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2009-08-12(Wed)

百か日

8月12日(水)

夜は良く寝られた。
今朝は7時頃から目が醒めていたが、起きたのは8時過ぎ。
スカッと晴れたいい天気で、比叡山の山頂まで良く見えた。合掌。
下に降りると猫のゲロ跡が2カ所。トイレ・洗顔の後まずそれらの掃除。

その後は洗い物を軽くゆすいで食洗機にかけ、花の水を替えて活け直したりして、三津子に氷入りウーロン茶と冷たい水をおちょこに入れて、線香3本でお祈りをする。三津子に毎朝毎朝手を合わせ、写真を見ながら語りかける。涙が少し出る日もある。


もう、今日で百か日なのだ。

花を一通りしおれたのをとって活け換えて、今日は百か日だからあとで花を買って来よう…と思っていると、ドアフォンが鳴る。出ると
「お花の配達です」とのこと。
三津子、いや「やまだ紫」のアシスタントをしていただいたこともある、Nさんご夫妻からだった。
三津子に見せて「君は花が絶えないね、人徳たね…」と話しかける。「初盆に心ばかりですが」とカードが添えられてあった。ありがとうございます。

それから少しすると、今度は郵便局がポストに入らないからと、冊子小包を持って来てくれた。
先日ネットの古書店で青林堂版「しんきらり」の正と続があったので、注文しておいたもの。いわゆる「正」の方は綺麗ではないが、一応十数冊保存してある。けれど、「続」の方が実はたった一冊しかない。なので、2冊揃いで2000円+送料という価格は良心的だとも思い、発注したのだ。
さすがに二冊とも天地、小口(本文が露出している三カ所)は日焼けしているが、「続」の方はカバーがとても良い状態だった。うちで保存してあるものよりも遥かに綺麗だったので、そのままビニールに入れたままにしておく。
「正」は背の上部にテープの貼り跡のような茶色い汚れがあったが、カバーの汚れは基本的にPPがあればアルコール綿などで丁寧に拭き取ったりして、かなり改善されることを知っている。「続」の綺麗な状態のものが揃って、良かった。

それから11時過ぎに自転車で買い物に出かけた。
川端の大きなSCの方へ…と思ったが、この時点で陽射しがけっこう出て来たので、結局いつもの近いスーパーに裏から入る。
まず4階で洗剤の詰め替えなどを買って、食品売り場で今日明日のものを買う。
最後にピンクと黄色の「すかしユリ」を一本ずつ買って自転車にまたがるが、前籠に食品と花、ハンドルに洗剤類で、駐輪場に着く頃には汗だく。ほんの数分だというのに、いやはや京都は今日も暑い。
ポストから新聞を取り、部屋に戻って冷蔵庫に買って来たものを入れて、ユリを花瓶に活けた。本当はひまわりを買ってきてあげたかったのだけど、売っていなかった。
それから昼を食べて、すぐに仕事をする。

迎え火の灯籠
昼過ぎ、こないだネットからお盆用に注文してあった灯籠が届いたので、さっそく梱包をほどいてつけてみた。
ちょうちん型のはよくあるが、三角形で中に電球が入っているタイプにした。ほんのりと明るく優しい光。明日の迎え火までに間に合うか気をもんだが、ちゃんと発送してもらえて良かった。
それに今日は百か日だから、夜はこれを灯そう。

その後1時半ころだったか、隣のUさんが来週引越しされるというので、ご挨拶に来られた。三津子に花と、俺には缶ビールをいただいてしまった。玄関先で「寂しくなりますねえ」と少し立ち話。そのうちユキちゃんが出て来てお愛想をしたり、15分ほどお話をさせていただいた。
この部屋に入ると決めた一昨年の夏、決めてになったのは「2階」つまりメゾネットに上がって北側のベランダから見えた景色だった。真正面に送り火の一つ「法」の字が見えるという素晴らしい立地に、当初予定より少し予算オーバーだったのだが、決めることにした。
それ以前に見ていた部屋は紹介店が違っても結局重複していたり、あるいはもの凄く古かったり辺鄙なところだったりで、「ペット可」物件が賃貸ではいかに少ないかを思い知っていた。そこへこの部屋だったので…というような話をしたら、Uさんのところも全く同じだったという。
Uさんのご主人はお寺さんなので、これからはお寺の近くにあるマンションへ引っ越しされるそうだが、これでこの階は一番端の若夫婦一家と俺だけになってしまった。
俺たちが一昨年引越て来た時に、川端の大きなSCで夫婦で選んだタオルのつめあわせを持って「ご近所」にご挨拶をしたのは、両隣と真下の部屋の人たちだ。真下のご一家はアメリカへ転勤が決まって出られたし、もう一軒のお隣さんは何だか急に挨拶もないまま引っ越された。
これでUさんが引っ越されると、俺たちが引っ越してきた時の「ご近所さん」が全戸居なくなるということになる。こんなことってあるのだろうか。
真正面に見える妙法の「法」とは、人智の及ばぬ決まり。
俺もここをいずれ去るだろうが、その時は…。

