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2009-09-04(Fri)

愛と感謝

9月4日(金)

今朝は7時ころ目が醒めた。自分ではとろとろしたつもりが、もう一回時計を見たら8時をまわっていて驚いた。
朝のことを済ませて、朝食はどうしよう…と思いつつ、一昨日の夜、明青さんから帰ってきたら青木さんが香典を帰り際に置いていったのに気付いたので、昨日礼状書いたのをポストに投函しに出る。
それからコンビニでサンドイッチ、夕飯の弁当、缶コーヒー2つ、さらにおにぎりを2つ買って戻る。
朝のワイドショーの類を見てサンドイッチを食べて、その後は明青さんの帰りに週刊誌を4冊も買って、ぱらぱらと順番に読んでいた残りをまた読み始める。
軽くギックリ腰をやってから、どうもパソコンへ長時間向かうのが怖い気がする。仕事は休み休み。
1時ころ、昼は冷凍しておいたご飯を温め、買ってあった山芋をすり下ろしてダシと醤油を混ぜたのと、やはり冷凍してあったのをパーシャル室で解凍しておいた筋子を少し切って、インスタント味噌汁で食べる。何か気が付くと一日じゅう飯食ってる感じ。

ネットを見たり週刊誌を読んだりで、アッという間に夕方だ。
仕事もしたが、休み休みなのでほとんどダラダラと過ごしていた感じで、自分がつくづく情けない怠け者のように思えてくる。「ヒキニート」とか、家にいてネットばかりやっている人間を差別する呼称が頭に浮かぶ。俺は仕事をしているのでニートではないが、かといってこれでは引きこもりには違いない。
でもこんな体では何か外へ出て運動というわけにもいかないし、そもそも運動や散歩だってたった一人ではつまらないものだ。
つまらないというか、時々ググッと得も言われぬ寂しさに襲われることがある。
もう、三津子は居ないんだなあ…。
二人で笑ったり、話したり、飲んだり食べたりケンカしたり仲直りしたり。散歩したりパチンコ行ったり、買い物したり映画を見たり。もう何もかも、二人でやれることはない。何一つ、あり得ない。

夕方、6時前になって、朝コンビニで買っておいた弁当を暖め、三津子には酒とお茶に温泉玉子とサラダ、トマトと小さな鶏の唐揚げ、冷や奴を添える。
俺は弁当とサラダ、冷や奴で晩酌にちょっとだけビールを飲む。
冷や奴は一乗寺のスーパーで小さな豆腐が3パックになっているやつを買ってあったものだが、大きさがちょうどいい。三津子に4分の1ほどを切って、残りを俺が食うという適度な大きさ。おかかを振りかけたらユキが寄ってきて鳴くので、少し皿にあげる。

それにしても、テレビのバラエティは本当に見るものが少なくて困る。三津子の死後ずっと、とてもお笑い番組やバラエティを見る気がしなかったのだが、そういう気分の問題は脱した。実際夕べは変な生き物映像集を見たし、一人でも面白い番組があれば見られるようになったのだけど、なかなか「その面白い番組」が見つからないのだ。
仕方なくBSで日ハム対楽天の試合を仕方なく眺めていたが、中継ぎの楽天・有銘が死球、さらに連続四球で2点を与えたあげく満塁HRを打たれてガックシ…というところで見る気が失せる。
明らかに、彼は死球の後で腕が振れなくなっていており、動揺しているのが素人でも画面からよく解っていた。替え時を明らかに誤った采配だ。ノムさん采配はもちろん当たる時も多いが、理屈が多くこういう選手の「気」を見ることがさすがに鈍くなってはいないか、と思う。どうでもいいが。


その後いったん12時前に二階へ上がって寝ようとしたが、12時をまわって「ああ、もうあれから四ヶ月、一年の三分の一が経ったのか」「今日は君の誕生日なんだよね」と暗い中話しているうちに、やはり涙が出て来てしまう。
解っている。
別にいつまでもこうしてぐじぐじメソメソすることの、女々しさを。女々しいというのは女に失礼だ、何というか、要するに諦めの悪さだ。だってもう、彼女は死んでしまった、目の前で骨になった彼女を見た。骨を拾った、口にも含んだ。もう彼女の髪をなでることも、手をつなぐことも、腕を組むことも何も、一切が不可能であることは充分過ぎるくらい知らされた。
酒井順子さんが週刊誌の連載コラムで、夫や妻を亡くした人のことを「ボツイチ」と呼び、最初は悲しみの底にいた妻や夫も、しばらくすると元気を取り戻し、積極的に「ボツイチ仲間」と交流し、それなりに楽しく生きて行く様を紹介していた。それが正しいとかいいこと・悪いことというよりも、何だか無性に腹が立った。
何がボツイチだ。
心と魂で結びついた一心同体すら超えた二人の、相方がもぎ取られて、へらへらと「次の相手」など探せるものか。
一生で、例えば極端に言えばお互いが幼稚園の時に、一生添い遂げる運命の人に出会ってしまう人生だってある。確かに家庭を顧みず仕事だ仕事だといって最終的に定年後に妻に捨てられる人生もある。昭和の男、それも俺たちくらいまでの世代に多いが、いわゆる蜜月を過ぎれば、お互いに無関心になり空気のような存在となり、やがては不快な同居者となっていく例も多々ある。
ただ、それらは全て「俺と三津子」という夫婦とは違う人たちの人生の話だ。俺たちの人生、夫婦の生き方とは全く関係のない話だ、当たり前だが。

