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2009-12-30(Wed)

かたちある「本」の未来

個人が印税35の電子書籍を出版できる時代 - Amazon Kindleの衝撃:in the looop:ITmedia オルタナティブ・ブログ


今はモノとして存在する「本」と、電子出版という実体のないメディアとの過渡期にあると言われて久しい。
俺の周辺にも、けっこうそのアタリに関わっている人が多いので、そういう話題はよく聞く。マンガなどの絵の入ったコンテンツは難しかろうと言われていたのはもう十五年以上前の話で、テクノロジの進化はもはやマンガもデジタルで、それもお手軽に携帯で見られる時代に突入している。
一時期、「ケータイ小説」つまり「携帯向けに特化させた小説」、センテンスを短くしたり改行を多くしたり、まあ読み手のこと…と「読み手の端末」に配慮して書かれたものが話題になった。(有名なのはプロのもの書きからはボロカスに言われていた「恋空」である)
これと似たようなことがもうちょっと前にあったな…と思ったら「ライトノベル」だった。今回の話とは全然関係無かった。いや、少しあるか。
ともかく、ハード面での画像処理能力の向上、回線インフラの整備とスピードアップなどで、俺が「ガロ」の頃に「電子出版コンソーシアム」の立ち上げの会合へ顔を出した時との激変ぶりは、その後実体験してきてよく知っている。(関連…「出版不況」--細く長〜く…ではダメか? その6

携帯電話のあの狭苦しい画面に、紙媒体で発表することを前提に描かれたマンガを表示する場合、コマを切り出したり、うまいこと変形させたりと、かなり面倒な作業が必要になる。1ページ全体を無理やり縮小表示させ、その一部分をクリックしたら拡大…なんてまどろっこしい作業は、本来の紙媒体の利便性の対極にあるものだから、やはり相容れない部分が多い。
だが、最初から携帯に表示されることを前提として描かれたマンガなら、そのあたりのイライラ感も無いだろうし、若い学生などに聞くと何の違和感もなく操作して楽しんでいるということだ。
つまり「紙媒体の発表を前提に描かれた作品」と「携帯端末での閲覧を前提に描かれた作品」との2種類が今存在している。で、ハードとソフトの進化はその垣根をどんどん曖昧にしつつある。

今話題のAmazon Kindleは、使った人のレポートを見る限りでは、「よく出来ている」という印象だ。「本を読む」という行為をじゅうぶんに意識し、その代替いや進化形としての端末であるということで作られている。今のところ活字しか読めないが、今後マンガなどへも対応していくことは必定だろうな、と思う。
このAmazon Kindleが「本を読む」という行為をスムースに補完し代替していくのかどうか…はともかく、斉藤 徹氏のブログを読んでもっとも考えさせらるのは、今後の「出版業界への個人参入」の敷居を大きく下げる、という部分だろう。

