前まで、何度も
「いっかい休みになったら泊まりがけでゆうのとこ行って来ようかな。」と言っていた。
ゆうちゃんは「マミー」つまり三津子にいろいろ相談したいことがあっただろう。でももうそれは出来ない。俺が愛するひとを失ったのと同様に、彼女も愛する母を失ったということは、とても辛いことだっただろう。大きな精神的な支えを失ったことにもなる。
手紙を書き終え、三津子の仕事机の上にずっと置いてあった、あの人が集めていた小さな「キューピー人形」がたくさん入った藤の手提げ籠と、それに入り切らず収めてあった箱を梱包し、手紙と箱に入れて送る手配する。

お盆が開けたら今度は詩画集『樹のうえで猫がみている』の打ち合わせで思潮社さんが打ち合わせに来られる。しかし百か日を終えたらと思っていた、大学の研究室を整理しに行かねばならない。これもけっこう大変な作業と思われるが、ここは京都だ。俺しかいない。

月命日のご馳走
ドアフォンが鳴ったので応対すると、花のお届けだという。
受け取ると、三津子の親友、詩人の井坂洋子さんご夫妻からだった。手紙も添えてくださり、有り難かった。さっそくテーブルに飾り、三津子に
「こうしていつも花に囲まれるのは君の人徳だね」と語りかける。

夜は晩酌しながら、たまたま新聞を見たら懐かしい番組「YOU」の再放送があると書いてあったので、見た。
「YOU」はNHK教育の若者向け番組で、再放送はその第一回目だ。司会は糸井重里と青島美幸。27年前のことなので当然ながら、お二人とも若く、今見るとかなり恥ずかしいほどのハイテンションである。「お堅い」NHKでもさらに固い「教育テレビ」で、それまで放送していたのはその名も「若い広場」(笑)。これが退屈でつまらぬ番組であったゆえ、深夜に本格的な若者向けトーク番組としてリニューアルを始めるというので、当時高校生だった自分も第一回から割合に見た記憶がある。
第一回のテーマは「サラリーマン」で、当時としては珍しくぐるりと周囲を高校生大学生、そしてサラリーマンという「素人衆」が司会を囲むかたちで進行される。
ゲストは当時まだ第一勧業銀行に勤めていた頃の、「サラリーマン歌手」として有名だった小椋佳だ。(余談だが三津子も小椋佳の曲や歌は好きだと言っていた)
番組では赤チョウチンで憂さ晴らしをするサラリーマンのVTRを見たり、会場の若者たちに「サラリーマン」という言葉や「就職」というものへの印象や考えを聞いたりしたあと、小椋佳に先輩としてアドバイスを求めていた。小椋佳は
「スポーツはルールが決まっているが、会社の場合はそれを変え得る立場に(あなたたちが)なれるかも知れない」という示唆に富んだ話をしていた。
またグチばかり言っているようだと、
「それに赤チョウチンで上司や会社批判をするのもいいが、それが過ぎると結局自分が上司になった時に、その『批判される側』になるだけだろう」ということも話していた。小椋佳はもちろんその後一勧を辞めて歌手専業となってもう長いわけだけど、この放送の段階でもう20年以上「サラリーマン」をやっている。その経験を若い世代に伝える、的確にかつ示唆に富む「言葉」を持っていることに感銘を受けた。
関係ないが、スタジオにいる27年前の高校生も大学生も、今見ると皆驚くほど「老けている」。悪い意味ではなく、外見だけではなく「大人びている」という意味だ。
日本人はネオテニーかと思えるほど、大人という年齢になっても見かけはかなり幼くなってきている。若くなった、というレベルではないような気がする。
このことを世界一の長寿国化と結び付ける向き…例えば寿命が長くなりすぎたために相対的に「幼児期〜少年期」も伸びた…というような意見もあるが、日本以外、欧米の長寿国ではこういう現象は見られない。
ではアジア系特有なのかといえば、日本以外のアジアの国では年相応に老けている民族の方が遥かに多い。
自分でも、俺が十代だった頃の「四十代半ば」というのはもう完全に外見はもちろん、本人の意識も世間の扱いも確実に「大人」どころか、下手すると「中年」いや「初老」という線引きすらあったと思う。
自分は今病身だし、分相応に老けている自覚はあるものの、世間では「アラフォー」とか言ってやる気マンマンである。あれは同世代として見るとかなり恥ずかしい。だいたい、「超なんとか」という「チョー」が使えない世代が俺くらいからだと思う。それがメディアに踊らされて若ぶっているのは、とても見苦しい。まあ不景気だし、「景気」というのは消費者が踊ってくれないと回復しないし、その役目を広告で持っているテレビというメディアが負っていることは承知の上だが。
30代といえば今では世間の扱いも本人の意識も完全に「青年」だし、20代なら下手をすると「少年」に近い。実際街中でもネットでも、あるいはテレビに出ている人たちを見ても、話している内容や話題、知識や興味の幅などを注意深く見聞してみると、かなり若返った印象を持つ。

