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2005-03-04(Fri)

「出版不況」--細く長〜く…ではダメか? その4

 作り手側である、編集者からよく自省を込めて「書店さんにも目を通してもらって、棚に並べてもらえるような魅力ある本創りをしなければいけない」という意見もよく聞く。
 ただ、「新刊委託・パターン配本の弊害」と敢えて言うが、書店の現場ではいちいち配本されてきた新刊全てに目を通すような余裕は、物理的にない。自分が編集をしながら営業にも出かけていた頃、仲良くなった書店の担当さんと喫茶店で世間話をしたりすることもあった。業界に入る前からの友人で書店員になった奴もいた。さらに今では教え子がなぜか編集者ではなく書店に就職したりもしている。
 実際に見聞したことから言わせてもらうと、中規模くらいの書店で一日に送られてくる新刊の点数は数十点、時期や書店の規模によってはもっと多いこともあったそうだ。それらを熟読し、「これはいい本だ、いい場所へ置こう!」「これはマニア向けかな、一冊棚挿しして残りは返品かな」なんてより分けをしていたら、それだけで業務は終了。というか業務時間内に読み切ることはほぼ不可能。物凄い速さで速読する読書法があったけど、アレ書店さんにはいいかも。良くないか。どうなのか。って誰に聞いてる俺。

 …よって、書店さんではあらかじめ予定していた能動的な注文品を黙々と仕分けしてそれぞれの棚や平台に並べ、在庫は棚の下の引き出しへ収納したり、保管庫へ台車で持ってったり。聞いたことのない本、だいたい委託で入ってくる本だけど、そういうのはこれまた粛々と返品の箱へ詰め替える。ついでに店頭でダブついている商品(もちろん本)も詰める。これらの作業を手早くこなさないと、開店に間に合わないし、売り場の掃除もあるし、フェアなんかやってたらその設定もあるし、POPも書く場合もあるだろうし、電球が切れたところを替えないとならないし、売れ筋の商品の補充の電話などもある。…って最後のがメインか。
 編集のことしか知らない、いややらせてもらえない(?)大手の編集さんは、こうした営業の最先端であるところの「書店の現場」をもっと見るべきだと思う。そこには出版人の理想なんて通用せぬ、市場の論理があるだけだ。俺とて、ここでは「いい本を長く売れ」と言いたいがためにこういう現状を敢えて包み隠さず業界外に伝えている。けれど、よく言われるように作家性と商業性みたいなものの間で常に編集者はグラグラと揺れているものだ。「ガロ」にいた自分でさえ、そうだった。そういうことまで考えて本を作っている人がほとんどだと思うし思いたいわけだけど、有無を言わせぬ市場原理主義の現場を知る・知らないでは、大きく考え方も違ってくるのじゃないか。
 だいたい取次さんにもよるが、「返品率」というのは書籍4割雑誌3割だ。つまり平均とはいえ、作った本のうちこれだけが売れずに版元へ戻されるということになる。そこから先は廃棄されるか改装されてまた市場へ行くか、それまで保管されるか。それらが版元の事情、市場の動静と複雑に絡み合って、本の末路は決まるのだ。

 自分は出版社に入って間もない頃、当時の青林堂社長であり、俺の師でもあった故・長井勝一翁に「本の墓場」に連れていかれた。といってもある日突然、「明日の朝断裁立会いに行くから、志村三丁目の駅に来てくれよ」と言われただけであるが。長井さんという人はだいたいが唐突な人ではあったが(俺が「ガロ」でアルバイトをすることになった時も、「明日から来てくれよ」だった)、「断裁の立会い」の詳しい説明は無かった。「明日来ればわかるよ」とだけ言われた。
 当時の俺は都営三田線の西台というところにある高層団地に、連れ合いであるやまだ紫と、小学生の子ども二人と同居していた。志村三丁目はその西台から上りで二つ目のところにある駅である。従って朝は久しぶりにゆっくり出られるので、嬉しかったのを憶えている。

