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2009-12-12(Sat)

このマンガがすごい・・・んですか。

12月12日(土)

今朝は6時過ぎにトイレに起きる。一応6時間近く寝たからいいかと、そのまま寝ずに起床。
日中はほぼ仕事ばかり。休み休みとはいえ、その休みにtwitterりしている。昨日届いた宝島社「このマンガがすごい! 2010」を読むが、これA5判にしては字が小さくて読みづらいところが多い。俺の目が悪いのか、若い人向けなのでこれでいいのか、とにかく目が痛くなる。

言いたいことは山ほどあるが、もう面倒くさい。

この本…というより「この手のランキング」や紹介本に何の意味があるのか、もはや意味不明だ。
個々の人物にそれぞれ聞いて、この人はこういうものを好んでいるのか、という下世話な興味を満たすのならそれに特化すべきだし、「売れている」という基準で選ぶのなら、再三言っているようにオリコンの年間順位出しとけばOKだろう。別に本なんか作らんでいい。
その年に単行本が出たものの中から、誰かが勝手にランキングをつけるのなら、そいつらの好みなんだから見る必要もない。
マンガはジャンルも多岐にわたり、メジャーからドマイナーまでさまざまな作品が生み出されている。しかもその作品を評価する際、個人の場合はどうしてもそこへ「好み」つまり「好き嫌い」が入る。
何度も繰り返しになるけど、カネを払ってモノを買うだけの「消費者」なら、その基準はその人の「好き嫌い」でいい。というより嫌いなものをわざわざ買うバカはいないだろう。
だが批評したり紹介をしたり、つまりはプロ、生業にしている連中の審美眼が素人と同じ基準であるならば、プロなんか必要ない。そこに要求されるのは「一般人に今売れているこれ」をわざわざ紹介することではなく、埋もれた名作を伝え残すことであるだろうし、いまだ知らぬ人々へ紹介することもであろうし、「今なぜこれが売れているのか」「この作品のどこがどう優れているのか」などを分析するような仕事だろう。
よく喩えに出すが、「ラーメン通」とか「ラーメン博士」だの言われる連中のガイド本を見てみたらいい、本当にムチャクチャで、こいつら本当にラーメン以外のものをたくさん食べてきたのか、つまり
プロとして「味を表現し他人に説明するだけの『リテラシー』」を持っているのか、と疑われるような阿呆が多い。
四六時中ラーメンばっかり食ってるような奴に、ラーメンの味を説明できようはずがない。このことになぜ誰も腹を立てないのか、疑問を持たないのか理解に苦しむ。そんなものをアテにする方が間違っているのだが(味なんて好みだし、元々が形而上的なものだ)。

ではマンガはどうか。
マンガは文学や映画や写真や音楽などと並ぶ、いやとにかく一つの「表現」方法だ。芸術だとまでは言わぬ、芸術と呼ぶべきものもあればそうでないものもある。その雑多なものが一緒くたになって「表現」なのだし、そのことは音楽や文学だって同じことだ。
この本で「マンガ批評家のだれそれ」とか「ライター」とかの「個人的なベスト」なり「オススメ」が見られるのは、それなりに面白い。
誰がボンクラかすぐ解る。

ただ、書店の現場にいる人間が出すベストは意味が違ってくる。
旧知の友人T君がメールをくれた。ブログへもコメントをくれたが、
「書店が単に『店頭で何が売れたか』をランキングで出すのでは、意味がない。むしろ書店の現場で、自分はこれを今の読者に読ませたいという行動が、書店の書店たる存在価値だろう」と憤慨していた。
なるほどと思う。
世間の売れ行きがどうこうではなく、この作品がもっと読まれるべきだと思うこと。
この作品はずっと後世に伝えたいから、棚を作って自分のベストだと思う品揃えをすること。
まあそれが書店文化というか、書店の存在価値だとも思うが、取次の言うがままに売れ筋を揃え、送られてきた配本をただ並べる…じゃあ書店は早晩潰れていく。(いやそんなことはもう20年も前から始まっていて、そのことも再三俺も書いているが「考察【出版不況】」
勢いまっとうな読者の足も書店から遠のく。というより、書店に通うあの「わくわくした感覚」を味わう、次の世代が育たない。育ててきたのは書店だったはずだが、もうその役目を果たす書店員がいない。だから結局どこの書店へ行っても同じだ。
何年か前、夫婦でけっこう大手の書店へ足を運んだら、レジ前の「一等地」に「店長のオススメ!泣けます!」というポップがあり、『世界の中心で愛を叫ぶ』が大量に平積みになっていた。二人で顔を見合わせて苦笑した。