俺は二十歳そこそこで、「運命の人」と出会ってしまった。そのひとは十七歳も年上で、しかも離婚して二人の子どもを引き取り、懸命に暮らす母親であると同時に、偉大な敬愛すべき漫画家の先生でもあった。
でも、俺たちはお互いが惹かれ会って、今考えれば異常な速度で愛し合い、一緒に暮らし始めた。誰もが一様に驚き、そして長続きしないと言った。
普通に考えれば、子どもたち、それも多感な小学校高学年の二人の娘との生活に、いきなり十歳も違わない若い男が入り込んできたのだ。どう考えても、まっとうに成立するはずがない。
それでも俺たちは、色んなことをさまざまな局面で、それなりに乗り越えて来た。正直、二人の思春期には振り回されたこともある。親の愛情を束縛や干渉と勘違いされ、恨まれたり、行き違ったことも多々、見て来た。それに俺も関わったこともたくさんあった。
それでも概ね、俺たちはいつも「話し合い」でそれらを何とか乗り切ってきた。子どもたち二人はやがて独立しそれぞれに家庭を持ち、妻となり母親になって、上の子はいつの間にか俺と三津子が出会った年の母親と同じ年齢となっていた。
俺たち夫婦と子どもたちは本当の意味で、血縁や年齢差、家庭環境の違い、いわゆる「普通の家」とは全く違う暮らしの中で、お互いに大きく何かを壊すことも、大きく道を逸れることも、大きく行き違うこともなく、皆、成長しながら暮らしてきた。
いわゆる「血の幻想」を超え、たいせつな「家族」としてお互いを見ているし、俺は自分の子ではないが、二人のことも、間違いなく愛している。
安手のドラマや小説を見ても、そういう意味では俺たちの現実の方が遥かにドラマティックだったし、下手な脚本家の貧困な想像力の及ばない「現実」を暮らしていた。なので、そういう安手の作り事には共感も出来なければ感情移入が出来ないという「弊害」は生んだが、それでも「まっとうな大人」にそれぞれがたどり着いていることに、俺たちの四半世紀が間違いではなかったと確信している。
だってこれは作り事やきれい事なんかではないからだ。

俺たちは京都へ転居してから一年半、彼女が倒れるまでの間、二人であちこちの名所旧跡や神社仏閣を訪ね、貯金をして豪華な旅行へ行ったり、おいしいお店でよくしていただいたり、本当に楽しい暮らしを満喫していた。
それもこれも全て、彼女の頑張りのお陰だと、俺は近所の行きつけのお店のカウンタで、頭を下げた。
「俺が今こうして生きていること、楽しく京都で二人いられること。これは全部、あなたのおかげです。ありがとう。」
そう言って、彼女に向き合って頭を下げた。心からそう思ったし、そのことをどうしても伝えておきたかった。
彼女は涙ぐんで、「どういたしまして」と頭を下げた後、無理におどけて「解ればいいんだよ! 苦しゅうない」と言ってふんぞり返った。そして二人で笑った。
でも、彼女がとても喜んでいたこと、そして「私はね、今が一番幸せだよ」と言ってくれたことを、今本当に良かったと思っている。

若い頃、蜜月だった数年間はともかく、その後は手をつないだり腕を組んだり、いいトシをしてベタベタするのは恥ずかしいなんて思いながら、スタスタと彼女の歩調よりも早く先に歩いた。「愛してるよ」なんて言葉をかけたことは、たぶん最初の数年を除けば、ほとんど無かったと思う。心ではもちろん日々感謝し、彼女を愛していることを常に心に刻み続けてきた。
だが、もうそれを目の前で伝えて、人を愛し愛されるという「幸福感」を実感させてあげることは出来ない。
俺は彼女に病気のことで心配をかけ、頑張らせてしまい、常に気をかけてもらい、そして何より無償の愛で大きく包み込んで貰った。
そのことに対して、俺は百分の一、いや千分の一でも彼女に返してあげられたか。普段から手をつなぎ、「君が一番大切なんだ」「世界で一番、愛している」と伝えてあげられたことが何回あったか。
毎日、毎日彼女の写真にお茶とお水を供えて線香を立て、ごめんね、ありがとう。ずっと忘れない、君を愛している。
そう伝えている。いったい何度それを繰り返せば、彼女の愛に報いることが出来るのか、想像もつかない。それほど、俺はダメな男だった、愛情表現においては。