 9時半より少し前に改札を出ると、駅の高架下にある改札を出たところに小柄な長井さんがポツンと立っていた。俺が階段を下りて行くと「おう、ご苦労さん」と声をかけられて、俺が「おはようございます」と応えるとすぐに、長井さんは歩き始めた。「ダンサイの立会いとは何か」を聞くまでもなく、長井さんは歩きながら説明をしてくれた。
 これから我々が向うのは、取次である東販(当時。現トーハン)さんの雑誌の返品が集積されるところであること。「断裁」とは返品を廃棄処分にする行為のこと。自分たちはその返品の数を確認し、断裁処理される場に立会って確認をすること。その立会いは毎月一度行われることなので、今後は近いところに住む俺にやって貰う、ということ。
 長井さんは独特のしゃがれ声と江戸弁で(といっても出身は実は塩竈市であるが)、駅から10分足らずのところにある東販の板橋雑誌集積所までの道すがら、これらの説明をしてくれた。
 この雑誌の「断裁」であるが、この場はあくまでも断裁処理をするところであって、雑誌をその場で廃棄するところではない。トーハンが扱う版元の雑誌の返品は、全国の書店から回収されて(管轄の支店から集積された分)いったんここへ集められる。体育館ほどの大きさの倉庫のような天井の高いスペースに、ところ狭しと雑誌の結束が積み上げられたパレットがあちこちにおかれている。結束は「ジャンプ」のような厚い雑誌は15とか20冊、「ガロ」のような薄めなら20〜25冊。たまにイレギュラーもあったが、まあそんな束のことを結束=けっそくと呼ぶ。
 戻ってきた雑誌の版元の人間は、決められた日(取次から「何日、立会いお願いします」と電話がかかってくる)に赴き、伝票と返品数を確認し、その後の処理は版元の判断に任せられる。だから契約したトラックに全ての返品を積み込んで会社や自社の倉庫に運んでもいいのだが、もちろん雑誌のバックナンバーをそんなに大量に保管しても、コストに見合う需要はないことが多い。だから、多くはその場で「断裁」処理をして、契約している古紙回収業者のトラックに載せるまで立ち会って終わり…ということになるわけだ。
 さてその「断裁」処理であるが、これは文字通り「雑誌の一部を切り取って流通できなくすること」だ。
 ここではまず大量の返品雑誌=「ガロ」だったら大体20部程度の結束がパレットの上に積んである場所へ行く。しかし雑誌の束は前に本シリーズで説明したような特殊な積み方をしてあるし、両側に別な会社の雑誌の山があったりするので、数えやすいようにトーハンの職員にフォークリフトで通路まで運んでもらう。余談だがこのフォークリフトは電動の小型のもので、実に素早い動きをするし、彼らのハンドルさばきは見事なものだった。電動ゆえに「フィーン」とか軽い音しかしないから、狭い通路をけっこうなスピードで何台ものフォークがあちこちを移動していたのでよく「ピッピッ」とかクラクションを鳴らされたりしたものだ。
 さてそうしてフォークで雑誌の山が載ったパレットを、全体が見えるような位置に移動してもらったら、あらかじめ手渡された返品伝票を手に、時には何段も積んである結束を下ろしたりしながら、数をあたっていく。何月号が何冊、何月号が何冊…、と素早くあたらないと、職員がイライラしてくるのが目に見える。だからといっていい加減にやると「こいつはいい加減だな」とバレてナメられる、というプレッシャーもある。その中で数を合わせ確認し終え、こちらの「じゃ、お願いします」で、運送屋の職員が結束をベルトコンベアにどんどん放り込んでいくことになる。
 このベルトコンベアは通常のものと違って、V字型になっている。したがってそこへ結束を乗せると、その結束はどこかの角が必ず下=V字の底にあたるように運ばれるわけだ。そしてその先には円盤型のノコギリが高速回転しており、結束が到達すると「チュイーン!」という音と共に、雑誌の角がイッキに削られていく。角が見事に削られた結束は、別の職員によってトラックの荷台に放られる。
 荷台にいる職員は結束を受け取ると、隙間なくギッシリと荷台に詰め込んでいく。もう本当に見事としか言いようのないくらい、トラックの荷台はギッチギチに雑誌の束で埋められていくのだが、当然足でガンガンと踏んで慣らしたりもするから、もはやそれは「本」ではないのだな、という光景である。そしてそれら荷台にギッシリと詰まれた雑誌いや元雑誌の束は、古紙に再利用される旅に出る…という流れだ。
 つまりここは雑誌の墓場、であるわけなのだ。