ではAmazonやネットでプッシュされている大量のものから「自分の審美眼だけ」を頼りに「ほんとうにいいもの」と出会える確率は低い。
レビューなんかしょせん、他人の主観にすぎない。書店へ行き、自分の全く興味のない分野の棚の前で、上から下までなめ回すように本を探し、手に取り、そして新たな好奇心や知的探求心を刺激された時の、あの感覚。ネットでは無理だ。

そのために本のソムリエのような人が必要で、つい数年前までは、それが実は書店という出版文化、流通の現場の最先端にいる書店員のはずだった。
かつて個性のある品揃えで、「ジャンプ? よそで買えるだろそんなもの」という書店がたくさんあった。本当の話だ。
どこでも買える、誰でも知ってる本ならよそへ行けよ。うちはな、棚つくるのに誇り持ってんだよ。本当にそういう書店がたくさんあった。

俺の高校時代、よく通っていた函館の五稜郭交差点から近いデパートの裏にあった小さな書店で、俺はガロを買い、写真時代を買い、OUTやファンロードにも出会い、漫画ブリッコの創刊を目撃した。青林堂だけじゃなく北冬書房、けいせい出版や東京三世社のコミックにも触れた。別な書店ではエロ劇画がカンペキに揃っていた、主人が好事家だったと思う。また別な書店では翻訳ものの小説ばかり買った。
いわゆるメジャーどころ、ジャンプやマガジンやサンデーや少女漫画のコミックは当たり前だがどこでも買えた。今のようにコンビニが無かった頃だ。
大きな書店をはしごするのと、個性ある小さな書店をめぐるのは、それぞれ別な楽しみがちゃんとあった。こちらもそれを使い分けて楽しんでいたし、書店側も「棲み分け」をしていた。

この晩秋、入院する前に買い物がてら近所の名物書店を覗いたことがある。
発売日直後のやまだ紫「性悪猫」はみつからなかった。
部数から言って委託、パターン配本で入る部数はほとんどないと思う。ただそこはアート系の本に力を入れていたし、サブカルにも強く芸術系の学生が多いところだ。1部か2部入ったのを返本したか売り切ったか、それで終えたのか。あるいは最初から入らなかったか。いずれにせよ、その店で能動的に「これは今の時代でも売るべきだ」という選択肢に入らなかったのだろう。入っていれば注文で平積みするぐらいは頼むはずだし、俺が書店員ならポップを作ってレジの真ん前に置く。
しかしそんな書店は恐らくもうないのだろう。
書店員は売れる本をより売るために、ポップを作る。
売れ筋をよりたくさん売るために、特等席に平積みをする。
皆判で押したように大手の、それこそ数十万数百万売れるものを大量に仕入れて大量に売り切る商売しかしない。書店なんかどこへ行っても同じだ、と言われる所以だ。
俺ももう書店の店頭へ足を運ぶのをやめた。
病気のこともあるが、こちらが読みたいものはピンポイントでAmazonに注文すればいい。若い頃の、あのわくわくするような「未知との出会い」を期待して行くような書店はもう、ないのだろう。あったとしても俺が行ける範囲にはないだろう。
「出版文化は、その先端で読者と対峙している書店そのものが破壊している」…T君の言葉だが、なるほどと思う。

<追記>
『このマンガがすごい!』がちょっと納得いかない件について 漫棚通信ブログ版
カンペキな分析結果。小中学生をはじめ大学を含めた「子どもたち」のアンケが…。だったら本にする意味って…
【以下はコメント欄に残そうとしましたが、遠慮させていただきました】
自分はむしろ今年の路線変更には疑問なので、漫棚通信さんと同意見だ。
アンケートの集計結果=人気投票や書店員の売れ筋ランキングなど本にして何の意味がある?
しかも年間の「すごい」と銘打ってだ。
オリコンの売上げ一位からでいい、せいぜい年代別性別くらいなもんだろう。数頁で終了。あとは巻末の著名人(だか何だか知らないが)の「個人的な趣味趣向によるセレクト」くらいか、読めるのは。
ONE PIECEが売れていることは事実で面白いことも事実で、それを今さら「すごい」ということに何の意味があるのかということを、たくさんの人が疑問に思っている。
あと今年の、この本の校了(10月か?)までに出た全ての漫画単行本を対象にするのなら、来年は、今年の10月末から刊行されたやまだ紫の復刊も当然選考対象でしょうね。
ただ「売上げ上位からスゴイ」という価値基準だとしたら、やまだ紫を読める「漫画読み」とやらがどれだけ執筆陣に入ってるかが不安ですが。
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コメント

