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2009-09-25(Fri)

マンガの保存

9月25日(金)

京都は穏やかな秋空が広がる、いい気候。
夜中、なぜか数時間おきに目が醒め、深い眠りが得られず朝は朦朧とした。何とか朝のことを済ませて、気を取り直してコンビニへおにぎりと週刊誌を買いに行って、すぐ戻る。
食べながら朝のニュースワイドショーを見て、週刊誌を読み、仕事。
仕事は割合早く片付いたので、ここ一週間くらい更新できなかったブログをアップする。

その後メーラーがメール着信を知らせたので見てみると、ブログに承認待ちのコメントが入っていた。
高取英さんからだった。
「来週会いませんか」ということだったので、すぐに携帯に電話をすると、東京に帰る新幹線の車内ということだったので、詳しいことは来週講義が終わったら電話で、ということになった。
生前の三津子いや、やまだ紫の大学の研究室であれこれおしゃべりをさせていただいて、「今後ぜひ飲みましょう」と言って、やまだとは結局あれが最後になった(「こころの手紙」ご参照ください)。
高取さんはもちろん、月蝕歌劇団を主宰されている劇作家であり編集者であり評論家でもあり今は精華大の先生でもあるマルチな方だけど、昔から「ガロ」とも縁の深い、業界の大先輩でもある。
けれども全く偉ぶらないお方だし、何より話が面白い。やまだが「いい編集者は、いい人間でもある」と言っていたように、魅力的な人である。
もともと何度かパーティや酒の席でおみかけはしていたが、直接ご挨拶をしたのは、青林堂での吉田光彦さんの単行本『夢化色』を担当させていただいた時のことだから、思えばあれから20年になる(…と改めて今愕然とした)。
高取さんに本の解説をお願いするので、確か最初に待ち合わせたのは新宿の?野フルーツパーラーではなかったかと記憶している。昼下がりで若い女性がパフェ的なものを食べたりもするところだけど、割合業界の打ち合わせ・待ち合わせにも使われていた。
その後自分が「ガロ」の情報欄の入力やDTPを担当していたこともあって、劇団の情報や著作をお送りいただいたりというお付き合いがあったが、俺が白血病を宣告されたとき、一番最初に電話をしてきて下さったのが、高取さんだった。
来週が楽しみだなあ。

さて、自分のWEBサイトを開設してもう12年、このブログを開設して4年になる。こうして愚にも付かない駄文をダラダラと書き続け、たれ流してきているが、それでも、「ガロ」時代から懇意にして下さる人たちがたくさんいらっしゃる。
本当にありがたく、感謝申し上げます。


先日Yahoo!ニュースの事件のこと(『押尾事件、「野口社長に怒り爆発」』 )を教えてくれたTさんが、今度は2chでの国立メディア芸術センター=いわゆる「アニメの殿堂」中止問題で立ったスレのログを見せてくれた。

この人は業界の人だな、ちゃんと解っている…と思われる書き込みは意外に少なく、単に政治と絡めてやれネトウヨがどうしたミンス工作員がどうしたという不毛な「口論」も多い。そしてそれらを面白がってからかう書き込みも多い。まあ、匿名掲示板とはそのようなものだ、だから俺は時おりこうして「教えてもらったら見る」というスタイルだけにしている。

しかし、知ってしまうと、さすがに書き込みはしないが「ちょっと待てよ」と思うこともある。
かって明治期に浮世絵が海外へ流出し、散逸してしまったことを引き合いに出し、漫画やアニメなども国家的にそろそろ保存事業に乗り出すべきだ…という至極まっとうな意見に対し
「浮世絵も漫画もコピー文化なんだから原画に価値などない」
という、レスがつけられていた。
うーん。
当然ながら浮世絵の版木は一つではない。
色ごとに版が違い、それらを刷り重ねていくことで一枚の「浮世絵」が完成する。絵師の描いた元絵を元に彫り師が版ごとに版木を彫って行き、それらは刷り師が「印刷」する。全てもちろん手作業で行われる。こんなことは常識だろう。
その完成形としての「印刷物」つまりコピーさえ保管しておけば、オリジナル=版木に価値はない? いやいやそれは違うだろうオイ、と。(ちなみに今でも出版社のことを業界では「版元」と言うが、もちろん語源はこの浮世絵の版元からだ)

