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2009-09-28(Mon)

永観堂にて「秋季焼骨灰供養法要」

9月28日(月)

朝は7時に起きた。外は曇っていて、小雨が降っているようにも見える。
今日は永観堂(禅林寺)で行われた「秋季焼骨灰供養法要」に行かねばならない日。行かねばならないというか、行こうと思っていた。
関西は、というか京都しか知らないが、火葬のあとお骨は全ての骨を拾うわけではないという。足の先から頭までの中から、重要な骨の一部分を皆で集めて行き、最後にのど仏を仏様に見立てて飾るように載せて骨壺を閉じる。よって骨壺も関東のものに比べるとかなり小さい。
当然のことながら、焼け残ったご遺骨の灰が大量に残る。あの辛かった連れ合いの火葬の時、最後に指先につけた彼女の骨の粉を飲み下しながら振り返った光景が頭から離れない。葬儀屋さんは
「残ったご遺骨はですね、ねんごろにお弔いを致しますから。キチッとやらせていただきますから、大丈夫ですよ」と念を押すように言ってくれたが、それでは一体あれらの残った骨を具体的にはどうするのかは知らなかった。
その後調べてみたら、京都では年に二度、春と秋のお彼岸に、それまでの半年間の間に京都(と宇治市)で亡くなった人の拾い残された焼骨灰を合同供養するのだと知った。
8月か9月になって、密葬をお願いしたところからハガキが一枚届いた。そのハガキを持参して永観堂へ赴くと、本堂での供養に参加できるということだった。

朝、洗顔などを済ませたあと、三津子とご先祖様に水と茶を取り替えて、線香を立てていつものように手を合わせる。それから、ずっと招き猫にかけてあった数珠を持つ。朝ご飯は食べてしまうと外でトイレへ行くことになるのが嫌なので、何も食べずに薬だけを飲んだ。
10時半から宗務総長というお坊さんの法話があるそうなので、10時過ぎに支度をする。喪服は腹がしんどいので、黒いジーンズに革靴、上はいつか三津子が俺にプレゼントしてくれた、ちょっとオシャレな黒の半袖シャツを着て、家を出た。
雨が降りそうだったので折り畳みの小さなミニ傘と、デジカメも持った。タクシーはすぐにつかまり、十数分で永観堂の前に着く。
三々五々、喪服を着た人もいれば平服の人もおり、また供養とは関係のない観光客らしい人も少数いた。
境内に入っていくと、喪服を着た係の人がそこここで案内をしており、ハガキを見せると遺族たち専用の受付へ廻る。インフルエンザ対策でマスクをしようと思ったら、ちゃんと無料でマスクも置いてあったので、「一枚いいですか」と門徒の方らしい受付の人に聞いたら「どうぞどうぞ」と笑顔で言われた。上品そうな老婦人だった。
受付でハガキと引き替えに、手提げ袋を貰った。式次第と、おそらくハンドタオルかハンカチ的なものが入っているらしい小箱が入っていて、「お念珠もどうぞ」と言われて小さな紙袋も一ついただく。
それから、卒塔婆を出して供養していただくため、三津子の戒名と俗名、俺の住所氏名を用紙に記入し、三千円を支払う。これは必須ではないらしく、何もせずにそのまま奥へ進んで行く人も多かった。