ビールを冷蔵庫へ入れ、いただいた花をさっそく花瓶に活けた。
本当に花が絶えないひとだと思い、改めて写真に合掌する。
百か日
2009-08-10(Mon)

原稿の追加と写真を発送

8月10日(月)

夕べは12時ころには寝たのに、夜中に何度も目が醒めた。その都度変な夢ばかり見たが、三津子は出て来なかった。朝方5時過ぎからはもううとうとと朦朧を繰り返し、寝返りばかりでへとへと。8時前に起きる。
朝、トイレに行ったあと歯を磨くと、喉に何かひっかかりがあるような気がして吐き気が来る。黄色い色の苦い液体がばしゃばしゃと出た。以前、舟渡に居た頃「緑色」の液体を吐いたことがあるからもう何が出ても驚かない。
洗顔を済ませたあとは花瓶3つ、しおれた花を取り、活けかえたり。お線香をあげてお祈りしたあとは何か食べないと胃が荒れるなと思い、レトルトの野菜スープを温めて食べる。

その後朝のワイドショーを久しぶりに見るが、のりピーこと「酒井法子容疑者」の話題でもちきり。チンピラのような旦那、近年の奇行、そして旦那が連行される時の態度、当初は失踪を装う巧妙な「逃走」と、覚醒剤の痕跡隠し。
世論の同情をいったんは誘導し、自殺の可能性さえ心配させておいて、自分はちゃくちゃくと(恐らくは「専門家」の指導で)体からシャブを抜いていたか。それも、旦那の愛人に子供を預けて。もう、何というか、言葉を失うとはこのことだろう。ドラマや映画でもない、これらのことが事実だということそれ自体にただただ驚くばかり。

10時前、仕事のデータが来たのでとりかかる。
外は雨、今日は夜にかけて台風が接近するかもというので、早めに買い物へと思い、傘をさしてスーパーへ徒歩で向かう。数パックだと安くなる肉類、あとは今日明日のものなどを買って帰宅。
肉類はジップロックに一回分ずつ小分けして冷凍。それをしていたら、野菜を買うのを忘れたことに気付く。豚バラは野菜炒めに入れるために買ったのに、ピーマンしか買わなかった。まあいいか、冷凍ならいつでも使えるからまた今度にしよう。

それから昼を食べて一休みしてから、整理した原稿の袋の箱から「Second Hand Love」を取り出して、発送する手配をする。
昨日、小学館クリエイティブのKさんに、やまだ紫の復刊三冊分の原稿や原画は全て送った…と思っていたが、『ゆらりうす色』の分は表題作だけだったことに気付いた。連載分の表題作だけだと薄いし、ちくま文庫版では「Second Hand Love」を併せて収録している。なのでメールでそう連絡すると「原稿を送って下さい」ということになったのだ。
このたび復刊する三冊には、それぞれを執筆した当時の彼女の写真を入れることにしたので、先日アルバムを見直した時にいくつか探しておいた。
その中から78・9年頃の写真と、81年ころ、83年ころの3枚を原稿に同梱する。
雨に濡れぬように青いビニール袋で丁寧に原稿と写真の封筒をくるんでテーピングしてから、缶ビールの空き箱(笑)を2枚重ね合わせて挟み込むように保護し、やはりビニールテープで頑丈に補強。それから宅急便を呼び、持って行ってもらった。

その後夕方、またしばらく休んでいたブログを更新。気が付いたら外は薄暗く、もう6時半になっていた。
2009-08-08(Sat)

ゴキブリ退治、原稿整理。

8月8日(土)

