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2009-12-04(Fri)

「4コマGARO1988-1994」

12月4日(金)

何だか腹の調子が悪くて、早朝に目が醒めてトイレに降りた。そのまま起床。6時半ころだった。
外はどんよりと雲が垂れ込めていて陰鬱な気分になるが、一緒に寝ていたユキが降りてきてにゃあにゃあとまとわりつく。撫でてやるとすぐに嬉しそうに喉をゴロゴロと鳴らし、やがてすぐにシマも降りてきた。猫たちが居てくれて本当に安らぐ。連れ合いを失ってもし独りだったら…と考えるだけでもゾッとする。
朝は昨日買っておいた総菜パン。コロッケとタルタルソースが挟まっているやつに、熱いコーヒーを淹れて食べた。
朝のワイドショーを何ということもなくぼーっと眺め、Twitterに書き込み…いや、つぶやきを入れる。毎朝、とりあえず「俺が無事であるかどうか」を確認してくれる人たちのために。
その後、下へ新聞と郵便物を取りに行って戻る。取引先から仕事の修正の指示が封書で届き、開けるとwebプリントに修正やら新規作業が細かく書き込まれてある。ここだけの話だがゲッソリ、という感じだ。それでも家に居ながら作業が出来る幸運に感謝せねばならない。
昼のカップそばを挟んでずっと仕事に没頭、気が付いたら夕方だった。いかん、こういう体質だから帯状疱疹になったりするのだ。

5時半になったのでスパッと晩酌タイムにすべく、野菜サラダを作り、冷凍しておいた肉を焼き、アスパラベーコン巻きも添える。三津子には「花の舞」とたっぷりの氷入りウーロン茶。彼女が生きていた時そのままだ。俺はもちろん冷凍庫に入れてあったグラスでビールを飲む。
本当に、二人でいつもそうしていたように晩酌が出来たら…。
そう思っていると、郵便局が配達だとドアフォンを鳴らしたので、玄関に出て受け取る。エクスパックで、京都精華大に届いたものを教務のマンガ学部担当・Mさんが転送してくれたものだ。
Mさんからは昨日「青林堂から白取さんがお探しの原稿が届きましたので、転送します」というメールが来ていた。俺が「探していたもの」って何だろう、と思いつつエクスパックを開けると、何と何と、かつて「ガロ」で読者コーナーとして十年以上担当していた「4コマGARO」の94年までのコピー誌だった。
(4コマGAROについては拙ブログのこちらを参照ください… 「4コマガロ・「長井イズム」のこと」 
当時読者で投稿の常連だったI君が、初回から55回まで(雑誌の校了に重なったため、毎月つくることが出来なかった)の誌面をコピーしたものと、さらに途中から俺が愛読者向けに「4コマer通信」というのを出していたものもコピーしたものを製本した立派なものだ。ちゃんと装幀され、段ボールの箱入りで、「限定5部」完全手作りというものだった。
これは当時I君から「作っている」と連絡を受け、最後のところに一文いただきたいというので、テキストを送った覚えがある。覚えがある、というか当時編集部で使っていた国民機PC-98の国産名DTPソフト、JGで版下を作って出力したものを送ったのだった。
「限定5部のうち1」というロットをご送付いただいたのだけど、いつの間にか、というより97年の「ガロ」クーデター以降のドタバタでどこかに行ってしまったようで、その後どこを探しても見つからなかった。まさか、青林堂(法人としての青林堂も二転三転した)に保管されていたとは…。
エクスパックを開けるとただこのコピー誌が入っており、誰が送ってくれたのか、どういう経緯かも全く解らない。
4コマGARO1988-1994
しかしこの「4コマGARO1988-1994」を取り出して開いて見ると、いやあ、本当に自分も若かったし、読者の皆さんの投稿を楽しみ、一体となって紙面を作っていたのがよく解る。本当に毎回楽しみで、やっていても楽しかった。