今、日本の出版流通は
作家(書き手)→版元→取次→書店(やコンビニ)
という流れになっており、作家と版元の間で交わされるのは概ね10%という印税額=作家の取り分だ。
Amazonの場合は版元と取次が不要になるので、そのマージンが消え、印税額が35%になるという。
一応同人誌ではなく、書店(Amazonも当然そうだ)を流通させるためには、ISBNコードや雑誌コードの取得が必要だ。雑誌の場合は取次が認可しないだろうから個人の取得は絶望的。しかしISBNコードなら、斉藤氏の文中にあるように、個人でも時間と金はかかるが取得出来る。
これまでISBNを個人で取得したところで、取次を通じて全国の書店へ展開できなければ意味がない=版元でない限り無意味だったので、自費出版でOKという場合が多かった。
しかし「Amazonでの電子書籍登録がオンラインで誰でも簡単に」行えるようになると、作家は個人でISBNを取得(日本図書コード管理センターの「図書コード取得のご案内」参照)して、作品をいつでも個人で「出版」することが出来るようになる。
「本というかたち」にさえ拘らなければ、作家にとってこの印税パーセンテージは大きいし、自費出版にしても初期投資額がケタ違いに安くなる。(だいたいまあごく普通の書籍を一冊作ろうと思ったら、200万〜300万くらいかかると思えばいい)
ただここで考えるのは、「そうなったらどうなるか」だ。
もちろん、これまではブログで発表しそのうちどこかの版元の目にとまって、出版して貰えるのを待っていたような「アマチュア作家」たちが雪崩を打って「個人出版」へ参入する…ということは想像がつく。
ただ俺の場合は、出版社や編集者というのは「作家」と「世間=読者」をつなぐ橋梁のようなもの、フィルタのようなものだと思っている。(また僭越承知ながらもっと言えば、玉石混淆状態から玉や原石を見つける役割もあり、それを磨いていく役割もあろうかと思う)
つまり昨日の記事(「コミックギア」が2号で終了)にも関連するのだけど、そういう「フィルタ」を通さないものが大量に出回ってしまうと、要するにそれは今のインターネット上で発表されている玉石混淆のコンテンツの中から、どうやって「玉」を探すのか、非常に難しい時代になる。そのフィルタ、つまり審美眼のようなものを「編集者」などという訳の解らぬ存在に任せんでもいい、俺が面白いと思えばそれでいい…そういう時代になりつつある。こうした一種のメディアリテラシー的なものが自分個人に求められるというのは、ネット隆盛となり、テレビや新聞という与えられるメディアではなく、好きな時に好きな情報だけを取り入れる人が増えた状況と同じになるのではないかと。
それでいいではないか、と言う人も多くそれはそれでいいが、ただ、ネットに溢れる「情報」「ニュース」「話題」も、アップした「誰か」というフィルタを通している。そのフィルタが信頼できるかどうかを見極めるのは、けっこう大変で、大変だから「編集者」「記者」が存在していたのだが、フィルタ部分を否定されれば、あとは実務としてただ、自分は意見を挟まずに黙々と本を…それは実際の本でも電子データでも…作る「作業をする人」でいいということになる。

現実にはまだ今、「ネットで話題の」とテレビなどのマスメディアに紹介されて、はじめてそこで「本当の世間の話題」になるかならないか、というスタートに立つ。「ネットで話題」の段階では、世間一般への認知度はそれほど高くはない。「世間」が「ネット」と限りなく一致するような状況になるにはまだ十数年かそれ以上かかりそうだけど、まあいずれはそうなるだろう。
この膨大なネットの中で日々発信される「つぶやき」から「ブログ」からマスメディアのニュースサイトまで、「アクセス数」の多寡で認知度が大きく変わる。大手通信社が配信したニュースでも誰も顧みないものもあれば、個人発信のものでも2ちゃんねるにスレが立ち、それをニュースサイトやブログが取り上げ、さらにそれをツイッターが拡散し、もの凄い勢いで伝播していく…ということも現実に起きている。当然ウソやデマ、あるいは悪意ある誹謗中傷も同様に拡散し、それを否定するには膨大な労力と時間がかかり、事実上は無理だ。
よく言うけれど、ラーメン評論家でもグルメでも何でもいいが、人の舌ってあまりアテにならない。好みは人によって違うし、万人誰もが「うまい」と認めるものは最大公約数的でつまらん味になるかも知れない。元もと味も含めて「好き・嫌い」という極めて個人的な感情を、他人に説得力を持ってどう伝えるかは大変に難しいこと。だから逆に「好き!」「嫌い!」と短く言う方が説得力があったりもする。理由もなくそう言われてしまえば、他者には反論の余地もない。何しろその人の主観に他人は「ああそうですか」としか言えないだろう。

ほんとうに「読むべき価値があるもの」など、もう誰にも解らない。
我々「紙の本」世代の、それも発信する側に携わる者は、これまで「この本を世に出すべきか否か」という立場にいて、常にそのフィルタの役割を果たしてきた。いや、とってもまあそういう「上から目線」ではなく、「この作家さんの作品をもっとたくさんの人に知って欲しい」という気持ちで送り出していた。
しかし個人出版になれば「俺が俺の作品を勝手に世に出したいから出す!」でいい。
これから大変だなあ、いろいろ…と率直に思ってしまう。