夕べ夜中2時半ころ、「コーン、コーン」と柔らかいもので金属を叩く音で目が醒めた。何だろう、三津子かい? と思って半身起こすが、しばらく無音。
俺たちは大きなベッドはいずれ買おうということで、引越後のままずっと折り畳みの簡易ベッドで寝ていた。この折り畳みベッドのマット部分は固くて二人とも体が痛いので、その上にさらにマットレスと敷き布団を敷いて寝ている。金属音はベッドの足を叩く音だ。
ハッと気付いた。
ゴ、ゴキブリがいる。
それを追って猫が手を出し、ベッドに当たって音を立てたのだと、すぐに解った。
電気をつけると、案の定枕元からユキが「にゃーん」といつもように鳴きながら出て来た。こいつの猫パンチの音だったようだ。
と、いうことは、
「奴」はこの部屋に上がってきたわけだ。

すぐに枕元のテーブル上に置いてあるLEDの小型ハンドライトのボタンを押し、ベッドの下に光を入れる。しばらく探索するが、見えない。しかし確実に「奴」は居る、そう思って下に置いてきた「電気ラケット」を握りしめて、すぐに戻る。
明るいと身を隠すだろうと思い、いったん電気を消す。そしてしばらくベッドの上で目を凝らしてじっとしていると、「カサ…」と音がした。どこだ。見えない。
足元の窓際にいたユキが何かを追うような動きをした。居た! ササササと凄い速さで、本棚の脇あたりから反対側の本棚を目指し、ベッドの下へ入った。すぐ電気をつけてベッドの下を覗き込むが、もう見えない。
下の三津子の仕事机の椅子で寝ていたシマが何事かと上がってきたので、シマの「耳」とユキの「目」に頼る。
じっとしていると、シマがベッドの足元、すなわちベランダ側に目を向けた。ユキが何かを発見した。カーテンだ。そう思ってラケットを持ってベッド上を移動し、カーテンのひだを見ると、
居た!
寝る前に見たのと同じ、茶色く首筋に白い線のある、3〜4cm大の奴。スス、スススとカーテンを上へ登ってくるので、狙いを定めてスイッチを押しながらラケットを被せるように当てる。
薄暗い中、ゴキの体のあちこちからパチッ、パチッと白い火花が見える。普通、蚊くらいならこれでお陀仏なのだが、こいつの場合はラケットを浮かそうとすると、動き出す。
1分以上スイッチを押したまま宛て続け、抑えたままスイッチを離してみると、まだ動こうとする。なので再び強めに抑えて、スイッチを押し続けた。何分か続けていると、いい加減動かなくなったが、こいつらの生命力は油断ならねえ。
なので、そのままラケットで上から抑える格好でカーテンの下までずらし、握りの部分に本を2冊重しに置いて抑え、もう一本の大きいラケットを取りに下へ降りる。うちは蚊の大嫌いな三津子のために「一人1本」電気ラケットを持っていたのだ。
それを持ってすぐ取って返し、ラケット2本で挟むようにしてゴキブリを持って下へ降りる。だって触れないし。
そうして北大路側のベランダに捨てて、バケツの水で流すと排水溝へ落ちていった。やれやれ、大捕物であった…って普通は新聞か何かで叩いて終わりなんだろうが…。
もう3時をまわっていたので、レンドルミンを1錠飲み、寝室へ上がり、7時ころまで熟睡。

起きたのは8時頃、今日は少し曇っているが晴れそうな気配。

朝のことを済ませて、何を食べようかとおもったが、とりあえずDVDの返却もあるので、着替えて自転車でポストに投函。そのまま通りを下っていつもとは違うコンビニへ入る。たまには違う店へ入らないと、飽きてしまう。
おにぎり、サンドイッチ、キムチ、糖質0とかいう缶コーヒーなどを買ってすぐ戻る。戻りは北大路に向かってゆるく登りになっており、ちょっと膝がしんどかった。
帰って来て新聞を読みながらサンドイッチとペットボトルのミルクコーヒー。外はいつの間にか晴れて青空。風もないようで、もくもくとした夏の雲もじっと動かない。いかにも暑そうだ。