 ところでなぜいちいち雑誌結束の角を削り取らないとならないかというと、信用していないわけではないが、引き取った業者がゾッキ本に流したり、古書店へ勝手に売り払ったりできないためである。版元側は運送料と処理代を払って引き取ってもらっているわけで、さらにそれらを安くとはいえ転売されたのでは踏んだり蹴ったりだ。なので、二度と商品として流通できぬよう、本の角を切り取るわけだ。
 よく街にあるゾッキ本店(昔は神保町界隈にもたくさんあった)や古書店なんかへ行くと、エロ本に多いがよく本の底や上部に赤いマジックの線がついたものが、安く売られていることがあるのをご存知だろうか。(って知ってる人はス・ケ・ベ♥)あれは別に違法なものではなく、版元側が「廃棄処分にした」という「しるし」を、「ガロ」のように切り取る断裁処理ではなく、赤いマジックによって、言ってみれば「簡易断裁」をしたものだ。つまりいったん返品や売れ残りを確信犯的に簡単な断裁処理を行って、ゾッキや古書店に安く卸したものである。ま、捨てるより多少なりとも利益になれば、ということだ。
 この赤マジック簡易断裁、我々もよくやった。といっても、ゾッキに出すのではなく、赤いスプレーを買ってきて、会社の下の路上に返品を並べてガーッと一気に線を引いてしまうのだ。つまりややこしいが返品はトーハンのように集積場へ集められるものばかりではない、からである。会社に来た返品は、V字ベルトコンベア&丸型高速回転ノコギリなんかないから、自分らで断裁処理をするよりないわけだから。

 話が逸れたがふつう、こうした立会いには、新人や使いぱしりが行かされるのかも知れない。でも俺は長井さんに初めて連れられてこの作業を覚えてから、以後ほぼ退職するまでずっと立会いに行っていた。確か毎月の立会いは、あの『室内』と同じ日だった。何回目かになるとこちらにも余裕が出てきて、周囲を見渡すようになる。すると、どの雑誌が毎月どれくらい返ってきているかが大体解る。もちろん週刊誌などは月一回じゃないし、発行部数の多い雑誌も複数回の場合があるそうだけど、自分たちと同じような規模の雑誌のパレットを見つけては「今月は多いな」とか、何気なく観察するのもけっこう面白かった。ルーティンワークもボーッとしているか、意識的にこなすかだと思う。
 バックナンバーの需要が比較的多い雑誌だったとはいえ、せいぜい結束の綺麗なのを一、二本取って「これは会社の方へお願いします」と分けたもの以外、毎号数百部という単位で雑誌が「死んでいく」のを見るは憂鬱だった。もともと「ガロ」は搬入部数もさほど多くなかったのでその数で済んではいたけれど。
 しかし、この立会いは編集者にとっては精神的にあまり気持ちのいいものではなかったのは事実。自分らが毎号四苦八苦して作り、天塩にかけて送り出した雑誌が、毎号返品されてくる。それを目の前で、他ならぬ編集者である自分が最後を見届ける。再利用で資源がどうとか感傷的になるとかいうより、何か殺伐とした気分にさせられた。

 もうこの場所も変わったようで、版元にいない自分は今どうなっているかは知らない。けれど、編集者はこの現場を一度は見ておくべきだと思う。
(この項つづく)
2005-03-04(Fri)

たけくまメモ「共犯者」としての編集者

「共犯者」としての編集者
「編集者」という職業をうまい表現で的確に表してますね。コメントもさせてもらいました。元「QJ」の赤田祐一さんとは神保町時代に何度かお会いしたことがありますが、我々同士の会話というのはごく普通のヘンシューさん同士の会話だったと思います。
 ギョーカイ的には「ガロ」の編集者っていうとクセがあって偏屈そうでゲージュツ気取りの鼻持ちならないヤツ、と思われていたフシもありますが、同じようなサブカル世界にいた編集同士はむしろシンパシーを感じ合っていた、と俺は思ってます。
 今記述中の「出版不況」は自分のごくごく個人的な感想と分析(?)で、ジャナ専で教えている「流通現場論」での資料なども参考にしつつ、業界外の人にもこの出版業界というある意味特殊な世界をちょっとでも理解してもらえるように書いているつもりですが、資料がどうこうより、具体的な会話や同業者との逸話などの方がやっぱり臨場感があって面白い。参考になります(笑)。
2005-03-03(Thu)