ご無沙汰してます

コロスケさん、お元気ですか。こちらはまだなんとか生きています。

「このマンガがすごい」に関してですが、本の作り方が一変したことで、恐らく「編集体制が一変」したであろうことは、外から見れば誰もが解ったことだと思います。読み手は金を払って読む読者つまりお客さんですから、それが気に入らなければ「おもろなかった」と終わりです。ただ自分は多少業界に居ると言えなくはないので、そういう乱暴な言い捨ては確かに良くないでしょう。
ですが、言いたいことを言う自由と、編集方針が変わったことへの「純粋な疑問」は表明したかった。

コロスケさんのコメントの通り、「著名人=タレントも含めたアンケートの拡大」と「小中学生票の取り込み」が、俺は読んで一番納得いかなかったところなんです。それは読者として、ということですが。
(「編集者たちのアニメ志向の強さ」には敢えて言えば、「個人的な趣味趣向を編集が仕事に前面に出す」ことは編集としてはどうでしょうか、ということもあります)

本文にも書きましたが、全体としてアンケート重視になってしまったことを最大の問題だと述べました。アンケートもランキングも統計です。それらの「切り口」や元データの抽出・選定に、本を作る人=編集者のセンスが問われるのだと思います。
ゆえに、タレントや中高生の比重が増えたことで上位のランキングが限りなくそこら辺の「書店売上げ上位」的なものに近付いてしまったことは否めません。つまり、はっきり言えば面白くなくなった、つまらぬものになった、ということです。すみませんが。
(ところで漫画読みは、オトコ漫画もオンナ漫画も意識せずみんなどちらも読んでいますよ。では漫画読みではない人たちはというと、これもけっこう貸し借りして読んでたりします。十何年学生たちと接してきたので、そこら辺は間違いありません。では「オトコなのでオトコ漫画しか読まない」「オンナなのでオンナ漫画しか読まない」という子たちは、そもそもこの本の読者対象にすら入らないはずです)

で、小中学生は周りが読んでいるものに話を合わせるために、売れている本へ大きく票が固まりやすい。そんなことは大昔から常識。タレントや歌手など「自称マンガ読み」といっても仕事をしている=売れていたらそんなに数を読めるわけがない、従ってある程度話題の本を読む=売れている本を読むという行為になりがちである。(売れてないタレント、誰ソレ?的な人の意見などは、わざわざ本を買わなくてもネット上で気が狂いそうな数タダで読める)
従って11位以下の比較的「不特定多数」に大きく支持されなかった作品に興味が出て来るわけです、どうしても。これは男編も女編も同じでした。
「ウシジマ君」が入っていたけど熊谷蘭治が入ってない、など自分の「個人的感想」と照らし合わせる楽しみがあります。
そういう何か「楽しさ」とか、へえ、という「発見」のために、人は金を払って本を買います、いや俺の場合は。
それが、今年の「このマンガがすごい!2010」では大幅になくなった気がしたのです。
(つまり「サルベージ座談会」こそ、もっとも大きく個々の作品を、上位マンガしか知らぬ層へ知らしめる場だったわけで、ボリュームを取るべき箇所だったと思います)