それらを終えて本堂へ向かうと、ぽつ、と一滴雨が軽くあたったような気がして空を見上げると、明るいが一面の曇り空。
本堂の手前に置かれた焼香台で、霊前でするように焼香をし、合掌する。それから靴をビニール袋へ入れて持ち、上がって本堂へ進むように促され、皆ぞろぞろと歩く流れに従っていくと、本堂内はもうすでにたくさんの人が座っていて、周辺にも人が座り始めており、全く本堂内が見えない位置まで来てしまう。
しばらくそこで我慢していたが、10時半になると本堂から降りる階段前にあった焼香台が移動された。なので本堂の正面にスペースが出来たので、いいタイミングでご本尊の正面にある扉の前へ立てた。
俺の前に立っていた人が疲れたのか座ったので、視界が開けた。
改めて本堂の中を見回すと、正面のご本尊をまつる祭壇を三方囲むようにして、遺族の人たちがぐるりと座っている。その前列にはお坊さん用と思われる椅子があり、ご本尊の真正面にはひときわ立派な椅子が置かれていた。
まずは宗務総長というお坊さんが遺族側、つまりこちらを向いて法話をされる。実際は卒塔婆の用意が整い法要を開始するまでのつなぎであろう。ちょうど11時、法話が終了して、西を向いているご本尊の両脇から僧侶が入場してくる。
左側つまり北側にはこのお寺の僧侶たち、右側・南側からは京都市と葬祭業協会の代表、それから別の宗派のお坊さんたちが入って来て、それぞれご本尊に向かって並んで椅子に座った。最後に管長猊下が入って来て、ご本尊の正面に置かれた椅子に着席した。
永観堂本堂京都仏教会の会長である東伏見慈洽猊下の弔辞から読経が始まり、それを立っている列では一番前から見ることが出来た。三津子が「ここ、ここ」といい位置へ連れてきてくれたみたいだな、と思いつつ合掌。
ずっと立っていると足の裏に痛みが出て、膝も痛くなってきたが、これは彼女のための法要なのだし、つまりは生きている自分のための法要でもあるのだ。
じっと立って時おり「南無阿弥陀仏」と合掌しながら居ると、汗が出て来た。しかし境内をすう〜っと涼しい風が通り、それが心地良い。
「儀式」はとても厳かで有り難い雰囲気であった。「ねんごろに弔う」という言葉が脳裏に浮かんだ。

最後に椅子に座っていた猊下がこちらを向かれ、柔らかい京都弁で法話を短くされた。けっこうなお年に見えた。
こんなにたくさんのご遺族の方がお集まりになられて、御霊、魂、霊。必ず皆さん今こちらにおられますよ。さぞかしお喜びのことと思います。残念ながら亡くなってしまった方はもう、この世には戻られません。けれども皆さんがたがこのように供養をずっと続けられるということは、とてもいいことです。そしてそのことは、皆さんのこれからの幸せにもつながることなのです…。
そのようなことを、笠智衆のような柔和な語り口で聞かされると、思わず涙が出た。

法要が終わり、階段を降りようとするが、膝が固まっていた。そのまま階段を降りると転ぶな、と思ったらちょうど良く、すぐ前にお婆さんとその孫娘らしい二人連れがおり、「ちょっと、転ぶからそこつかまって」と言って欄干につかまりながらゆっくり降りる。そのペースで俺もつかまって、一段ずつゆっくり降りる。
靴を履き直して袋を返し、境内をぞろぞろと引き返す列に加わる。永観堂は観光客も訪れる、小さいがいい庭を持ったお寺なので、池の写真も少し撮った。山門を出たあたりで雨がサーッと降ってきたので、折り畳み傘を広げる。傘を持ってきている人は多く、あちこちで傘が開く。
白川通りまで出て、タクシーが通りかかったので手をあげる。あまり歩くと膝がいかん。
「出町の升形商店街まで」と言って乗り込むと運転手さんが「観光ですか」というので「いえ、今そこで法要があって」と言うと「ああ、永観堂ね」とすぐに了解したようだった。「出町の升形」というと豆大福で有名な「出町ふたば」があるので、観光客かと思われたようだ。確かに、あの近所に住んでいるのでもないのに、わざわざタクシーであそこの商店街へ乗り付けて買い物をする人はいない。
道々、自然と先ほどの法要の話になる。

そこで車中で思い出したのだが、そういえば、先日夕方のニュースだったか昼のワイドショーだったか記憶にないが、大阪の天王寺近くの逢坂にある一心寺の「骨仏」の話を見たのだった。運転手さんに聞いてみると関西の人なので「話にはチラッと聞いたことはありますねえ、詳しくは知りませんけど」とのことだった。