「出版不況」--細く長〜く…ではダメか? その3

 コンビニエンスストア=CVSの本を卸しているのも、実は取次と言われる会社だ。この取次(出版取次業)さん、版元から読者へのルート(販路)のうち、85%程度を担っている。言い方を変えれば、版元にとっては自社本の販路の85%は取次経由--書店/取次経由--CVSだから、とてつもなく大きな存在ということになる。
 この取次は大手から零細まで合わせても、たった40数社しか存在しない。そのうち、「大手」といったら2社しかない。日本出版販売株式会社・通称日販、株式会社トーハン(旧・東京出版販売株式会社)、この二つだ。昔から業界では「ニットーハン」とか「トーニッパン」とか、この二つを併せ呼ぶことイコール「取次さん」ということになったほどである。
 日本の出版流通には独特の二つのシステムがある。一つは再販価格制度、もう一つはこの取次へ版元が本を卸す際の特殊な委託制度だ。再販価格制度については、簡単に言うと、製造者である版元が、取次+書店に商品=出版物を卸す=販売する、そして取次+書店が消費者つまり読者に出版物を販売する=再度販売=再販する際の価格を、「定価で拘束できる」ということ。
 そもそも日本は自由主義経済国家なので、物の価格は売り手と買い手との間の交渉で決まる。当たり前だ。そうは言ってもまあ全ての商品を買う際にいちいち交渉するわけにもいかないので、製造者は「これくらいで売りたい」「これくらいで買って欲しい」というメーカー希望小売価格とか標準価格とかを一応提示しておいて、あとは小売店の判断で市場価格が決まる。消費者に人気がある商品はそれなりの価格に、人気が無くなれば小売店の判断で叩き売りされる。それをメーカーがブランドイメージが下がるからといって「勝手に安売りすんな!」と圧力をかけたりすると、独禁法違反となって、公取委から警告を受ける。毎年のようにこれをやられてるのが、あの『某大手化粧品会社』ですな。
 この自由価格・自由競争ではなく、『定価販売』が認められている、つまり再販価格の適用が認められている数少ない業種が出版というわけだ。だから、版元は出版物に「定価」表示をすることができる。もっとも現在の再販制度は、1980年に公取委の指導により実施された「新再販」のことを言う。この話は長くなるのでアレだけど、公取委は「出版も他の業種のように企業努力をして自由競争すべき」、つまり適用除外を常に言ってきており、出版業界側は「本は文化。他の消費物のようにどっぷりと商業主義・資本主義の論理で競争をさせてはその文化が廃れる」と主張して対立してきた。(ちなみに数年前、公取委は「だったら国民に聞いてみようじゃん!」とアンケートを大々的に行ったが、98%だったかの再販制存続支持という結果に惨敗、決着がついてしまった)
 ちなみに出版物のほかには新聞、CDといったメディア関連商品や医薬品・安価な化粧品の一部に、独禁法で禁じられている再販制の適用が「例外として」認められている。CDは新譜を買うと、帯の裏、隅っこに小さく「(再)00年0月00日まで」なんて書いてあると思うが、これは時限再販といって、そこに提示された日までは定価で販売価格を拘束できるという意味。メディア関連商品、表現や著作権が絡むものというのは一定期間保護しようという意味あいがある。
 さて問題はもう一つの「特殊な委託制度」だ。
 版元から本を取次に卸す。こう書くと単純に取次は卸業者、物流業者的な意味で業界外の人は認識していると思うけれども、出版取次会社はそんな単純な企業ではない。版元にとって取次は販売代行業者であり、書店にとっては仕入代行業者という意味もある。商品=本だけではなくお金の流れも全て代行してくれるし、いつどこで何がどのようにどれくらい売れ、どれくらい返品されたか、というデータも細かく保有している。裏を返せば、版元にとってはそれらの「データを握られている」ことにもなる。さらに書店にとっても新規開業の際の研修や教育もしてくれるし、フェアなどのイベントの提案や実施などの企画、新商品の開発その他さまざまな相談相手でもある。
 もし取次が存在しなければ、版元は全国津々浦々の書店に商品を個別に配送し、それらの売上や返品を回収したり、大変な手間を背負い込むことになる。そして取次への「委託」というシステムが利用できなくなれば、書店からの能動的な「注文」でしか本を発送できないから、勢い売上部数も落ちるだろう。何より全国同時発売さえ難しくなる。最近ではネットでの販売や、年間予約を取って自宅へ直接宅配するような雑誌もいくつか出てきてはいるものの、やはり日本人にとって本は書店(もしくはCVS)で手にとってチラチラと読んでから買いたいものの一つだ。
 全国の書店に発売日に一斉に新刊が陳列されるのは不思議、とたまに業界外の人から聞くことがある。これが「委託」特に新刊委託のシステムによるものだ。出版物の販売ルートは直販や大学生協、キヨスク扱いなどさまざまであるが、中でも取次ルートが最大であると述べた。この、出版物が販売される際に版元と取次、取次と小売書店との間に交わされる販売契約は、大きく分けて
 「委託扱い」  「受注(注文)扱い」 そして前に述べた再販制による「定価販売」
の三つの約束事がある。
 この「委託扱い」が非常に特殊なのが出版業界なのだ。
 委託扱いには常備や長期といった一般の人には理解しにくいものもあるが、まあほぼ委託といったら「新刊委託」だと思ってもらっていい。版元と取次の関係というものは外部には非常に不透明で、取引条件(マージン比率)などは企業秘密に近いから、外部の人はなかなか業界内でも個別の版元のことを知ることは難しい。また委託(出版社が取次を通して小売書店に新刊-と重版の一部-の販売を委託すること)期間については
