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2009-08-13(Thu)

初盆

8月13日(木)

夕べは12時過ぎに寝たのに、今朝は5時前に目が醒めてしまい、どうにも寝られずに起きてしまう。外は薄曇りで雨が降りそうな天気。
リビングに降りて、朝のことを一通り済ませてから、テレビをつけて見ていると眠気が来るような気がしつつも、やはり寝られない。薬を飲んでもう一度寝ようかとも思ったが、6時前という時間を考えてやめておく。
テレビを見るが全く眠くならないので、7時過ぎに一度着替えて新聞を取りに行きがてら、コンビニへ買い物に行く。
お盆に入った早朝ゆえ、さすがに車の通りは少ない。ゆっくり道路を歩いて渡りコンビニへ…と思ったらタクシーの空車がけっこうなスピードで近付いてきて、慌てて早足で渡る。早朝のお盆で空いている道、車の方も歩行者が横切るということを考えていないわけだ。ていうか信号を渡れよと思われるだろうが、コンビニ前の信号は「点滅信号」で、普段から近隣の人は皆そこらを車の切れ目を見てホイホイ渡っているのだ。
コンビニで暇潰しの週刊誌類と朝の卵サンド、パックの「白バラコーヒー」、足りなくなったゴミ袋などを買ってすぐに戻る。パンを食べて新聞、週刊誌と読んでいくが眠気は来ないままだった。

その後郵便局がエクスパックを届けに来たので受け取ると、行政書士事務所から。いろいろと手続きがあることの関連書類。この「手続き」が詳しくは書かないがけっこう大変なのだが、それらと平行して復刊する単行本の手配、原稿・原画その他の整理、大学の研究室の整理もしないといけない。
考えるだけで頭がクラクラしてくる…って本当に貧血ぎみなのか目眩なのか、頭がクラクラする。
とにかく他の人に任せられない、いや、任せるとその都度お金がかかる。そしてここは京都、親戚もいない。

それから階段下の納戸を開ける。ここに収めてある原稿や原画などの主な段ボール箱は全て開封し、新たな封筒に全て出来るだけ詳細に摘要を書き入れて整理をした。
年内復刊の単行本に収録のものを優先して整理を進め、その他の主な作品類はほぼ終わっているが、まだ未整理のものもある。それが気になったので、それらを出して整理を始めた。
前に一度重要な原稿がないかは確認しておいたものなので、あとは新しい封筒に摘要を書いて移していったり、返却時に乱暴に入れられているものをきちんと保護したり、揃えたりする。

三津子・やまだ紫が毎日新聞で連載していたイラスト&コラム『お勝手に』が最初の単行本になったときの、カラー原画や描き下ろしのモノクロカットが出て来た。
この時の花束を持つ「お母さん」の絵が大好きなので、いったん高解像度でスキャニングしておいた。それから新しい封筒に整理していくが、内容確認で単行本『お勝手に』(最初の上製本の方)を取り出して少し読む。
今読んでも鋭い指摘や示唆に富むコラムで、面白い。内容が深刻に思えるような場合でも、軽妙なイラストがそれをうまく和らげていて、独特のいい味を出している。これが文章だけの人や、漫画だけの人には出せない「味わい」だし、やまだ紫という「作家」の優れた才能でもあると思う。