漫画も、作家がどれだけの思いと労力を一枚の原画に注ぎ込み、完成させているのか、一般の人で見たことのある人はそうはいないとは思う。
原稿には印刷つまりコピーされた本では解らない、作家の筆致やベタの塗りムラやホワイト修正があって、その「制作過程」が解る。あるいは作家によっては版面(はんづら)の外や、原稿の裏面にまで、その作家の何かしらの思いや書き込みが加えられている場合もある。

漫画家ではなくても、例えば小説家でも、そのオリジナルの「原稿用紙」に後世、計り知れない価値が生じることは、もうすでに言うまでもないことだ。
昔は編集者が作家の原稿に文字のポイント数(大きさ)を指定したり、あるいは作家が原稿用紙に自ら赤を入れ推敲を重ねたりしたが、単に複製された本では解らないそういう「過程」が、原稿や原画にはある。
完成形さえあれば良いというのは歴史、史料的な価値というものを考慮しない単純な読者としての目線からの意見であろう。だがそれでは金輪際、作家研究などは出来ないことになってしまう。

こうした単なる一読者としての私見、「感想」という「意見」も匿名掲示板では「レス」として全て等価に表示されるし、匿名掲示板はその「等価」であることがまた、存在意義でもある。だから世間でキチンと名前を出して意見を述べる場合のソース=論拠なり証拠に「2ちゃんねるのレス」と言うと失笑を買うのはそういうことだ。

ところで、では後世に「何を残し何は残さなくて良い」という「選別」はどうするのか、という疑問もあろう。後世どの作家が、どんな作品が「研究対象」になるのか…、当然の疑問だ。
そしてその判定、作家と同時代の「選別」や「評価」ほどアテにならぬものはないことは、歴史がイヤというほど証明している。ゴッホが生前全く評価されなかった…などの有名すぎる例を出さずとも、そんな事例は枚挙に暇がないだろう。
だからこそ、公的なアーカイブが必要になると思う。
まずはあまねく出来る限り収集して保存する。民間の営利事業や個人ではそれが難しい、いやまず間違いなく出来ないから、公的機関の必要性をそろそろ言ってもいいと思うのだ。

これまでの、「税金ムダ使いつまり&予算なるべく多く取りたい&使い切りたい官僚」と土建屋の癒着による公共事業、いわゆる巨大ハコモノとしての「アニメの殿堂」など確かに不要だろう。そもそもあの「予算」には収蔵するものの取得費用さえ計上されていないという体たらく、大雑把ぶりだし。

ただそれとこれとは別で、例えば現実に俺の連れ合いであるやまだ紫の原画や原稿は、遺族である俺が保存するしかない。
大学への寄贈も考えたが、どのようなかたちで保管されるのか不明だし、恒久的かどうかも解らない(私大というのは企業でもある)。
それとまずは編集者でもある俺の手で、全てをチェックして分類・整理する必要もあったこともある。幸い、俺の死後は彼女の娘であるゆうちゃんが「私が守るよ」と言ってくれたので、俺が死ぬまではここに保管しておくことにしている。

ではもし、守るべき遺族が「途絶えてしまったら」どうするのか。
二束三文で売られるのか、あるいはゴミとして処分されるだろう。奇跡的に、モノの価値が解る人が整理にあたり、その価値に気付いてくれぬ限りは、恐らく消滅すると思う。

ネットのログを読むと、色々な意見の中には「しょせん消えたり散逸するのなら、その程度のものだ」というものもある。
しかし、例えば貸本時代の水木しげる先生の原画はプレゼントにコマごとにバラバラにして文字通り「散逸」「消滅」してしまったものもある。水木しげる作品を「その程度のもの」呼ばわりは、いくら何でも許されないし、水木しげる原理主義者でもある俺も許せない。

