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2011-02-23(Wed)

雑感

2月23日(水)

仕事が暇になったので読書をしたりつらつらと考えたりネットを見たり。
先日はある漫画がネット上で大きな反響を呼んでいた。(「T京K芸大学マンガ学科一期生による大学四年間をマンガで棒に振る」(pixiv)
大学で漫画を教えるところは増えたが、その四年間で全くモノにならなかった=棒に振ったという話。それを描いた学生の実話(ノンフィクション)であるかどうかは別として、話題になったので見た。
これを描いた本人がどうこうではなく、ああ、こういう学生いるんだなあ、もう「漫画」とか「漫画家」という職業とかの捉え方が違うんだよなあ、と素直に思った。
大学まで進んで漫画を専門に学んで、世の中に出る。漫画家になるために。漫画でいかに成功するか。職業として、生活の手段として安定させるか=すなわち売れるか。漫画は自己表現などという甘い夢・理想論ではなく、完全にシノギ。そしてそういう意識で漫画を捉えることも、間違ってはいない。理想と現実は違う。
「漫画を描きたいから」「好きだから」の結果漫画家に運良くなれても、その状態を持続し、なおかつ経済的に安定させていくのは極めて難しい。
だからどこかで自分の理想なり欲求なりを犠牲にして、それをお金にかえる、という妥協が必要になる。もちろん幸運にも両立させている人もいるが、ほんの一握りの、それこそ恵まれた人たちだけだ。
描きたいものが描けてお金になる、どころか描きたくないものでも何でもやります! と言ってるのに機会が与えられない人の方が遥かに多い。バイトや違う仕事をしながら好きな漫画を描き続けている人も多い。そんな現実や、また「芸術」を教えるということも含めて色々面白かった。

「ガロ」時代、よく「おたくは芸術だから」「売れなくてもいいんでしょ」的なことを言われたが、我々は芸術を気取ったことなどただの一度も一分一秒たりともなかった。もちろんいわゆる「芸術」という広い枠組みで表現を捉えれば、漫画だって小説や映画や絵画や詩や音楽と同じじゃん、とは思ったけれども。んで、ブンガク方面の人からことさらに漫画を低く見られることにはキレたりはしたけれども。
それに「ガロ」は漫画界を底辺で支え、漫画表現の可能性というか、「幅」を拡げる役割をしてきた。
冒険とか挑戦とか何でもいいけど、要するに、産業化しシステム化して生み出されていく大手から出て行くものには出来ない(大量に売るってことは、色んな人を相手にするってことだから)、新しい表現・表現者を発掘するのが役割だったのは事実だ。結果的に「ガロ」、というか「ガロ」の作家さんたちが切り開いていった表現の幅はやがて大手にも受け入れられて(最初は少し薄められたりして)、やがて当たり前になっていったりした。
でも、そういう役割も漫画という表現が成熟してきて、業界自体も膨張が止まり、飽和状態になり、漫画を読む側の好みも多様化してしまうと、皮肉なことに「ガロ」の役割も小さくなってしまった、と思う。でも(大手ほど)売れなかったから、「ガロ」がダメな漫画誌だった、と言う人はいないだろう。