●書籍の場合=通常取次と小売書店の間は105日、取次と版元との間では6ヶ月となっている。
 この期間であれば、書店は取次へ、取次は版元へいつでも返品ができるわけである。
●雑誌の場合=取次ぎと書店の間は月刊誌が60日、週刊誌が45日、取次と版元の間では月刊誌が90日、週刊誌は三号目の発行時に精算される。
という目安はあるが、これらも取次と版元との力関係などで微妙に変わることも多い。
 よく言われる書店から取次経由で版元に返される「返本」は、原則としてこの委託扱いで送本された商品が返ってくることを指す。
 ちなみに、版元が取次に商品である出版物を卸す際の扱いはこの委託のほかに「注文扱い」「買切扱い」などもあり、それらは原則として返品はできない(抜け道はある)。
 さて新刊委託の際、版元は事前に取次の仕入れ部(雑誌仕入れ/書籍仕入れ/コミック仕入れなど)と協議をして、委託で搬入する部数を決める。これを我々は「部決」と呼んでいる。(部決にはもう一つ意味があって、版元内で本の刷り部数を決定することもこう呼ぶからややこしい)部決で各取次に新刊をどれくらい委託で搬入するかを決めたら、「搬入日」に新刊を取次へ納品する。部数や季節(お盆や年末年始、GWなど)で微妙に変わるが、この搬入は通常発売日の以前、だいたい平日中二〜三日置いて行うのが普通。
 つまり、新刊が出来上がったら取次に決められた部数を搬入日に納品する。それを取次は発売日までに、全国の支店・営業所を通じて契約傘下の書店へ行き渡らせる。今は運輸事情も良くなったので、かなりの僻地でもこれで発売日に同時に新刊が並ぶ、というわけだ。
 この際、「全国の書店へ行き渡らせる」際だが、取次はこれまでの売上データを元に、「この書店ではこれくらい」「ここはこれくらい」というふうに部数を割り振って、全国にバラ撒くわけだが、この配本方式を「パターン配本」と呼ぶのだ。このパターン、もちろんA社という版元があればA社以外には極秘である。もっと言えば、このパターンは取次さんは精度が高い、自信があると公式コメントはするが、かなり怪しいのも事実。
 例えば、Xという作家の新刊「@@@」が版元A社から出ることになった。
 版元Aは新刊見本を持ち(あるいは企画書段階の場合もある)、取次に部決に向う。
 取次はそこでPC端末をはじき、過去の作家Xの売上データや、場合によっては類書データなども参考にして、部決をする。(版元側はなるべくたくさん取ってもらってとにかく店頭に並べてもらいたいが、取次としては返品率を増やしたくはないので、委託部数は抑える傾向にある。)
 部決した新刊「@@@」を全国の契約書店へ配本する際、取次は書店の規模、立地、過去の類書の実績などから作成したパターンによって、どの書店へは何冊、どの書店へは何冊、という配本部数を決めていく。
 こういう流れだ。このパターンが正確であれば、あるいは精度が高いのであれば、返品は極力抑えられるはず。だがこれは建前であり、現実に返品率は書籍・雑誌共に近年増加傾向にあり、歯止めがかからない。現在では書籍が平均40%前後、雑誌は30%が返品されてくるという状況なのだ。
 このパターン配本の例で、何かが抜け落ちているのにお気づきだろうか? そう、「書店の意志」だ。書店は普通、新刊「@@@」が出るということは取次からの情報誌や版元からの新刊案内などで知る。そして自分のところに置きたい部数を事前に取次あるいは版元に直接注文を入れる。この前注文はもちろん新刊委託ではないから、扱いは「注文扱い」となり、返品は原則として不可能。売れ残れば自分の判断ミスとなり、版元にいちいち了解を取って返品の許可を得ねば返品できないこととなる。つまり自業自得であるが、問題は発売日に入ってくる本には、この書店が能動的に発注した「注文扱い」分と、取次がパターン配本で送ってくる「委託扱い」の2種類があるということだ。
 本は「委託用」「注文用」で色分けされていたり、帯が違ったりするわけではない。それに委託は取次がパターンで決めているもので、書店側はいったい「@@@」が何部入ってくるのかは解らない。発売日にフタを開けてみないと、現実には送本されてきた段ボール箱を開封して「@@@」の数を数えて初めて(伝票も見るけど)、自分の店に何部納品されてきたかが解るのだ。この委託と注文の配分というか兼ね合いを書店員は予想して、昔はよく思惑通りに部数を一致させるのが快感だったという話を、知り合いの書店経営者から聞いたことがある。「やった、ウチの店では45部は売り切る自信があった、事前注文30、委託で15、バッチリだぜ!」とか。
 長々と説明をしたけど、「特殊な委託」はこのことだけではない。通常他の業種で委託販売といえば、製造者が小売店なりに交渉して商品をいくつか置いてもらい、〆日を決めて、売れた分の代金を受け取り、委託を継続する場合には商品を補充したり…という形態だろう。だが出版の場合は、委託で本を搬入した段階で、売上が帳簿上は計上されてしまう。まだ売れていないのに、だ。もちろん、そのために委託(返品可能)期間があり、それらが相殺されていくわけだけど。
 この「売上」という数字が欲しいので、版元はとにかく新刊を作って委託で搬入し続ける必要がある。これがよく言われる版元の自転車操業だ。自転車は漕ぐのをやめると倒れる。つまり新刊を搬入しないでいると、返品として返ってくる分を売上から引かれていく一方だ。というか支払いの義務が生じてしまう。だから新刊を作らねばならない。少々乱暴な本でもとにかく作って委託でブチ込む。そうすりゃとりあえず相殺するための売上という数字が立つ。
 こうした姿勢が、先に述べた「粗製濫造」の一因になっているという指摘は昔からよくある通り。
(この項続く)
2005-03-02(Wed)

