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2005-07-13(Wed)

永島慎二先生、67歳の早すぎる旅立ち

永島慎二氏死去、67歳…「フーテン」「柔道一直線」  【ZAKZAK】

 ああ、またお世話になった先生が亡くなってしまった。「6月10日午後10時15分、慢性心不全のため」だそう。
ZAKZAKの記事では
1952年「さんしょのピリちゃん」でデビュー。61年に発表した漫画界の舞台裏を描いた作品「漫画家残酷物語」で評価を確立した。その後、新宿で放浪生活を送るが、自伝的作品「フーテン」で復活、独特の作風で漫画青年の教祖的存在となった。他の代表作に「若者たち」「花いちもんめ」「柔道一直線」など。
と紹介されているが、俺にとっては84年に初めてお会いしてから「ガロ」編集部に入社して以来、公私ともにお世話になった「恩人」である。お酒も何度もご一緒させていただいた。阿佐ヶ谷ガード下の「みみずく」はもちろん、パーティの2次会やインタビューの終了後の「ちょっと一杯」、喫茶店でのお茶なども含めて、本当に何度も何度もお話を伺ったし、勉強もさせていただいた。勉強といっても、頭でっかちなものではなく、全てが永島先生の経験してこられた「人生経験」が元になっているから、面白く、かつ含蓄がありためになるものが多かった。そういう意味では「恩師」のお一人でもあった。
作品では「フーテン」ももちろんいいが、「漫画家残酷物語」が素晴らしいと思う。そして「かかしがきいたかえるのはなし」では、漫画を読んで泣いた。先生は漫画もいいが、油絵も定期的に個展(阿佐ヶ谷の洋品店の奥「cobu」が多かった)も開かれていて、それはそれは味わい深いものだった。ちなみにモチーフはピエロが多かった。優しい絵だった。


永島先生は若い頃は武勇伝(?)も多く、こわもてだったという。事実梶原一騎ともめた話や新宿でのフーテン時代の話、あるいは長井さん(青林堂社長・ガロ編集長)からも色んな話を聞いた。でも俺が知っている永島先生は周囲のみんなが慕う「ダンさん」(先生の愛称)であり、いつも穏やかな笑みを浮かべて優しく穏やかな口調で俺のような若輩者にもキチッ、と接してくれた「大人(たいじん)」であった。
タバコ(やグラス)を口にしながらの何気ない、サラリとした一言に感動したり、後からその含蓄に思わず膝を打ったり…今となっては本当に懐かしく、暖かく、そしてありがたい思い出だ。

「白取君はさあ、もうちょっと肩の力を抜いて編集と向き合った方がいいよ」
とある時言われた。俺は「ガロ」編集部に十年選手になっていて、歴代の編集者は漫画家同様にフリーとなって「巣立っていく」時期を過ぎていた頃だ。あせっていた。早くこの「青林堂大学」を「卒業」しなきゃ、いつまでも「留年生活」をしていちゃいかん、と。
「ガロ」の誌面には署名でなるべく記事を載せるようにした。それはもちろん、誰が書いたのか、誰がインタビューを行い、誰が構成したのか、を明確に残しておきたかったこともある、責任の所在をはっきりさせたかったこともある、そして自分という人間の評価を問う意味もあった。当然、力が入っていた。
そんな時、永島先生にお会いした時に、「最近は紙飛行機に凝っててさあ、公園で飛ばしてるうちに紙飛行機仲間が出来ちゃって」なんていつもの多彩な趣味のお話を伺っていた時。「ぼくもやってみたいですねえ。でもなかなか時間がなくて」みたいな話をした時だったと思う。永島先生は「時間なんて自分で作るものですよ」と笑ったあと、「力を抜け」と言われたのだ。
残念ながら、その後も俺は力を抜けなかった。そのために周りからも浮いたと思うし、嫌われたフシもあると思う。でも「ガロ」時代の後半、自主的にフレックス出勤を勝手に始めた。もう早起きをして返品の処理や出荷をしなくてもよくなってからだ。どうせ夜は遅くまで編集作業をしている。ならば昼前にゆっくり来たっていいじゃないか。ようやくちょっと肩から力が抜けた。でもその少し後、ガロはガタガタになって休刊になるという事件が起きてしまった。
その事件の後、阿佐ヶ谷の喫茶店で永島先生とお会いした。
「Tさん(総辞職事件の首班)たちの真意が解らないんです」と言うと、先生は
「Tさんたちも力が入りすぎて周りが見えなくなっちゃった感じですよね」と言われた。さらに「香田さん(長井夫人)はね、何だかわからないままTさんたちにくっついて行ったんじゃないかな」と香田さんを庇う発言もされた。そう、当時青林堂役員であった香田さんは「背任罪」に問われる可能性があったからだ。俺は「わかりました、香田さんは何も知らない、んですね」と念を押すと、永島先生は「そうですよ。」と俺の目を見て言われた。俺はもうそれで全てを察した。
失踪していたY青林堂社長の代わりに社長代行となり、私財をなげうって青林堂の建て直しとガロの復興に奔走したFさんは、その席に同席していた。Fさんはその後、「ガロがこれ以上マスコミや世間の好奇の目にさらされて傷つくことになるから」と、辞職組を「訴追」することをやめた。

永島先生、若くて未熟な自分にたくさんのことを教えてくださって、ありがとうございました。どうか安らかにお休みください。天国でまた、長井さんと楽しく一杯やってください。


かかしがきいたかえるのはなし

ふゅーじょんぷろだくと

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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
やまだ紫クロニクル

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