当時、俺は紙面ではもちろん立場をわきまえて明かさなかったが、すでに板橋区の高層団地でやまだ紫先生=三津子と一緒に暮らしていた。
「ガロ」編集部に入って4年目か、若さと体力で、ほぼ肉体労働が主な「何もかも社員がやらねばならない零細出版社」の社員として地べたをはいつくばるように暮らしていた。
ヘトヘトになって満員の地下鉄に揺られ、団地に帰りつくと、エプロンをした三津子が、あの眼鏡に優しい目の笑顔で迎えてくれ、いつも作ってくれていた晩ご飯のイイ匂いが漂っていた。風呂に入り、着替えて彼女の作ってくれた美味しい夕飯をほおばるのが何より幸せだった。
彼女の手作りの料理は何でも本当に美味しくて、晩ご飯が終わると、残りをつまみにしてお新香なんかも添え、子どもたちには悪いが大人だけのゆっくりした「晩酌タイム」になった。
たくさん、色々な話をした。
俺たちは年は17も離れていたのに、魂同志が引き寄せ合ったかのように、障壁を乗り越えて一緒になり、そうしてそれからずっと一緒に暮らした。
団地での二人の晩酌タイムでは、下らないテレビを見て笑ったり、借りてきた映画を見たり、会社での出来事を話したり、俺の知らない「ガロ」や「COM」の話を聞いたり、酔っぱらって人生論やマンガ論を交わしたり、ほんとうに楽しかった。
そして幸せだった。
彼女と一緒に暮らせたことを、心から、魂の底から感謝している。今思えば俺の人生ではあの頃が一番幸せだったかも知れない。何故かというと、二人とも「健康」だったからだ。
京都に越してきて、ちょっと暮らしも楽になって、二人であちこち出かけたり、おいしいものを食べたりすることが出来るようにはなった。けれど、彼女は誤診による膵炎から糖尿を発病し、その後幾度か死線をさまようこともあったくらい、病気に悩まされた。俺もずっとそこに付き添ったものの、4年前からは白血病を患うこととなった。そんな中の、病身の二人が寄り添うような「幸福」は、やっぱり長くは続かなかった。
でも、団地の頃は、お金には汲々としていたことも多かったけれど、何より俺たちは若く、彼女も健康で元気だった。
今はそれぞれが二人の子の母となった、三津子の二人の子どもたちはまだ中学生で、そろそろ思春期の不安定な時期を迎え家の中がざわつき始めてくる直前の、本当に幸福な家族の時間が過ぎていった時期でもあった。

90年代に入ると、長井さんが高齢のため健康問題もあり、「ガロ」=青林堂の後継者を捜すこととなり、中堅社員になっていた俺も色々と忙しくなり、残業に次ぐ残業で、家庭的には彼女にも寂しい思いをさせたと思う
つまり「4コマGARO」の開始から数年は、平和で、健康で、幸福な私生活の思い出と重なる時期なのだ。
ページを開くと、当時の気持ちや記憶が蘇る。その日その日、どうやって過ごしてきたか、何を食べ誰と会いどんな日を過ごしたのかは思い出せないが、この版下を作っていた時、楽しかったことだけは思い出せる。
しばし、時間を忘れて、いや時間を遡って読みふけった。

改めてこれを作ってくれたI君に感謝、そして全ての投稿者の皆さんにも感謝、そして送ってくれた今の青林堂のどなたかにも感謝したい。
生かされていると、こうした思いがけないプレゼントもあるのだなあ。
陰膳
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コメント