「出版不況」--細く長〜く…ではダメか? その2

 寡占化の激しい出版業界では総売上高から案出する一社平均の売上額、発行点数などは意味をなさない。同様に資本金額や従業員数などの規模をならして平均しても意味がない。出版社の大手と非大手では何もかも、あまりに差がありすぎるからだ。つまり、出版業界、そのうち特に版元はごく一部の大手と、残り数千の零細の全く二つに分類されるということになる。これをごく一部の大手出版社による寡占状態、と言う。
 ではどれくらいの寡占状況かというと、数年前のデータで出版社全体の売上高は2兆4千億円ほどだが、

・法人所得上位10社で売り上げの市場占有率(シェア)が約40%
     上位20社で                約50%
     上位50社で                約70%      なのである!

 ということは、単純計算で業界全体約4500社全ての売り上げ高約2兆4千億円のうち、実に1兆6800億円を上位50社でたたき出していることになる。残った7200億円を4350社で分け合っているということは、1社当たり実にたった1億6600万円。当然上位100社まではもっと多いだろうから、それ以下の会社の売り上げは想像に難くない。つまりは、そういうことだ。
 こうした数字にはほとんどの人がピンと来ないかも知れないが、同年の日産自動車一社の売上高が約3兆円、トヨタになると約8兆円。パチンコ業界は数年前に10兆円市場と言われていたのが、現在では30兆円を越え、一説によると40兆とも50兆とも言われている。広告業界は6兆円だ(ちなみにその45%を5つの大手広告代理店が占有)。

 さらに新刊出版点数は1982年に年間30000点を突破。その後15年で倍以上(62000点)へと増加した。一年間に今では7万点を越える新刊が出版されているのですぜ旦那!? しかし一点あたりの平均発行部数は年々減少しており、2001年にはついに一点あたり2万部を割り込んだ。これはどういうことだろうか? つまり、前の項でお伝えしたような、タイトル数が増えてはいるものの、小部数で寿命の短い、いわば「Hit&Away」つまり「出して、その時売ったら終わり」というものが増えていることも事実だ。簡単に言えば粗製濫造というわけですな。

 こうした粗製濫造の例としてはいくつかパターンがある。
●企画力の低下=安易な「パクリ」本(売れた企画があれば恥も外聞もなく追従する)
●内容、質の低下=タレント本(安易にネームバリューだけで選び内容を問わない)
●出版理念の低下=一時のブーム本(長く良書を売ろうという気概がない)
 などなどが考えられるだろう。
 むろん、点数あたりの刷り部数の減少は、このような粗製濫造だけが原因ではない。例えばよく言われるように、若者の好みが「タコツボ化」「ディープ化」したと言われるようになった80年代以降は特に、一部のサブカルチャーやオタク本関連などは最初からその筋のオタク・マニアを選んでディープな本を出すから、当然数百万部のベストセラーを最初から狙っているわけではない。少ないコアなマニアにきっちり行き渡らせればそれでいいわけだ。とにかく、こうした傾向はしっかりと頭に入れておくことが必要だと思う。