ちなみにこの時、俺はカバーデザインと本文レイアウトもやらせてもらった。実は、本文は今定番のアレとかソレではなく、あのPC-98シリーズ用の国産名DTPソフト「JG」でDTP出力したものだ。
高解像度でのスキャナがなかったので、イラストだけは出力した印画紙に指定で入れるという変則的な方法をとった。というより、当時は漫画が完全DTP化されることは難しいのではないか、という時代だった。技術的な問題とハードの能力の問題で、繊細な細いタッチはやはり従来の製版印刷の方法でないと無理だったのだ。
データ入稿した出力屋さんで、各頁が連なった状態の印画紙ロールを受け取り、それを見開きごとにトンボを打った状態で切って行き、束にする。
各々のページに入れるイラストは製版で入れるしかないので、アタリ用に全部コピーを取ったのと一緒にそれらを持って、竹橋の毎日新聞社へ行って作業をさせてもらった。確か校正室を借りて作業をしたんだっけ、と思い出す。大詰めの頃はもう初冬だったか、皇居のお堀に冬の青い空とまぶしい陽射しが反射していたのを記憶している。
1996年の暮れに本が出たので、もう12年以上前になるのか…と感慨深いものがある。カバーには彼女のキャラクタ「やま猫」の置物の写真を使った。これはどこかで買った紙粘土の猫の置物をベースに、彼女が紙粘土で耳などをアレンジして、「やま猫」カラーに色を塗った。
「あれ、気に入ってるんだから絶対返して貰ってね」
と言われていたのに、結局返却はされぬままになった。本が出来た安堵感から、ゲラやイラスト一式を返して貰ってすっかり全て返却済みと思い確認を怠った俺のミスである。
人形を返して貰ったという記憶がない。原画類はすぐに自宅へ持ち帰ったが、版下やゲラは勤務先にしばらく保管していた。俺は当時青林堂の親会社であるツァイト(「JG」の開発・販売はここだった!)へ移籍して、そのまま「ガロ」の担当箇所を編集していたが、その時の自分の机の引き出しに入れていたと記憶している。
翌年の夏、あの「ガロ編集部クーデター事件( 顛末日誌はこちら )」が起こって、何もかもがメチャクチャにされてしまった。猫の置物はその後、結局見つかることはなく、今に至っている。
何度も繰り返しているように、クーデター組の動向や報道の様子、こちらの受けた被害等は当時逐一掲示板に「生中継」しており、ログもそっくりそのまま保管してある(GARO Board LOG1997)。
当時は今に比べればインターネット普及率も信じられないほど低かったので、彼らの主張=
「青林堂はヤクザ(のような人物)に乗っ取られた、
山中は海外へトンズラした、
白取は金で転んでそいつと新しい「ガロ」を始める、
自分たちは長井さんの「ガロ」を守るために原稿を持ち出して保護し、身を隠す…」

という、まあ今にして思えばそれこそマンガ(笑)のような主張が取引先や書店、取次、マスコミに至るまで極めて計画的にバラ撒かれ、そしてそれが「そのまま」鵜呑みにされたわけだ。
いまだに、この突飛なシナリオを信じている人さえ居ると聞く。というか、漫画批評家や研究家と称する人たちで、ここら辺の事情を全く理解せぬまま「ガロ」を総括したり批評している人が居るようだけど、ちゃんと普通に考えたり、ちょっと調べたら解るのに…と思う。
まあ今もし、あんな行動と「言い訳」をしたなら、差し詰め2ちゃんねるあたりで「祭」だワッショイ状態、ぼこぼこに叩かれ「メシウマ」となっただろう。そうして果ては「痛いニュース」掲載か(笑)。

事件当時、「やまだ紫先生」は「ガロ」の古参作家では唯一、俺の連れ合いであったこともあったが、「正論」を貫き通した。
「新しい出版社を興したい、そこで自由にやりたいという気持ちは解る。しかしやり方が間違っている」と。

彼女にお世話になった人間もいるのだから、今は「やまださん」に手を合わせ、お詫びの一つでも言ったらどうなのかと思う。どれだけ俺たちが傷つき被害を被ったか、彼女がどれだけ哀れな「ガロ」の末路に心を傷めていたかに、少しは思いを馳せてみたらいい。それでもまだ舌を出し、我々へ嘲笑と非礼を続けるのなら、まあ死ぬまでそうしていればいい。
裁きは誰にでも必ず、訪れます。

ある人間は、俺が「デジタルガロ」の「編集長」という肩書きが欲しいがために欲を出して失敗した、そしてそれが「ガロ」を崩壊させたのだ、と中傷した。その人が編集していたエロ本か何かに、つまり「メディア」にそう書いた。
何のことはない、その人間はクーデター組と昵懇であり、裏でつながっていて、グルというか「一体」であったことが事件後に判明した。逆にこっちが「そういうことだったのか」と思った。
その上、俺たちがその人に発注したWEBでの仕事のギャラを払わないと、自分たちで潰しにかかった会社から「債権」を取り立てようと別の人間を立てて「サルベージ屋を呼ぶぞ」と脅しまでかけてきた。
俺はまだその人間がグルだと知らず、謝って待って貰おうと話そうとしたが、当時社長だった人に「君は経営者じゃないんだからそういうことはしなくていい、逆に出ていくと面倒なことにもなるよ」と言われて、忸怩たる思いでいた。
それにしても、その人間は俺よりも先輩で年長だが「やまだ紫先生」には新人の頃から公私ともにそうとうお世話になったはずだ。せめて彼女には、心から謝罪し、赦しを請うべきだと思う。なぜなら、その人間は、温厚なやまだが珍しく相当に憤慨していた一人だからだ。
言っておくけど、あなたは、彼女に、赦されていませんでしたよ。その他の人もね。