こういう中で最近「成人年齢を引き下げよう」という動きもあるが、今の18歳だと、ネオテニー的外見がどうだこうだよりも、「意識の問題」で大いに不安がある。
今の18歳の全部が全部とは言わないが、テレビにバラエティが増え、レベルの低い「大人」がどんどん「タレント」「役者」「芸人」としてその無知・幼稚ぶりを世間に流布するようになってから、それを見せられている下の世代もどんどん「上があれだからこれでいいんだ」と思うようになっていったと思う。
大宅壮一が「一億総白痴化」すると警告してからそろそろ50年らしいが、テレビを低俗なメディアとする活字信奉者的な高所からの指摘ではなく、テレビというメディアの特性を考えれば、さもありなんと感じる。
テレビが「黙って口を開けて見ていても次から次へと情報が送られてくる」メディアであるという性質上、物事をあまり考える習慣のつかないうち…例えば幼児期から「それ」を与えられ、しかも疑問を持たずに慣れきってしまうと、そりゃあ想像力、創造力が低下するという指摘は間違ってはいないと思う。
俺もバリバリの「テレビ世代」だが、俺が高校生になる頃はまだテレビはほぼ「一家に一台」の時代だった。テレビを見るには居間におらねばならず、必然的に通常の家庭ならば親兄弟という他者とそれをシェアせねばならなかった。テレビを囲む全員がそうして「白痴番組」を望むのなら、もうそれは家庭の問題なので仕方のないことだが、普通の高校生は一人でやりたいことが山ほどあった。
もちろん若い男なら当然エロ本を見るとかそういうこともあるが、好きな作家の本を読んだり漫画を読んだりレコードを聴いたり、借りたレコードをカセットにダビングしたり、その時に曲目やタイトルを写したり、ギターを弾いたり、座布団をドラムがわりに叩いたり、こっそり酒を飲んだり煙草を吸ったり、もちろん友達と騒いだり、それなりに高校生は忙しかったのだ。
テレビは特別に見たいものだけを見る、という時代だった。その「見たいもの」が例えば「アイドルが出るから」という理由で、テレビにかじり着いている奴は「馬鹿」というレッテルを貼られたものだ。
「中二病」という嫌な言葉があるが、中学生や高校生なんて人生で一番マヌケな季節だ。根拠もなく他人を馬鹿だと思い、邦楽より洋楽の方が格好いいと思い、ジュンブンガクを解りもしないのに読んだり、偏頗な知識をどこかから仕入れてきては披瀝しては悦に入るとか、まあ今のようにネットなんて無いから、それはそれで仕入れ先が違うからあちらこちらに個性的な「馬鹿」が居て、もちろん自分もその中の一人で、面白い季節ではあった。
今の高校生など子供たちも「テレビなんかもうとっくに終わっている」という意見も多いが、それは他に面白いことがたくさんある、という意味において当時の俺たちと同じではある。
けれども、今の子供たちの「他の面白いこと」は携帯だったりネットだったりテレビゲームだったり、30年前には無かったものばかりだ。そういえばウォークマンの初号機は中学生の時だったか、金持ちの子が遠足にこれ見よがしに持って来ていたのを見た。ベルトに単1だったか単2だったかの電池フォルダーを重そうにぶら下げていたのが強烈に記憶に残っている。