「編集」って、俺が言うのも何ですが、大事なことだと思うんですよ。
読者のために、金払って買ってもらって、何かしら満足してもらいたいと思って作る。いやそう思って作られたという反論にやぶさかではありませんが、後はもう受け手の側に委ねられるわけで、そうでなければ自慰行為になる。しかも金を取って自慰を見せるという意味のわからぬ行為になりかねない。
宝島社さんの漫画に関するこうした本は、十年ほど前に「ザ・マンガ家列伝」でしたか、同じA5判でシリーズがあったと思いますが、あの個性ある漫画家さんを紹介していくかたちが主だった頃から読んでいます。ていうか作家さんの連絡先教えるとか協力もしました。
当時の、「知る人ぞ知る作家」とか「これから必ず来るであろう」という人たちにある程度ページを割いてインタビューをしたり紹介をしたり対談を収録するなど、「ああ、マンガにもこういうスタイルが定着してきていいな」と思ったものです。
あれに新作が掲載され月刊化されていくような、例えば一時期の「COMIC BOX」が目指したスタイルが定着したら面白いだろうな、と思いました。
つまり文学における総合文芸誌みたいなもので、漫画作品そのものに、漫画評論や作家論、作家紹介、作品紹介、資料その他が一冊になった「総合漫画月刊誌」みたいなものを、ズシリと読み応えのある月刊誌スタイルで。
でも結局あの「別冊宝島」スタイルはそれこそ「別冊宝島」と共に埋没したというか飽きられたというか、その結果としての近年の「すごい!」への「路線変更」なのか、それは外の人間にはよく解りません。
ともかく今年の「2010」に関しては、とても「読み応え」「満足度」から言うと、いずれも残念だったな、というのが自分の個人的な感想でした。
コロスケさんが編集に「どっぷり関わ」らなきゃダメじゃないですか。
と、思いました。

ご無沙汰しております

白取さん

ご無沙汰しております。コロスケです。

「このマンガがすごい!」の年度版には4年前の立ち上げから係わってきましたが、今年から担当編集者が変わり、編集体制も一変し、僕も一ライターとしての参加するに留まりました。

結果、著名人アンケの拡大や小中学生票の取り込み、編集者たちのアニメ志向の強さなどにより、雰囲気が一変してしまいました。

正直、あのピンクの書体は目に痛く、デザインはほめられたものではないと思います。

ランキングの件に関しては、ミステリなどと違って長期連載作品の多いジャンルということで、このような反発が出てしまうことは編集サイドも重々承知です。

ただし、売れている作品ばかりを紹介しているだけでなく、売れ行きから言えば、それこそジャンプ系の何十分の一という作品もベスト10には入っています。

また、白取さんにしても漫棚さんにしても、恐らくオトコ編のほうのみで語られていますが、なかなか男性マンガファンがふれる機会の少ない少女、レディース系の作品をオンナ編としてベスト10を作ることは、いい作品が注目される機会になっているとも思えるのです。

今年に関してはONE PIECEのオトコ編2位の意外さのみが際立ってしまい、そこを大きくクローズアップして本誌についての議論が行われたことに関して、前年までどっぷりと関わっていた人間にとっては残念でした。

お礼が遅れてすみません。

度々のご返答、ありがとうございます。

ジャナ専の先生たちはどちらかというと我が強く、「これはこうなんだ!!」という話をする人が多かったんです。
雑誌の編集長などになれば、そのように自分の意見を部下に押し付けるということも必要でしょうし、そのこと自体を批判するつもりもないのですが、僕のような天邪鬼な人間からすると、「これはこうだ!!」と言われる度に、「こういう見方もあるだろ」と思ってしまうんです。
そんななか、白取先生は自分の考えを述べられたあとに、「って話している俺だって偽者かもしれないんだから、何が正しいのかは自分で考えろ」というようなことをおっしゃられたんです。
そして、その言葉を聞いたときに、「あっ、この人だ」と思ったわけです。

なんてラブレター的な内容をダラダラ書かれても、迷惑ですよね。
本当はもっと熱い想いを伝えたいのですが、気持ち悪がられそうなので、この辺で止めておきます(笑)

師匠といっても、白取先生のおっしゃられることの全てを鵜呑みにしているわけではないですし、正直に言えば「それはちょっと違くない?」と思うこともあります。
ただ、結果としては意見が食い違うとしても、自分の中で考えをまとめるうえで、白取先生の考えを参考にしていることは事実です。
そういった意味で、師匠と呼ばせて頂いています。心の中でですけど。

というわけで師匠、これからもご指導、ご鞭撻、宜しくお願いいたします。

つづき>ただすけ君

週1だったというと、流通現場論だったのかな。
出版流通、特に取次などとの関係までも含む講義を綿密に行ったと知り合いの版元の人に言ったら、とても驚かれた。
そして、それは全ての編集も知るべきだと。
ジャナ専の講座と単位認定試験はかなり難しかったと自負しているが、その分色々ためになったと後から言ってくれる子が多いので、やった甲斐があったというものです。