業界人さんでもよく「売れない漫画など存在しないと同じ」「売れた漫画ほど、いい漫画。売れない漫画はダメな漫画」
というようなことを、鼻孔を拡げて今さらながらに強調してくる人が居るんだけど、これまた今さらながら、ええ正しいですよ、と思う。
ただ、それは漫画という表現を商業的な、経済的な面での評価という部分でしか見られていないわけで、その「極めて狭窄な視点」に立って言えば普通に正しい物言いだ。
価値基準が「どれだけ売れたか」で、「たくさん売れたものがいい作品」というのは非常に解りやすい。そして何度も言うが、その価値観からすれば正しい以外に言いようもない。
で、そういう単純なこと以外にも、「売れない漫画など存在しないと同じ」という語句には色々な意味が含まれている。
漫画が売れるためには、もちろん「売れる要素」を色々とおさえておく必要があるし、斬新性とか個性とか話の展開とかキャラクタの魅力とか、絵そのものの魅力も含めて、作家だけではなく、もちろん担当の編集者だけでもなく、さまざまな人間が知恵を寄せ集めて、必死で「売ろう」と考え抜いて戦略を練り、それなりのコストもかけて売っていく。
そんなことオトナなら誰でも知っていることだろう。
でも、そういう物理的な「マンパワー」やお金を使えない作家や版元が世に出す作品もたくさんある。
で、それらは先の業界人の言うようにマーケット的には「存在しない」に等しい部数であるのは事実で、つまりは明らかに「売れてない」わけで、では結論として「ダメ」なのだろうか、と。
もちろん作品そのものの評価というのは、まずは個人の好き嫌いもあろうし、そもそもが感性という評価の難しいものに依拠することが多い。つまり受け手によって変わるものだ。だから、好き嫌いという感情論ではなく論理的に評価する場合はそれなりの「見識」というものがいるだろう。よくリテラシーという言葉が使われるけれども、漫画読みにもそれはあると思う。
亡くなった米澤嘉博さんのお宅にお邪魔した時に、自嘲気味に「同人誌も含めて、もの凄い数の漫画雑誌、単行本が出てるでしょう。それら全てに目を通せる人間なんて、存在しませんよ」と言って笑っておられたのを憶えている。
リテラシーって言っておきながら、じゃあ漫画を語る場合、どれだけ幅広く(年代的にもジャンル的にも)読んでいれば「漫画を評価する資格」が得られるのか、実は誰も解っていないし、結局は批評する人の「感性」に委ねられてしまうのだろうと思う。
批評する人たちはプロ・アマ含めれば、読者の数だけ居ると言ってもいいわけで、ネットでの「書評」あるいは「感想」を見ても、さまざまな「漫画の読み方」があることは衆知の通り。
ある作品がある人にとっては最高の名作であっても、別の人にはつまらぬ凡庸な作品、という評価を下される。これは漫画に限らず音楽でも映画でも小説でも何でもそうだろう。
だから、安易に「売れてる漫画がいい漫画」と決めちゃった方が、楽なのだ。「だってこれだけの人に売れてるんだよ、売れてるってことは面白いと評価されてるってことだから、いい作品なんだよ」と言われれば、グウの根も出ない。
だから、それは正しい、と思う。
でも、たくさんの人に読まれていない「名作」もまた、たくさんある、それも正しいし誰もが知っている事実でもある。

資本をかけ宣伝をし、大きな会社が物量という「力業(ちからわざ)」である程度売ってしまう、ということも出来る。けれどもそれを突き抜けて、ケタ違いの部数を長年継続して売る作品は、やはりそれなりの優れた作品でなければ、難しい。
つまり売れるべきいい作品に力を入れてもっと売る、という構図がある。
いっぽうで、売れるべきいい作品なのに力がないばかりに売れない=売れないから存在しないと同じ=ダメな作品、となってしまうものがある。
価値観が多様化して、読者の好みもどんどん狭くディープになっていく中で、ネットもあって「みんなはこう言うけど、自分はこれがこういう風にいいと思う」と読者自身が容易に発信できるようになってきた。この今のネット時代こそ、過去の埋もれた名作をどんどん復刻し、電子出版でもいいからとにかく出来るだけ「まず触れる」機会を作るべきだろう。
小学館クリエイティブさんから復刊していただいたやまだ紫の「性悪猫」などは、若い読者さんから「知らなかったけど、書店で手に取って読んでみて、いっぺんで好きになりました」という声をよくいただく。
まずは店頭に並んでいないと、まずはデータでもいいから目に触れる機会がないと、「存在しないと同じ」どころか本当に存在していないわけで、「売れる・売れない」の評価の対象にすらなり得ない。
要するに現存する大手中心の「大量に売れる・売ることの出来るもの」の中で、それらをさらに「売れる・売れない」でランク付けして評価をするだけになってしまう。ややこしい。
つまり本当にオリコンチャートがそのまま作品の良し悪しということになってしまう、ということ。
それでも、少部数でも漫画に限らず詩や短歌も、日々世に生み出されている。そんな作品に触れた読者が、自分が読んだ作品が自分にとってどうだったか、ということを発信するのはとてもいいことだと思う。
売上げという目に見えて解りやすい「評価」とは別に、数字ではなく感性で「いいものはいい」と言うことも、それが広がれば、部数が少ないばかりに視界に入らなかった同じ感性の人に届くかも知れない。
自分には合わなかったからゴミ、クソと罵倒するのも自由だけど、「何が嫌いかではなく、何が好きかで自分を語れよ」と言うわけではないが、世間では知る人が少なくても、自分にとっては珠玉の作品であったという感動を拡げる方が気持ちもいいだろう。

石原東京都知事や猪瀬直樹副知事は、お二人とも作家である。表現者だ。でありながら、漫画という手段が違うだけで同じ表現者を「卑しい」と言ったり、あるいは「いい作品かどうかは俺が決める」みたいなことを(実際は明言したわけではないにせよ)言うのは論外だけど。
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
やまだ紫クロニクル

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