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2009-12-14(Mon)

「このマンガがひどい!2010」対談に参加

【緊急告知】
なめくじ長屋奇考録さんにて、12月21日から24日(クリスマスイヴ笑)に渡って開催される
「このマンガがひどい!2010」
のエロバカ劇画総括対談に参加します。


自分は漫画家志望の19歳のとき、師事していた長井勝一「ガロ」編集長の誘いを受けて、マンガ編集の世界に足を踏み入れました。
長井さんから受けた薫陶、「長井イズム」については再三述べてきました(「4コマガロ・「長井イズム」のこと」)が、
マンガに貴賤はありません。
物心ついた時から、自分の側にはいつもマンガがありました。
もちろん「ジャンプ」「マガジン」「サンデー」「チャンピオン」「冒険王」などなどのメジャーどころから始まって、3つ上の兄のおさがりや家の真ん前にあった児童館、図書館などで色々なマンガを読みました。
かろうじて、函館には昭和40年代、まだ貸本屋が残っていた(太陽模型店の側だった)ので、旧いマンガにも親しむことが出来たし、年の離れた従兄弟の家で「ガロ」や「COM」などにも触れることが出来ました。

マンガを自分で描き始めたのは、小学校2年ころだったと思います。
母親が関西旅行のおみやげに、なぜかボンレスハムのような二十数色のボールペンを買ってきてくれたので、それで絵を描き始めました。
家にあった新聞の「活字」がおもしろくて、レタリングの真似事をしたりしたのも、その頃です。北海道新聞の一面全てを模写して驚かれたものでした。当時確か瀬戸内晴美「幻花」というタイトルをレタリングしたことをはっきり記憶してます。(ちなみにレタリングはその後もLPをダビングしたカセットのINDEX書きなど、マンガと平行してずっと続け「ガロ」時代はアルバイトまでしたものです。ちなみにギャラはもちろん無かったけど、沼田元氣さんの写真連載のレタリングはほとんど俺がやってました)
また本がどういう作りになっているのかを調べるため、雑誌をバラして製本の仕組みを解明し、自分で自分の漫画を「製本」したりもしました。オールカラーで100ページ近い大作でしたが、もちろん内容は稚拙かつ極めて子どもじみた真似事に過ぎませんでしたが。
中学に入ると、ご多分に漏れずエロ方面にも興味が行き、友人の兄が持っていたエロ劇画を見るようにもなりました。同時に、兄がなぜか少女漫画を読み出したので、その影響でオトメチックな少女漫画も読むようになりました。
中学の同級生なら憶えていると思いますが、当時俺はクラスでも有名な「漫画のうまい子」で、『エースをねらえ!』の岡ひろみを模写して友人(男子、O君元気?)にあげて喜ばれたり、文化祭の出し物で先生全員の似顔絵と口癖などを図解した張り紙を掲げて喝采を浴びたりしたものです。(函館市立本通中学校の皆さん、憶えてますか?)

自慢話はともかく、高校に上がる頃には、いっぱしの漫画家志望のガキに仕上がっていました。とにかく模写に励み、陸奥A子や田渕由美子から高橋留美子に鳥山明、果ては石井隆に滝田ゆうまで模写をしたものです。
兄は私立名門校から超一流と言われる理系の難関大学へ進学したので、母親は俺にも期待して、某有名大学へ入るようにと、家庭教師を呼んで勉強させました。
残念ながら自分はお勉強にはとても向いてなくて、よくサボったものです。とにかく漫画を描いたりバンドをやったり小説を読んだりと、とてもお勉強どころではなく、忙しかったので仕方がなかったのです。
最終的に母親を「漫画家になりたい、そのために学校へ行きたい。その間になれなかったら、大人しく受験をして大学へ行く」と説き伏せ、あこがれの「ガロ」編集長、長井勝一が講師を務めていた専門学校へ進学したのです。(今はもう廃校して、ありません)

長井さんは作家性、オリジナリティを何よりも重視する人でした。
荒削りな素人の「個性」も大切ながら、いかに先達の優れた「個性」を感じ取り、自分に活かすのか。
そのために、独創性溢れる作家さんたちの絵、タッチを「模写」することを勧めました。(関係ないが昨今マンガを「商品」としてしか見られぬボンクラ編集がいると聞くが、一回でいいからマンガ描いてみろ。模写してみろよアホンダラが、と強く思う)
そして同時に「絵」を活かすストーリーを作る助けになればと、映画を見せたり、マンガでも古典的な名作を読ませてくれたりもしました。要するに、作家志望の学生に古典文学から現代文学まで幅広く読ませ、さらに自分でも書かせる。そして人に見せて批評を受ける。今考えれば芸術系の大学教育での基本みたいなものを、漫画でやっていたわけです。
さて俺にとってはお得意だった模写の成績は、胸を張って誰よりも良かったと断言します(★ここにあり
が、他人の模写はうまくても肝心の「独創性」つまりオリジナリティに全く欠けていた俺は、結局漫画家にはなれませんでした。

