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2009-09-27(Sun)

ゆうちゃんの写真サイト

9月27日(日)

いつものように8時前に起きた。京都は今朝も、穏やかな天気。朝のもろもろを済ませたあと、ユキが窓際の日溜まりでコテンと寝てしまったので、今のうちとシャワー。
しかし途中で俺の姿が見えないことに気付いたらしく、もの凄い大音声で鳴きながら捜し回っている声が聞こえてきた。そのうち声が小さくなったので、またベランダ側の机の上で「くるくる行動」をしているのだろう。
数分後浴室から出て仕事部屋を覗くと、案の定自分の尻尾をくわえて「うわぁ!わにゃぁあ!」と鳴きながらくるくる廻っていた。
こちらと目が合うと、ハッとしたように「にゃーん!」といつもの声に戻って飛び降りてくる。
俺はちゃんと居るよ。
…いい加減学習してもらいたいと思うのだが、耳が聞こえないので声で居ることを知らせることも出来ない、常に視界に入っていないとならない…ってお前は俺の看守か、と苦笑する。と同時に、もし俺がほんとうに居なくなってしまったらどうしようか、とも思う。

朝はそばを茹でてざるそばにする。刻みノリはストックしてあるし、ダシつゆとわさび、あとネギは刻んだばかりのものがチルドしてある。それから少し仕事をして、今日も読書と音楽。

3時過ぎに、関東に住むゆうちゃんから携帯にメールが来て、「WEBサイトを再開した、ママの詩も使ったから見て」とのこと。三津子の長女であるももちゃん、次女のゆうちゃんは二人が中学生くらいの頃に何度か「ガロ」の4コマ投稿欄に描かせたりしたことがあったが、その後は二人とも母と同じ漫画や表現の方向へは進まなかった。
「この世界は議員やタレントみたいに二世がそれだけで食えるほど甘いもんじゃない」と、母であるやまだ紫は言っていた。我が妻ではあるが「凛としたひとだ」と思ったのを、覚えている。

そうして大人になってからは二人とも仕事を持ち、そして結婚後はそれぞれ子育てでアレコレと忙しくしている。
ゆうちゃんの方は以前から趣味としての写真が好きで、時おりくれる写真を見て三津子は「なかなかセンスがある」と言っていた。断っておくが、「やまだ紫」は身内だから、娘だからといって手放しに褒めるというバカ親では、ない。
それに「才能」は遺伝などしない。ただ伝えることが出来るのは、一緒に暮らし教えることで、その子の感性を鍛える環境を作ることだ。
俺が見ても、ゆうちゃんの写真は「オッ、いいねえ」というものが何点もあったので、公開したらどうか、という話をよくしていた。そのうち「俺が作ってやるよ」なんて言ってたら、自分で(独学で!)htmlを学んで、サイトを作ってしまった。イケてるサイトをほとんど自分一人で作ってしまったのだから、このあたりの「感性」は親譲りと思うしかないのだろうか。
写真といっても、使っていたカメラも「機材」と言うほどのものではなく、どこにでもある何ということもないコンパクトカメラだった。
俺は「ガロ」に入る前に実は写真の通信教育も受けており、マニュアル式カメラから入って、その後自費で(青林堂が機材など買ってくれるわけもない)一眼レフ、レンズや三脚やフラッシュやレリーズやらフィルタなどとにかく一式を中古などでコツコツ揃えていき、「ガロ」の作家取材やブツ撮りも全部自分でやった。
もちろん、元々カメラも写真も好きだったので(撮られるのはイヤだが)それなりに風景や猫や何やと撮ったりはしたが、同じところへ行って同じ場所で写真を撮っても、こちらのゴツい一眼レフで撮った凡庸な写真よりも、やまだ紫がコンパクトカメラで一枚だけ撮った写真の方が、遥かに「いい絵」になっていた。
そんなことが何度もあり、また同じことはゆうちゃんの写真からも気付かされたものだ。
つくづく、「写真は機材ではない」ということを教えてくれたのが、やまだ紫とこの娘であった。

それから2005年に俺は病気をし、もうゴツい銀塩一眼レフや交換レンズを持って飛び回ることはないと思い、持っていた機材を全てゆうちゃんにあげることにした。
彼女はその後も子どもたちの写真や風景を切り取り、ブログにアップしたりするようになった。俺たち夫婦は時々その写真を見ては「なかなかいいね」と話し合っていたものだ。
そのうち、ゆうちゃんは二人の娘が上は小学校、下は年長組になったあたりから、忙しくてブログが更新できないといって閉鎖してしまった。
母親である三津子、やまだ紫はしばらくそのことを知らずにいて、いつだったか「あれ、ゆうのサイト開かないよ」と言うので聞いてみたら、学校のことや家事や仕事で忙しいし、放置しておくのも見てくれる人に失礼だから閉鎖したということだった。そのことを一番残念がっていたのが、他ならぬ母親の三津子だった。
「あの子いい感性してるのに、残念だね」と言っていた。俺もそう思っていた。

今年5月、ゆうちゃんの母、三津子・やまだ紫が亡くなった。
その後、俺はご覧の通り自分の悲しみの大きさに耐えきれず、それを乗り越えようと必死でもがくあまり、二人の娘たちにはむしろ励まされることしかなく、情けない限りだった。
けれどここ最近、ゆうちゃんが持っていない母の本を欲しいというので送ってあげたり、また家庭内のことでやりとりをしたりする中、「やりたいことがあるんだったら、やった方がいいよ」とだけ伝えたことがある。
きっと彼女は彼女なりに色々と考えた結果、サイトを再開したのだろう。これまでもそうだったように、「やまだ紫の娘であるということ」をあまり出さずに、控えめに好きな写真を掲載していくのだと思う。

自分の愛する母が斃れ、意識が二度と戻らぬという残酷な時間、何も知らず公園ではしゃぐ娘らと京都に居たとき、彼女は公園の足元にカメラを向けた。

4月29日に撮られたその写真には
「母がいる京都。苦しいくらい眩しい。」
というキャプションと、木漏れ日で輝く眩しい緑が映っていた。

あの、ほんとうに辛く苦しい、そして何よりも人生で最も悲しい日々を思いだし、俺も胸が苦しくなった。
ひねもす雑記帳
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
やまだ紫クロニクル

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