先日、俺が青林堂時代の最後の担当漫画家であり、今は多方面で活躍している古屋兎丸くんからハガキが届いた。
「やまださんが倒れてからの日記は涙なしには読めませんでした。日記を書くことによって、乗り越えていく白取さんの姿は、うまく言えませんが感動します。白取さんは「書く人」なんだと思います」と書いて下さった。
彼は四月に結婚したそうだが、俺たちのような「強い結びつきの夫婦になりたいと思います」とも書いてくれたのが有り難かった。
こちらの方こそ、そう言っていただいて、思わず目頭が熱くなった。
俺は、彼女が倒れてから、そして失い、それからもずっとずっと、そのことを「書くという行為」で相対化し、何とかギリギリのところで乗り越えてきた。そうしなければ何かが壊れていたはずで、だとすれば、俺は今こうして生きていられなかったと思う。
そんなことよりも、俺が彼女に出来る恩返しがあるとすれば、愛する人が生きて、傍に居てくれること。そのことの幸福を、忘れないで欲しいということを、一人でも多くの人に伝えることではないか。
明治の男じゃあるまいし、男子厨房に入ったって構わない。相手が体調が悪ければ心配し、家事を引き受ければいい。洗濯だって掃除だって、片方しかやっちゃいけないなんて決まりはない。自分が手伝うことでお互いが楽をし、結果二人の楽しい時間が増えるならば、協力して何でもやったらいい。

一番大事なのは、今、自分にとってもっとも大切な愛する人と、後悔のない時間を過ごすことだと思う。
悪いと思ったら「ごめんね」、有り難いと思ったら「ありがとう」、大切な人だと思うのなら「君を愛している」…。
いずれもそのことを伝えることは当然であって、何ら恥ずかしいことではないということだ。
それに、相手にそれを伝えられるのは、相手が生きていればこそだ。
でなければ、俺は残りの人生を一生、後悔と自責の念に苛まれ、辛い日々を過ごさねばならない。何より、失った相手がその幸福を味会わぬままに「ある」ことを、いったい誰に謝罪したらいいのか、どうしたら許して貰えるのか、永久にその答えを貰えぬまま生きなければならないのだ。
それは、拷問であり苦痛でしかない。
多くの人が連れ合いを亡くした後に悲嘆に暮れるのは、その後悔だろう。「ああしておけばよかった」「ああもすればよかった」「ああ言ってあげられればよかった」…。
今、俺は毎朝、三津子の遺影に手を合わせて謝罪し、感謝をし、そして愛していること、これからもずっと愛することを伝える毎日だ。もう遅いということは充分理解している。それでも、今までそれが出来なかったと思う分、俺はそれをし続けねばならない。
別に何か彼女に悪事を働いたり、ましてや暴力や不実を重ねたことはない。しかし、お互いに病を抱えた身で、今こそ、二人手と手を取り合って、支え合い、同じスピードで歩むべきだったのに、俺ときたら…。
いいトシをしてベタベタしたくない。とっとと歩かないと繁華街では迷惑だ。いちいち言わなくたって、解るよね。などなど。
もうお互い年齢を重ね、しかも病気の体同志だ。とっくの昔にリビドーの時期は過ぎた。しかしいったい何度、彼女を抱きしめてそれでも「愛しているよ」「感謝している」「これからもずっと一緒にいよう」と言ってあげられたか。その「幸福感」を、何度与えることが出来ただろうか。
その後悔と自責が、今の俺を苦しめているのだ。
俺に与えられた使命はたくさんあるが、その一つに、その苦しみを持つ人を一人でも減らすことがある。
今、もしあなたに心から愛している人がいたら、そのことを全身全霊で伝えるべきだということ。相手もそれを受け止めて実感できるように、それを行うこと。
そのことがいかに大切なことかを、自分という未完成な人間を通じて一人でも多くの人に解って貰えること、だと思う。

暗い中、三津子にそう話しかけていたら、寝られなくなった。
明日…といってももう明けてしまって、9月5日は三津子、やまだ紫の誕生日になるはずだった。しかし、月命日でもある。
お祝いをして、そして皆さんも彼女のために祈って下さい。
そして、愛する人が居るのなら、その人に心からの愛をちゃんと伝えてあげて下さい。
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
やまだ紫クロニクル

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