でまあ批評については色々自分で考えて、とりあえずは今その時の自分が一番納得のいくものが、今のその自分への答えなんだろうね。

で「この作品が評価されているのはおかしい」というような批評に、果たしてどんな意味があるのか理解できない
ということですね。

それは例えばその作品の手法や主題がすでに別な先達によって描かれていた場合や、明かな事実誤認がある、盗作である、他にもいくつかあるでしょうね。
「知らない」ということは時として「罪」になるということもあります。
感想であれば「前に同じようなことを描いた作品があっても知らん、俺はこれが好き」
でいいが批評であれば「この作品以前にこういう作品でこういう主題が描かれている、それと比較してここがこう劣っている」ということも、あり得る話でしょう。
個人の感想はとりたてて後世に伝え残す意味はないかも知れませんが、ちゃんとした見識に基づいた批評は集積し、後世の研究者や批評家の史料、材料として保存しておくべきだと思う。
肯定的な「批評」で目隠しをし先達の作品を埋もれさせてしまう場合もある、それは罪になる。
「批評」だから、後世の研究者やそれこそ批評家のために、「言っておかねばならないこともある」ということです。
ただ行き過ぎると表現への規制とかつまらん糾弾に踏み込まれる怖れはある(例えば「封印漫画大全」三才ブックス参照)けど。

またその時の「批評」が全て正しいわけでもない。
例えば「やまだ紫は私小説マンガ家である」という批評がまかり通っていた時期があります。俺が言うんだから間違いない(笑)。
しかしそれは間違っている。そういう「評価」は違う。私小説として優れているという評価は間違いであり、漫画家として優れているという評価をしなければならない。
今では有名な洋画家が存命の時代には時の「批評家」に全く評価されずボロカスであったという例は枚挙に暇がない。
しかし「今」そいつらの「マイナスの批評」が残っているおかげで、「なぜこんな素晴らしい作家があの時代不遇だったのか」という愚かさや不見識さから、学ぶこともまた大きいでしょう。
好き・嫌いの「感想」や単なる個人の意見の集積も価値がないわけではないが、責任を何も負わなければ扱いもそれなりであると覚悟しなければならないし、逆もまたしかり。

とにかく「人が言うことはだいたいウソ」なのでそういうところをちゃんと憶えていてくれたのなら有り難いね(笑)。
軽々に人を師匠なんて決めちゃダメだよ、俺みたいなチンケな人間よりもっと大きな人を師と呼びたまへ!

ありがとうございます。

ご返答ありがとうございます。
特に一番最後に書かれた

「ただ俺ごときが言うことが正しいとは限らんよ。
まあもっと考えなさい。自分でももっと、悩み給え。」

という件が、授業でもよく話されていたことなので、当時を思い出して嬉しくなってしまいました。
僕はこの言葉を聞いて、「白取先生を師匠にしよう」と決めました。
もちろん、面と向かって師匠だなんて呼んだことはないですけど、今でもその気持ちに変わりはありません。

さて、質問をしておいてこんなことを書くのは失礼かもしれませんが、白取先生の教えどおり、僕は答えを教えて欲しかったわけではなく、自分で答えを見つけるために、白取先生の考えを教えて欲しかったんです。
ですので、とても参考になりました。ありがとうございます。

白取先生も書かれているように、「この作品の良さを知らない人のためにそれを論理的に知らしめる」というような批評であれば、とても意味があることだと思うんです。批評する側の気持ちとしても、自分が見つけた良い作品を、多くの人に知って欲しいという気持ちはとてもわかります。
ただ、「この作品が評価されているのはおかしい」というような批評に、果たしてどんな意味があるのか、僕としては理解できないんです。
たとえどんなアホみたいな内容だとしても、その作品を見た人が「素晴らしかった」と思うのなら、少なくともその人にとっては「素晴らしい作品」なんです。
それを、理論立てて素晴らしくない理由を説明する意味は、果たしてあるのでしょうか?