さらに「今現実に昔の作品は単行本から復刻されているから、原画などいらない」という意見もある。
これも出版には素人の意見だと思うが、確かに貸本時代のように写真製版の精度が低く、カラーの色分解もジンク板という鉛板を使って職人が作っていた時代のものなら、印刷物=状態の良い貸本が残っていれば、今の技術・精度であればかなり忠実に再現できるだろう。実際にそういう復刻もされている。
けれども、それでも、原画には敵わないのだ。

貸本漫画まで遡らずとも、近年でも普通の人が「カラー」と読んでいる印刷物のほとんどが、作家が着色したデータを写真製版で、つまりたった4色(C,M,Y,K)で分解された網点の集まりなのだ(もちろん美術印刷などはもっと多色刷りをする場合もあるがとてつもなく高価になる)。
そこから「復刻」することももちろん技術的には可能だが、当たり前ながら原画と比較すること自体がナンセンスだ。簡単に言えば、比較にならぬほど汚くなる。こんなことは出版に素人でも、ちょっと想像すれば解ることだろう。

では印刷物からではなく、最初から原画を高解像度でスキャンし、データを保存しておけば、もう原画は無価値だろうか。

恐らく出版界の誰に聞いても、一人も「Yes」とは答えまい。
漫画家ではなくても、画家でも、版画家だったらどうだろう?
「コピー文化なんだから原画なんか不要・無価値」と言ったら殴られると思う。
戦後だけでも、もう漫画の歴史は半世紀を軽く超え、今も進化し続けている。その初期の手塚治虫やトキワ荘世代の先生方で、それこそ「ビッグネーム」ならば民間か、あるいは生誕地の自治体などで、個別に博物館なり美術館が出来て収蔵保存されているものも多い(参考=「マス・コミックの力に驚嘆」)。
しかし貸本漫画や劇画、あるいは「COM」や「ガロ」といった「非メジャー」系のものはどうする?「淘汰されてOK」「残す価値なし」と、誰が、今、言えるのだろうか?

だから、敢えて「浮世絵」という解りやすい喩えを出し、その愚を繰り返さないように、今この瞬間から収蔵を始めろと言っているのだろう。
もうすでにどんどん貴重な漫画の原画、アニメならそのコンテやシナリオも散逸したり、汚濁したり、紛失・消滅し続けている。個別に民間の力でそれらを保存していくのは無理だろう。
あの、漫画に関しては同人誌も含めて圧倒的なコレクションを誇った米沢嘉博さんでさえ、十数年前にご自宅に伺った際に「もう全てを個人が集めるなんて無理ですよ」と直接話してくれたことがある。
とにかく毎日、毎週、毎月送られてくる漫画の雑誌や単行本、それに主宰していたコミケに参加する同人誌まで含め、その数は膨大に増え続けた。それらを出来る限り収蔵しようと、米澤さんがその保存場所を確保し続けたことは余りにも有名な話である。
近年、米澤さんの死後に母校である明治大学がそれら漫画史料の保存事業として「米沢嘉博記念図書館」開館に向けて分類作業を続けていることは有名だが、それでも、コレクションの「全て」を収蔵するわけではないし、ましてやコレクション全てであったとしても、これまで出版された漫画雑誌や単行本全てではなく、さらに、原稿などはほとんど含まれていない。
また俺たち業界人なら一度はお世話になっている、現代マンガ図書館いわゆる「内記図書館」でも、全てを網羅しているわけではもちろんない。
国立国会図書館には、マンガ雑誌や書籍も寄贈され保管はされているが、これまた全てではない。
俺自身版元にいた頃担当をしていたことがあるので解るのだが、版元側が自分たちのところから出すものを「自主的に」取次を通して「納品」するかたちを取っているから、当然、極端な話エロ劇画などは保存・収蔵されていない。税金使ってエロマンガなど集めることがあるか、という意見があろうが、エロだろうが少女漫画だろうがマンガはマンガである。
ちなみに浮世絵にだって枕絵はある、つまりエロは古今東西表現の中の、一つの重要なモチーフなのは常識だ。それらに価値があるのかないのかは、そんなもの同時代の人間が簡単に判断するものではない。その取捨選択が出来ないから、国家的になるべく全てを差別せずに網羅する必要があるのではないか。