ぴえろ様

いつもご覧いただき、ありがとうございます。
自分は物書きでも作家でもないので、こうしてブログを公開することは恥でもあるのですが、病気になってからは特に、ここで近況を確かめる友人知人も多く、生き恥をさらす思いで続けています。
大切な人を亡くされた思い、よく解ります。
解ります、なんて簡単に他人に言われたところで、本人は「解ってたまるか」という思いなのも、重々承知しています。
自分は常に、今でも、亡くした最愛のひとのことを思い、考えずにいられません。彼女のことを忘れろと言われれば、忘れられるわけがないし、忘れろという人を心底憎むでしょう。
全身全霊で愛し愛された人を失うことが、これほどまでに辛く、いや、辛いなどという語彙では表現できぬほど、死ぬほど悲しいことであることは、いざその身にならなければわかり得ぬことです。
自分がそうだとしても、では他人の痛みが理解できるかといえば、それは不可能です。
俺は今もって、本当は何が起こったのかを正しく理解していないのかも知れません。
時間をかけ、それこそ何年もかけて、ゆっくりと自分に言い聞かせていかなければ、短時間で「理解すること」はすなわち自分の精神の死を意味するのですから、仕方がないことでしょう。
自分がまず生きること、それを考えねばならないことは理解しているものの、その意欲が出ません。
そういう自分を相対化すること=こうして記録することで今は精一杯です。お互い、そういう部分では同じでしょう。大切なのは遺された者がそうして、自分の生きる意味を見出すことかも知れません。

これはこれは

美登一路師範。
かっての「4ガロ」を知る人は皆、あなたの作品を強烈に覚えていることでしょう。「ほとけ様の夏」や「人徳さん」、最高でした(笑)。
俺も当時の「ガロ」はもうないです。90年代前後のものは大学に寄贈したし、残ったものも状態は悪く、しかも俺が関わっていないものが多いです。
失ったものはかけがえがなく、大きなものです、そしてその時はそのことに気付かないんですね。

初めて書き込みさせていただきます。

はじめまして、以前よりブログを読ませていただいていました。

初めての書き込みでありながら、日記に対してのコメントと異なってしまう書き込みになってしまいますが、ご了承いただければと思います。

僕は現在、精神の病を持って生活しています。

同じ精神の病を抱えて生活をしている仲間(女性)が、今日、横浜から天にのぼっていきました。
病名は、やまだ先生と同じでした。

父親を早くに亡くし、母親が痴呆症で入院、自ら精神の病を抱えながら、母親の介護をし、生活保護を受けて、団地で一人暮らしをしていました。

精神の病を持ち、生活の支援を受ける施設に毎日通っていました。

このような状況から、様々な人生の困難を体験されて、生きてきましたが、ちょうど約2週間ほど前に、体調を崩し、病院へ行き、自宅に戻ってきたのですが、体調が戻らず、自ら救急車の要請をしたようです。

しかし、ドアが開かず、団地の5階に住んでいたので、消防のはしご車を使い、ベランダから入ったところ、ベッドで一人意識の混濁した状態であったようです。

その後、病院に着いた頃には、心肺停止状態で、約2日後に旅立ってしまいました。

その後約2週間、身内が居ない状態で、遺体が安置され、今日、天へとのぼっていきました。

色の無い、黒と白の世界やファッションが流行っている感じのする時代ですが、それに抵抗するかのように、カラフルなパステルカラーのファッションを自らコーディネートし、また洋服や編み物などでも、パステルカラーを多用したものを作っていました。

最近はどうも、世の中が薄ぼんやりと、スモークがかかったようにハッキリとせず、また様々な事もハッキリとしない、先も見えにくい世の中になっていますが、それが本人は分かっていたのでしょうか、自らがカラフルな姿となって街を歩く事によって、この時代に生きる人々に、間接的にでも影響を与えながら生きてきたように思います。

今、あまりにも僕自身に影響が大きかった人なので、本当に居なくなってしまったのか、居なくなってしまったということを受け入れるのが怖いのか、何が起こったのか全くわからない状態です。

コメントが、かなり異なる方向になってしまいました。
考えもうまくまとまらず、またいきなりの書き込みでありながら、申し訳ありません。

万が一、ブログの意図と異なる内容でしたら、反映をさせないでください。
どうぞ、宜しくお願いいたします。


Unknown

大学卒業の時に「郵送費が無い」というくだらない理由で、実家に持ち帰れなかった私にはうらやましい話です。
友人が大切に保管しているようですが。
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
やまだ紫クロニクル

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