先日ある週刊誌を読んでいたら、学生の質の低下が著しく、論文の参考資料欄に漫画を平気で掲載したり、Wikipediaの記事をまんま引用してきたりする…という例が載っていた。もちろん、大学生の劣化ということはそれだけではなく社会的常識に欠けるとか、躾を受けてないのか幼児性が抜けないとか、達するべきところまで成熟しきっていないという指摘も多々あるうちの一つで、そんなことはずーっと繰り返し言われ続けて来たことだ。
「知力の低下」ということを考えると、自分も偉そうに言えた義理ではないが、それはもう明らかに自分の若い頃から比べればそうだと思うことも、確かに多い。何しろ読書量の低下は留まるところを知らない(むろん「漫画」は読書のうちに入らない)。
「本を読む」ことが「知力の向上」に直結はしない、そんな子どもみたな事を言うつもりはないが、俺の場合強制的に「活字を読まされた」世代。「読書」に何を求めるかは強制されたから娯楽へという人もいれば、強制されているうちに知的好奇心を満たす方向へ向かう人もいた。まあ要するにそれもこれも「本を読むという習慣」が早くから無理矢理でもいいから叩き込まれた結果であることは事実。いい・悪いの話ではなく、現実の話だ。

ただ、ここでいう従来の「読書」はもちろん紙の本のことだけど、これからはネットや電子書籍の「本」も読書量に入れなければ、正確なことは言えなくなる。
誰かがパソコンの画面は果てしなくスクロール出来てしまうので、「本」の見開き単位での記憶への残り方に比べると、やはり薄くなってしまうというようなことを書いていた。福岡ハカセだったかな。Amazon Kindleはそういう意味では「本を読む」感覚に近くなるよう配慮されているそうなので(ページをめくる、という感覚など)、これからはAmazon Kindleに限らず他社からのものを含めた、ああいう電子携帯端末の「画面」が「本の一頁」の記憶に代わっていくのだろうか。


今日、ちょっとどうしても読みたくなった本があって、我が家の二階を探した。
引っ越してからゆっくり、連れ合いと二人で山のような段ボール箱をちょっとずつ整理して、本棚に収めていった。8畳の寝室の壁面2つを使った本棚が満杯になったが、本の箱はまだ20箱以上残った。それらも、連れ合いの三津子が亡くなってから、彼女の「やまだ紫」としての掲載誌や原画を探したりする過程で、調べていった。
その過程で、自分が学生〜青林堂時代に集めた貴重な漫画の本がゴッソリ欠落していることが判明した。このことはもうすでに書いたけど、あるはずのもの…例えば青林堂の「現代漫画家自選シリーズ」ほぼ全巻とか「傑作シリーズ」全巻、その後の貴重な絶版となった本…が抜け落ちていて、とっくに捨てたと思っていた、小中学生の頃に集めていた星新一や小松左京、筒井康隆などの大量の文庫本がなぜか見つかった。
文庫本、それも30年も前のものなど売るにも売れずただのゴミなだけ。しかしまあそれらも懐かしいものなので、いずれまた読むかも知れないと思いつつまとめておいた。
結局今日も捜し物は見つからず、忘れていた十年ほど前の本の箱が出て来たりして、脱力。
しかしこうして山のような本を見ていると、電子書籍は「データ」なので場所をほとんど取らず、最初からIndexがついて分類されているようなものだから、検索にも便利だよなあと思う。

本は、これからはその「存在」を楽しむ「高級な嗜好品」になっていくのかも知れない。だとしたら、「いつも傍に置いておきたいもの」「目で見て手で触れたりしたいもの」としての、愛すべき「かたちある本」は無くならないと思う。
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
やまだ紫クロニクル

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