というのが、今のところを僕の考えです。
この命題に関しては、聞きたいことがたくさんあるのですが、まだ自分の考えもまとまっていない状況なので、また機会を改めて質問させて下さい。

お忙しい中、ありがとうございました。

今でも専門学校時代の友人とはよく会うのですが、白取先生の話は頻繁に出てきます。
僕等のクラスの担任は別の先生だったので、白取先生とは週に1度の授業でお会いするだけでしたけど、それでも多くのことを学ぶことができたと、全員が言っています。
噂によると学校自体がそろそろなくなりそうなので、昔の授業のような形式でお話を聞くことはもう無理かもしれませんが、白取先生が書かれているこのブログから、僕達は今でもたくさんのことを学ばせてもらっています。

まだまだ白取先生から学びたいことがたくさんあるので、どうかお体にはお気をつけ下さい。
一円も払っていないくせに勝手なことを言っていますが、よろしくお願いします(笑)

感想と批評の違い?

批評と感想の違いの説明というのは、極めて難しい命題です。
自分は何度も何度もここでも、学校でも(マジメに聞いてたら憶えてるんだろうな!?)繰り返してきたように、
無から有を生み出す、しかもそれが作品というかたちである「作家」を尊敬する
という立場にずっと変わりはありません。
編集者という立場から、軽々に作家を「批評」することは、同じ業界にいて、しかも作家という存在がなければメシが食えない編集者ふぜいがすべきことではないと再三述べてきました。
ただ「感想」は言えます。面白かった、ちょっと今回は自分としてはこういう方が良かった。
しょせん。個人の感想、希望、要望だったりします。
そして個人のそれは個人の主観、趣味趣向に依拠します。
批評は、批判もあるでしょうし、賞賛もあります。元々はそれとて個人の、その批評者のそれまでに触れてきた作品なり色々な他の表現なりの自分の感想を積み上げてきた結果でしょう。
しかし、決定的に違うのはやはり「他者に自分がなぜそう思ったか」を、論理的に説明できるか否か、が大きいと思います。その、他者を納得せしめるだけの見識というか、「それまで自分が積み上げてきた経験」から生み出されるものが批評であると思います。
感想の論拠は「えー、別に嫌いだから」でいいかも知れないけれども(そこまで乱暴なのはどうかと思うが)、批評と言うからには感情や好き嫌いといった個人の趣味趣向を超えた、他者をも説得する何かが必要だと俺は思います。
批評家という人たちは、表現者と比べると、俺は一歩引くべきだとずっと考えてきました。今でもそういうところはあります。表現者は自分で立っているが、批評者は他者の表現により、立っている。そう言えば批評家は怒るかも知れませんが、そういうことは否定できないでしょう。
なので、自分は「この作品の良さを知らない人のためにそれを論理的に知らしめる」批評が好きです。殊更に、表現者の「どこがどう悪いか」をあげつらう批評は好きではありません。それは、前述の通り、批評は表現があって成り立つものだと思う、つまり作家に対して常に一定の尊敬があって成り立つと思うからです。
感想というのは、他者を意識せずに好き勝手に言えばよろしい。
ただ世間の感想や評価がどうであれ、自分はこれこれこういう理由から、この作品の評価が「正しい」あるいは「間違っている」ということを言わねばならないこともあるのが、批評です。なので、否定的なことをあえて言わねばならない場合も、あります。
要するに自分の「感想」に思想があるか、そのことによって責任が生じそれを負って立つ覚悟があるかどうか、それで感想か批評かが別れるのでは?

ただ俺ごときが言うことが正しいとは限らんよ。
まあもっと考えなさい。自分でももっと、悩み給え。

批評と感想は、どう違うのでしょうか?

ここには初めて書き込ませて頂きます。

私は白取先生の教え子で、このブログは前から読ませて頂いていました。

そこで質問があるのですが、いわゆる「批評、評論」と、「感想」というのは、どう違うのでしょうか?

「感想」は主観で、「批評」は客観というような説明を受けたことがあるのですが、私の考えからすれば、人間が見て、人間が伝える以上、客観というものは存在しないと思うんです。

つまり、全て主観で全て「感想」なのではないでしょうか?

マンガに限らず、何か一つの現象を見て、それについてどう思うのかは、人によってバラバラです。

その中の最大公約数を客観というのだとしても、何を最大公約数とするのかは結局はその人の主観でしかありません。

私にとって評論家というのは、「自分が好きな対象を人に伝えるのが上手い人」なのですが、考え方として間違っているのでしょうか?
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
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