「マンガやアニメなんか税金で保護しなくても良い」と今言っている人たちは、つまり、自分の審美眼にかなう表現にしか価値はない、と言っているだけの話だ。
繰り返すが、巨大ハコモノとしての天下り先・利権がらみの「アニメの殿堂」は不要だが、文化としての漫画やアニメを国家的に保存・維持管理していく施設は必要だと俺も思う。

京都にある国際マンガミュージアムにも漫画は収蔵されているが、あれも国家的なプロジェクトではないし、そもそも物量的に保存量が少なすぎる。公開もメジャー系に偏り過ぎている。悪いが、現状ではあれこそ「巨大マンガ喫茶」ではないか。申し訳ないけれど、これは自分が現実に何度か足を運んで見た感想だ。
けれど、例えばすでにあるそういった施設を拡充していくという方策はある。そして何らかのテーマや作家別などで展示を行うなどして、収益を上げるという考え方も出来よう。

原画は、例えばそれを公的な機関が恒久的にキチンと保管してくれるというのなら、俺のような作家の遺族は、喜んで無償で「寄贈」する。
個人で保管していくよりも破損・紛失・汚損の危険性がなくなるわけだし、何より後世に残っていくという安心感があるからだ。
原画を収蔵したいのなら金を寄越せというのなら、それこそ「コピー」つまり単行本なりを保管し、とりあえずは漫画史を埋めていけばいい。パソコンのHDDにおけるデフラグのごとく、まずは全てのジャンルのスキマ、穴を埋めていこう。そして原画を保管できるなら、出来るだけそれを行おう、ということ。
著作権はそもそも死後も(一定期間)著者のものであるし、財産権は遺族が持っていてもいい。それも含めての「寄贈」であっても、個別に変えてもいい。
とにかく作家の貴重な原画や原稿、そして著作物を専門に維持管理する重要性は高い。漫画はMANGA、アニメはANIMEとしてもう世界標準語になっている。付帯するゲームなども含めて「日本が世界に誇る文化」「コンテンツ産業は重要」などと声高に言うのなら、キチンと今のうちに大系づけて保護・管理をし、そして制作の現場の育成プログラムや援助システムも作るべきだろう。

俺は以前、漫画も含めた「表現」に国家や官が口を出すな、ほっておいて欲しいと書いたことがある。だがもう時代は変わった。おかしな選別や検閲などをされる前に、むしろ全てを網羅すること、包括的に「保護」していくことが必要な時代に変わったのだと思う。

先日、京都精華大マンガ学部の、ストーリー分野だけとはいえ、「講師・院生展を見にいった」と書いた。参加していた院生は全て(見た限りでは)韓国や台湾からの留学生だった。
彼らは日本のマンガをもはやスタンダードな表現手段として認めて積極的に学びに来ている。レベルも恐ろしく高い。

こう書くとすぐ「彼らは日本から本国へ帰り、そして日本からパクったものをオリジナルと主張するのだ」と怒る人もいるだろうが(笑)、日本のマンガはもう「世界から真似されるだけのものに高まっている」ということは解りきった事実。
ずいぶん前、「色んなアメコミの絵を見せられても、すぐに作者の名前を思いつかない」と友人の誰かが言っていたのを思い出す。全てがそうとは言わないが、日本のマンガはとうの昔に独自の進化を遂げており、今現在昔のアメリカン・コミックからスタートしその直接の影響下のみにいる人の方が少ないだろう。
日本のマンガはもう「MANGA」であって、そのスタイル、様式に沿って描くことがすなわち「MANGAを描く」ということになってしまった。だから、世界中から学びに来る。
もう真剣に国家的な保護、そして出来れば育成プログラムをちゃんと真面目に考えてもいい、いやもう遅いとさえ思うようになっている。
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
やまだ紫クロニクル

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