ところで原稿を整理していくと、とにかく担当していた編集さんによって、管理が雲泥の差であることが解る。
ある媒体から返却された原画には、担当さんの丁寧な礼状が添えられており、原画はキチッと厚紙で宛て紙をし、トレーシングペーパーが綺麗にかけられていた。封筒には媒体名もちゃんと記載されていて、なおかつトレーシングペーパーには「何月号」という記入もあるので、整理する側としては非常に助かった。それに、何よりも保管状態が素晴らしくいい。
ところが別なところからのものは、封筒こそ厚紙の大型のものだが、中に乱雑に原稿を「放り込んである」状態で、しかも媒体も何も不明どころか、あまりの悪筆で担当者の名前さえ読めない。しかもそういう編集に限って、ご丁寧に原稿のネーム(フキダシの中のセリフやナレーションなど)を全て消しゴムで消してくれている。

あのね、作家が書いたネーム=鉛筆書きのセリフを、消しゴムで、消したら、絶対にいけませんよ!!

漫画家が執筆した時に書き入れた「鉛筆書き」が許可なく消されてしまったら、その作品が掲載された「媒体」が無いと、永久に「ストーリー」が解らなくなってしまう。原稿を返却されても、媒体が保存されていなければ作家でさえ一語一句再現するのは記憶頼りとなり、増して、作家が亡くなってしまったらもう「お手上げ」だ。
こんなことはあり得ない初歩中の初歩的なミスである。致命的に作品を傷付けるミスでもある。何せ、台詞やナレーションが全て「無」なわけだから、もう作品として成立しない。
掲載された媒体があれば再生させられるが、こういうトンマな編集の場合、当然のように何ら礼状もなければ、原画にトレペもかかっていない。そして何という媒体の何年何月号に掲載した、という手がかりも皆無。しかも、枚数や順番の確認もせずに原稿を放り込んだだけ、という風情である。
漫画の原稿って、世界にたった一枚しかないオリジナルなんだよオイ。

先に書いたように、漫画の原稿というものは繊細な「画稿」なので、長くDTPは不可能だった。当然ながら低解像度では印刷に耐えられずモザイクのようなガタガタの線になるし、高解像度で取り込むと、ハード面でとても採算が合わなかった。十年ちょい前で、1GbのHDDが10万円した。タイプミスではないですよ。
今ではスキャナも高解像度になったし、そのデータを保存するストレージの容量も格段に上がった。原画をいったん取り込んで、そこに直接ネームを載せていくことが出来るが、それはようやくここ十年くらいの話だ。
それまでは作家さんからいただいた「原画」にマニュアルで写植を直接貼り込むのが当たり前だった。「ガロ」時代のある作家さんは「原稿に写植を貼られたくないから」と、自分でセル(透明度が高く、薄くて強度のあるシートのこと、昔のアニメは全部これに色を塗って動かしていた)を上に貼って入稿してきたが、それは極めて特殊な例だった。
写植指定はトレーシングペーパーをかけた上からか、あるいはコピーを取ってそれに入れるのが、まあ「丁寧な仕事」と言えよう。
ちなみに「ガロ」の場合、というか俺が勤務していた頃はコピー機すら無く(出版社なのに!)、コピーは一枚いくらで会社の前のコピー屋さんに取りに行かねばならなかった。それに貧乏な会社だったのでコピーどころかトレペだって、よほどのことがない一作ごとに一枚ずつなんてとても使えなかった。
なので、「ガロ」は原画に青鉛筆(青は製版で出にくい色だ)で「指定」を入れるのが普通だった。今にして思えば、「ガロ」ならしょうがないや…と思うが、作家さん側に立てば「『版下』扱いかよ」ということになるだろう。

それにしても、彼女の原稿を整理していると、本当に幅広い媒体で仕事をして来たんだなあ…と改めて感心する。いや、敬服する。

漫画雑誌はもちろんのこと、婦人雑誌だけでなく、一般週刊誌や新聞から詩の専門誌や短歌誌まで。漫画だけではなく文章やイラストだけというものも含めれば、その多方面への活躍に、凄い才能の人だったと、失ったことが惜しまれてならない。

夜は初盆の迎え火に、昨日もつけた灯籠をつけた。
迎え火
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
やまだ紫クロニクル

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