その一心寺というお寺では、明治より十年ごとに一体、納骨された骨をお坊さんたちがすりつぶして粉にし、それで阿弥陀仏様を作って、本堂に安置するのだという。1887年から10年ごとに一体ずつ作られ、途中初代から7体目までは一度戦争で焼けてしまったそうだが、何と、戦後その灰を集めて、またそれで骨仏を作り、今に至るまでまた作り続けているというのだ。
俺が見た映像では、その現存する最初の阿弥陀仏は多少黒ずむというか灰色にはなっていたが、しっかりとした風情であった。10年ごとに15万体〜20万体の遺骨が使われて、一体の阿弥陀仏さまとなるそうで、現在もう13体目だそうだ。(つまり消失した灰で作られたのが7体目で、現存するのが7体)
なぜこんなことを詳細に覚えているかというと、「こういうことがあったのか」と思い近くにあった封筒に筆ペンでメモをしながら見ていたからである。
このお寺では宗派を問わず、全国どこからでも遺骨の持ち込みを受け入れており、遺骨は次の阿弥陀さまが作られる際まで供養をしつつキチッと保管されていくという。
しかも、法外な料金を取るわけではなく、1体につき1万円から高くても3万円程度まで、とその放送では言っていた。
例えば無縁さんだけではなく、今現在自分が死んだらもう墓を守る人がいなくなってしまう、というような人も、全国から今のうちにと骨壺を持参されることもあるそうだ。
また墓を維持することをとりやめ、中のお骨は地元のお寺で供養して散骨などしてから、重要な骨=例えば喉仏などだけを持ち込む人も多いという。
いずれにしても、亡くなった方の骨が阿弥陀仏となって、そこに一年三百六十五日、必ず誰かが線香を焚き手を合わせに来る。お盆の時だけ思い出したように手を合わせに行く人も多いが、ここに骨をお預けすれば、間違いなく末代まで全国の人たちがお参りに来るわけだし、何より、文字通り本当に「仏」となるということが素晴らしいと思った。
俺が死んだら大阪の一心寺に納骨をして貰おう。本当はそこらに蒔いてもらってもいいのだが、そういうわけにもいくまい。そう思ってメモしておいた。
「人間死んだらモノだから」こういう人はたくさん居るし、現実に焼かれた骨を見ると確かにもうそう思うしかない。けれど、ではモノだからぞんざいに扱えるか、何度も握り合った手や一緒に歩いた足や、顔や、頭の骨を、モノだからといってそこらへ捨てられるものか。それは単に感性が鈍磨しているだけの話だろう。
なので、生きている人が「死んだら骨なんかそこらに捨てていい」というのは、残された人の気持ちを考えない、不遜な言い方だと思う。
愛する人を残して逝ってしまった人がもっとも気がかりなのは、何より残された人のことだろう。その人を安心させることは、すなわち自分の安らぎにもなる。

タクシーは出町升形商店街に着いた。スーパーで切れていたねりからしとショウガにアジフライ。それから隣の、前に買っておいしかった総菜屋でおかずと松茸ご飯を買う。「おかずセット」という総菜の詰め合わせをレジのお姉さんに渡しながら松茸ご飯を取ろうとすると、「あったかいの、おひつからよそりますよー」と元気に言ってくれる。1パック480円くらいで、たっぷり1人前半、という感じ。
ほかほかの松茸ご飯のパックを受け取るときに思わず「おおきに、ありがとう」と言ってしまった。「おおきに」が自然に出たのはこれが初めてだ。
それからタクシーで自宅前へ直行。12時半ころだった。
着替えて三津子に線香をあげて数珠をまた返し、買って来たものをしまって、おかずセットを暖め、松茸ご飯を食べる。今日初めての食事なのでうまい。三津子にも小さな椀に小分けした。
松茸ご飯
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
やまだ紫クロニクル

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