ともかく、「情報」は確実・不確実なものも含めて、今は大量にある。求めれば際限なく入手できるし、求めなくても嫌でも入ってくる。ネットはかなりの割合で不確実なものも多く、学生がレポートなんかであちこちからコピペで切り貼りして来るというが、そんなものちゃんとした大人が一読すればすぐにバレるに決まっている。

一番大切なのは自分が大人になることを、一つ一つ段階を踏んで経験していくことだろう。その積み重ね、失敗もたくさんするし恥もかくが、それによって過ちを繰り返さないという知恵が生まれ、賢くなっていくのだと思う。それが「地頭(ぢあたま)」の良さであって、偏差値的な詰め込み教育でいっとき暗記した「情報」とは違う。情報はすぐ忘れてしまうが、経験を積み重ねてきた結果に得たことは意外と忘れないものだ。とはいえ40の坂を越えるとそれもどんどん消えていくような気がするが。
昨今のクイズや雑学ものをたまに見たりするが、どう考えてもネタ本というかクイズの解答のための「情報」しか見ていない連中が、したり顔で「知識」や「教養」があるかの如き態度をしているのを見るが、たぶん収録が終わったらそのほとんどを忘れるだろう。
では芸人に多いが「なになにオタク」系の連中も、やれ「キン肉マン」のなんとか超人だとか「ガンダム」の何の名前だ名台詞だとか言うが、狭すぎて恥ずかしいし、昔だったら30代を超えて衆人環境で話せる内容ではなかったろうに、と思う。
日本人は幼くなった、と思う所以だ。
今の日本で成人年齢を下げるという議論が真顔で行われるということにちょっと信じられない気持ちがするが、俺だけなんだろうか。
四半世紀前の自分が「成人」と言われたら「ちょっと待って下さい」と言うに決まっている。
何ら知識も経験もない自分が、いきなり大人扱いされ社会に放り投げられても困る。もちろんそこから何とかしてやっていこう、そういう気概はあっただろうと当時の自分を過大評価する自信はあるが(笑)、今の、この日本という国、社会で、18歳に成人年齢を引き下げるというのは「若い世代を守ろう」という意識と配慮に欠けているのではないかとさえ思う。
成人年齢を引き下げることによって、いったい誰が得をするのか、若者ほどよ〜く考えてみた方がいい。
税収が増えるからもちろん国家と官僚は喜ぶ。「大人だから」「自己責任」という美名(?)のもと、ローン件数やカードの発行枚数は激増するだろう。誰が喜ぶだろうか、すぐに解る。当然それらを悪用する詐欺も爆発的に増えることも容易に想像がつくけれども、その時はもう「大人の判断でしたこと」だから、と突き放されるだろう。
過去に一度導入され、さんざんな評判で中止された「サマータイム」の導入を今になって言い出す連中とか、まあ社会の趨勢や普通に世の中を見ていれば生活者として「?」と思うようなことを言い出す連中は、かなりの確率で自分の利益つまり「金」と結びついていると思った方がいい。
誰が得をするのか、どことつながっているか。そういうことはすぐにバレる、そのことは歴史が証明している。

「景気」対策のためにメディアは小金を持っている中高年を何とかして踊らせようとしている。いっぽうでこれから長く消費をして貰わないと困る若者を、とっとと「大人」に仕立て上げようともしている。
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
やまだ紫クロニクル

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