 いっぽう販売チャンネルである書店はというと、96年にはじめて廃業店舗数が新規出店数を上回り、以後その傾向が続いている。日本から書店が減り続けているのだ。けれど、そのことは単純に消費者=読者の「書店離れ」と言いきれない側面もある。
 1991年の新規出店数536に対し新規書店の坪数は平均57.1。けれど96年には平均坪数が87.8坪と増加している。つまり、街に古くからあった零細の個人営業の小さな書店が廃業し、大型・特にメガ書店と言われる1000坪越クラスの大型書店の出店が目立ちはじめたのが、やはり96年だからだ。
 もちろん従来の個人経営の小書店が廃業していく背景には後継者不足などの理由もあろうが、やはりコンビニエンスストアの伸長も見逃せない。というより、それがもっとも大きな原因だろうと思う。
 かつて、本や雑誌(いわゆる出版物)は出版社によって作られ、取次を中心とする流通ルートを通して書店に送られ、購入される(出版社→取次→書店→読者)のメインルートが一般的で、1945年代には出版物の90〜95%を受け持っていた。つまり「本は書店で買うもの」であり、それが当たり前であった。しかし、このメインルートのシェアが1960年代から低下し始め、現在では70%前後である。流通ルートが変化し、現在では本は書店以外でも買えることが当たり前となっている。

 そうした書店以外の販売チャンネルで、近年伸張著しいのがコンビニエンス・ストア(以下CVS)というわけだ。流通ルート別の構成比推移(%)(1995年→2000年)を見てみると、書店が68.2%から65.4%に減少したのに比べ、CVSは15.9%から19.5%に増加している。その他のチャンネル…例えば大学生協や鉄道弘済会=キヨスクその他のルートはほぼ横ばいなので、書店の減少分をCVSが奪っているという構図が見える。
 けれど大型書店ではなく、ダメージを直撃されているのは零細書店だ。なぜなら、CVSで売られる「出版物」はほとんどが雑誌(扱い)だ。CVSの主力商品は何かというと、おにぎりや弁当、そして雑誌である。CVSの出版物の取り扱い比は週刊誌・雑誌が96%、文庫・新書などが4%で断然雑誌中心だ。皆さんも週刊誌やマンガなら、CVSで立ち読みするか、弁当のついでに買うかするだろう。わざわざ書店へ赴いて週刊誌を買い(立ち読みに対しても書店の方が厳しいし)弁当や茶は別に買う、という人はあまりおるまい。
 このCVSの影響を最も受けているのが小書店なのである。実は20坪以下の中小の個人経営の書店の主力商品は、やはりこうした雑誌やコミック(ほとんどが雑誌扱い)である。売上構成比で50-70%を占めている。つまり、同様の商品を主力にするCVSが増え続けていることによる打撃は甚大なものがある。CVSが近くにできると大きな打撃を受け、廃業に追い込まれる書店もある。
 このように今日の書店業界は、大変厳しい。書店の大型化やCVSの影響で中小書店や町の本屋さんは廃業に追い込まれる。

 そしてCVS全体での雑誌の売上額は数年前に5000億円を超えた。出版業界全体での「雑誌扱い」の売上額が概算で1兆6000億円とすると、CVSは全雑誌の約30%を販売していることになる。いいですかお客さん。日本では全雑誌の流通量の3分の1をCVSが販売しているのですよ!
 ちなみに1996年にはCVS最大手であるセブンイレブンが、出版物の売上1300億円を突破し、書店のトップ紀伊国屋書店チェーンの1104億円を約200億円も上回ったことは大きな話題となった。ほとんどが雑誌の売上である7-11に対して紀伊国屋の方はもちろん、書籍も合わせた合計だ。しかしこのことで、日本一の書店は何とセブンイレブンだ、ということになったのである。
(この項つづく)
2005-03-02(Wed)

「出版不況」--細く長〜く…ではダメか?

 今日は新宿へ出て旧知の友人と某社の編集さんと飲む予定だったのだが、先方が急に出られなくなって延期になってしまった。今学校は春休みだし、幸いガチガチのスケジュールも明けつつあるので問題なし。
 何の話で飲むのか、というのは企業秘密なので置いといて、やっぱり最近の漫画業界、に限らず出版不況に絡む話もせねばならなかったろう。
 つい先日もある作家と話をしていて、近年の「昔の漫画の復刻ブーム」の話題になった。お互い、いい作品は古びないわけで、それが証拠に復刻された漫画は今の読者に新鮮に受け入れられているものも多い。もちろん的を外れた…というようなものもあるにはあるものの、復刻するくらいなら小部数でもいいから出し続けておいてくれりゃあいいじゃん、という話。
 ただ、一応版元側にいた人間としては、そういう理想論的なことだけを主張するわけにはいかないということもある。ビンボで零細の会社だったとはいえ、だからこそ、「紙の注文から営業まで」出版社で行う業務は経理の一部も含めて全て、実際にこの手で行ってきて見えたこともたくさんある。やらなかったのは財務など「経営」に関する部分くらいだろうな、本当に。