そのことにうすうす気付き始めた、けれど俺は大好きな漫画の側にいたい、作家がダメなら編集者でもいい、それがダメなら漫画専門店の店員でもいい。とりあえず母親には謝って、来年受験でもしないと駄目か…。
そんな事を思っていた時に、長井さんから
「君さあ、明日からうちに来いよ」
と言われて、青林堂でバイトをするようになったのが1984年の冬でした。

長々と何を書いているのかというと、「このマンガがすごい」とか「読め」という企画はありますが、「このマンガが酷い」ということもまた、俺たちの漫画への愛だということです。

日本が世界に誇るマンガだ、アニメだ、とうとう国家もその文化的価値を認めた…。とか言ってるくせにあまり顧みられない「三流エロ劇画」の世界。
そこに21世紀に入って10年も経っている今、熱い視線を注ぎ続け、一銭にもならないのにその魂をぶつけ続けるげきがウるふ氏のサイト「なめくじ長屋奇考録」は、やまだ紫という最愛の連れ合い、最も敬愛する作家を亡くし絶望と慟哭のどん底に居た自分に、いつも勇気と笑い、そして脱力を与えてくれました。

そう、マンガに貴賤などない。

どのマンガがすごくてどのマンガが酷いか、どのマンガに価値があってどれに無いのかなんて、人に言われたくない。俺たちが言いたい。だから俺たちが言うことから何も学ばなくて結構。ただ俺たちは、言う。語る。そんな企画です。

蛇足ながら、「ガロ」クーデター事件が起こる直前に、知り合いだったF社「P誌」(廃刊)の副編集長Kさんから、「貴重なエロ劇画のコレクションを預かってくれないか」と頼まれました。
エロ劇画はもちろん、原稿料の出ない「ガロ」の作家さんたちがずっとお世話になってきたし、そこから出た才能だってたくさんある。そして何より、「世間の主流」、マンガのど真ん中だか何だか知らないが、そこから外れている者同士の連帯感があった。
それに、国会図書館にバックナンバーがあるわけでもなし、特に雑誌は読み捨てられゴミと消えることがほとんどの、とても貴重なものだ。
だから、喜んで預かった。
段ボール5箱ほど届いた時は愕然としたが、幸い初台の「ガロ」編集部の大きな書棚がまるまる一つ空いていたので、俺はみんなに
「これらは後々貴重な資料になるから、預かった」
と言って棚に収めた。
「ガロ」のクーデター事件の後、俺たちツァイトのスタッフは、ほとんど無給で事態の収拾にあたりました。失業保険の給付を受け、内職のようなことを掛け持ちしたりして多忙を極めていました。(後にクーデターを起こした張本人の側が同じようなことをどっかで言っていたが、それは自業自得というものだろう。自分たちで事件を起こして飛び出しておきながら、苦労をしたことを殊更に吹聴することは恥ずかしいと、俺は、思う。さらに、自分たちの「明かな違法行為」を感情論でチャラにするのはよかろう、だが、俺を「ヤクザの手先」「山中と手を組んで次のガロというブランドを乗っ取ろうとした」などとデマを吹聴する必要はなかろう?俺が言ってること、どっか間違ってるか?)

さてとんでもなくひどい状況に置かれていた俺は、Kさんから譲り受けたエロ劇画誌は散逸させるわけにはいかず、さりとて家には置く場所もなく、気がかりでいたところ、処分される寸前で当時タコシェの店員だった大西祥平君に引き取られたのです。所有権は自分にあったのだが、それを知らぬ人たちが処分しようとしたのを引き取ってくれたと、後で彼から聞いた。その後それを彼がどう活用しようと勝手だったわけで、今は純粋に感謝しています)
とにかく、もうそんなことはどうでもいいことなのだが、その後某グループによりエロ劇画の復刻や再評価でちょっとしたブームが起きる。それは俺がやりたかったことでもあった。だがもうそれも結果的にキチンとエロ劇画に日が当たり、再評価されるのなら誰がやっても結構。掛け値なしで嬉しい。

そして「今」だ。
俺たちはすごかろうがひどかろうが、愛を持ってマンガを語る。バカバカしくゲラゲラ笑う。それもまた、マンガに対する態度として正しいことの一つなのです。
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コメント

いやー

お陰様でたっぷり色んなひどいマンガを見て、臭いオナラが出そうです。褒め言葉です。
ラストスパートで駆け抜けましょう!

Unknown

ありがとうございます!!(告知、というかご協力いただいてる事自体に)

公開まであと数日、まだまだ遊びましょう!!
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
やまだ紫クロニクル

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