 版元側が出した本を全て継続して「現行商品」として保有し続けられない理由は、もちろん複雑でたくさんの理由があるけども、その一つに、「物理的な保管スペースの問題とそれに伴うコスト」の問題があるのは事実。本はかさばる。当時俺がいた青林堂の主力単行本は、A5版で11折〜12折くらい(176〜192頁程度)の本が多く、カバー(PP)がけしてある本は、20冊が一梱包になっていた。その梱包を5つ、調子のいい時には6つ・つまり120冊くらいをヨイショで床から重ねて持ち上げ、狭い階段を昇り降りしたものだ。よく腰をやらなかったな、と今では思う。(おかげで一年足らずでもともと逞しかった肉体は筋肉隆々になった、誰も俺を編集者だとは思わなかっただろう)
 それらの本は、重さもさることながら、積み重ねると数千冊の新刊はかなりのスペースを占有する。本は単純に同じ方向に梱包を積み重ねていくと、どこか一方からの力で簡単に崩れるから、我々はいつも部数に応じて積み方を変えて倉庫に収めた。

 例えば保管しておく本が1000冊くらいなら、20冊梱包を「5積み」といって、図のように積み重ねていく。一段で100冊になるから、10段重ねれば終わり。2000冊なら7積みにしたりする。床…というかパレットというすのこ板を敷いた部分にスペースが足りない場合は、2000冊でも5積みにして20段重ねることもある。けっこうな高さになるが、こうした積み方でキッチリ積めばビクともしない。(他にも3積みや16積み、24積みなどたくさんのバリエーションがある…図参照)

 そうして我々編集部員…というか社員は、毎日朝から晩まで新刊や返品(返品は同じタイトルが一結束になっているわけではなく、バラバラの本がヒモで15〜20冊くらいの結束になっていることも多い)を外に出したり社内に運び込んだり、狭い階段や廊下に積んでおいたり、そして一週間に一度くらいは倉庫へ行ってトラック一台分の「商品」を会社への補充のために積み出したり、その度に倉庫の本を積みなおしたり…、と本当に力仕事の合間に編集をやるようなものだった。
 まあ、そんな編集は大会社には一人たりともおるまい。出版社は四千数百あれど、その売上のほとんどは上位百社がガバリと取って、残りカスをその他の零細版元が奪い合う状況だ。小さな版元は営業(対取次、対書店、対読者全て)も出荷や返本処理や在庫管理も、全て編集が兼業しなければならない。よって本というかさばる、重たい「商品」を常にまとまって扱わざるを得ないのである。

 話が逸れた。ともかく、本は初版を刷ったらそれが取次への新刊委託&書店からの事前注文でハケてくれれば、あとは返本が返ってきたら改装(カバーをかけ替えたり、ヤスリで汚れを落としたり)して出荷するか、在庫分を残して思い切って断裁(廃棄)するかは版元の裁量次第だ。いっときのブームや先発企画に乗ったり、旬のタレントや時の人の本をその最大瞬間風速時に売り切れば良いとする「Hit&Away」本は、ほとんど在庫として持つことをせず、廃棄されることも多い。そんなものを保管しておいて長く売るよりも、次の話題に飛びついた方がいいからだ。
 でも、これは貧乏で小さな版元にいて実感したことなので断言するけれど、版元にとっての財産は、そうした最大瞬間風速以外は全く売れないものよりも、時代やブームに無関係に長く売れる「良書」だ。俺がいた当時の「ガロ」を出していた青林堂は、初版がせいぜい5000部程度、それを半年から一年かけて売り切る。そうしたら2000〜2500部程度の再版をし、それをずっと何年もきっちりと継続して廻していく。こうした本が数十アイテム揃うと、それらの「計算できる売上」はその会社を安定させてくれるのだ。
 また実際にネクタイ締めて背広を着て、皆で沿線を割り振って書店営業にも行った立場として、これも断言するが、そういう「長く売れるいい本」を出す版元は、書店からも一定の評価を得るので、書店での棚もきっちりと確保できる。というか、書店員にファンが多くて、会社の規模よりも遥かに優遇していただいた経験がある。

 つまり、いい本を長く売る。細く長くでもいい、そうした良書をたくさん出す。そう方向転換しただけで、大儲けこそ出来ないものの、堅実で息の長い出版が可能だった。
 今はこのBLOGでも書いたように、「マス」のメディアで取り上げられればガーッと売れる、それ以外は小粒になる傾向にある(一点あたりの初版発行部数はピーク時から半減している)から、「細く長く」の「細く」は本当に極細になってしまった。
(この項続く)
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
やまだ紫クロニクル

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