午前中は調べ物などをして、昼過ぎにおにぎりを食べ、それからは原稿の整理の残りにかかる。
もうそろそろラストスパートだ。今日は筑摩の作品集でいう1と4の原稿の整理。初収録でいうと『鈍たちとやま猫』『はなびらながれ』『空におちる』などで、年代も画風もばらけている。
その中からなぜか、『鳳仙花』所載の描き下ろし「落花生」のタイトル画が出て来た。
こないだ未発表や未完成の古い原稿の中から、紛失されたと思われていた当時のオリジナルのタイトルページが出て来たばかりだったが、続いて『鳳仙花』時に「紛失したので」描き下ろしたのに、それがまた「紛失された」と思われた二枚目のタイトル画だ。
ややこしいが、つまり、これで「落花生」は描かれた当時のタイトルページと本文、さらに『鳳仙花』収録時に描かれたタイトルページが全て揃った、というわけ。
その他、初出が相変わらず不明な作品もけっこうある。特に『鈍たち…』に初収録のもので、「ガロ」発表ではない作品はもうお手上げである。
あと「セブンティーン」掲載、としか解らなかった一作で、「COM」時代のセルフカバーというかリメイク作品「あれは わたしの」が、原稿を一枚一枚見ていくと、柱にアオリが貼ってあり、それを白い印画紙でカバーしてある。
アオリというのは商業誌には付き物の、柱にある宣伝文句などのことだ。(余談だが新人編集者になると、商業誌の場合こういうアオリをけっこう書かされるが、その人のセンスが出るので面白い。)
透かしてみると
「コミックSTは偶数月18日発売です!次号は2月18日発売」と書いてあるのが読める。
つまり、これが掲載されたのはその前の偶数月だから12月18日号ということだけは解った。そう思って最後まで原稿の枚数を確認するうち、今度は別のページのアオリで
「…85年2月からの科学万博に出展します」みたいなものが読めた。
ということはこの作品の初出はその前年、「コミックセブンティーン」1984(昭和59)年の12月18日号掲載、ということが判明。
いやはや、「ガロ」時代から実は商業誌のアオリを、綺麗な作家の原稿には余計なモノだ、とずっと思っていた。なのであまり好きじゃなかったのだが、こうして役に立つのだなあと改めて感心。

しかしその他の「佐和子叔母」や「小さいぐみの木」は、それぞれ「スピリッツ」「セブンティーン」としか初出が解らない。よってその後の収録単行本にも、そうとしか書けないから、もはや「初出不明」というしかない。だいたいの年代として同時期、84〜85年という推測しか出来ない。

それにしても、こうしてほぼ全作品を彼女の死後に生原稿というかたちで一枚一枚見ていくと、初期のつたない画力ながら個性ある絵柄と、すでに「やまだ紫」としてしっかり確立された作家性、そして中期にいくと画力が一気に高い次元へ上り詰め、後期に至る間にその線がどんどん省略されていく課程が解る。
その意味で、筑摩書房の作品集は時代が時系列ではなく、あえて作品の内容や傾向で分けてあるため、例えば「敏江さんの日記」(85年)の次に突然「やるせない頃」(恐らく70年代後半)が並んだりすると、絵柄的には唐突というか違和感を覚えるだろう。

作品集『鳳仙花』は彼女本人が「未熟だ」「恥ずかしい」と謙遜していた作品群ではあるが、その描かれている世界は「やまだ紫」の世界そのものだ。
なのでやはりそこ(70年代)から1980年つまり『鈍たちとやま猫』(青林堂版)にまとめられたあたりの画風と作風のものを、ぜひ一冊に復刊したいという気持ちが強くなる。
本当にいい作品ばかりで、「ガロ」だけではなく後に「アサヒグラフ」「奇想天外」「WINGS」などから女性誌まで、幅広い媒体にその才能をも広げていく前駆的な段階だ。
例えば恐らくは最初の結婚時、母との別れの場面を描いた「夜の坂道」、逆に全くのフィクションなのに見事にリアリティを持って描きあげる「やるせない頃」など、名作「しんきらり」を連載しならが、よくもここまで高いレベルでの短編を発表し続けられたかと、作家としての凄さを感じる時代だ。
かと思えば「夏休み」(「ガロ」1980年10月号)のように、たった6ページながら日常の一瞬を切り取ってぞくりとさせられる小編もある。
ちなみにこの「夏休み」は、タクシー乗り場で子連れの一行の一員としてガヤガヤやっているところへ、通りかかった「アベック」の若い女が「やあねえ、あんな中年にはなりたくない」みたいな悪態をついて通り過ぎる。
それを耳にした主人公(…恐らくは三津子)が無言で睨み付け、心の中で「おい小娘」と「テレパシー」を送るのだが、この時の「顔」が凄い。何もそんな怖い顔をせずとも、というほど怖い。
あの「顔」とこの小さな話が、俺は彼女らしくて大好きだ。この作品を描いた時の彼女は、まだ32歳。「おい小娘」って。
「COM」で入選以後高いレベルの作品を次々と発表したときの彼女はまだ「たったの」22、3歳だった。24歳から出産育児のために休筆をやむなくされ、30歳で「復帰」するまでの間、彼女の中にいったいどれほどの「思い」があったのか。何度もここに書いているように、それはそれはさまざまな「思い」がマグマのように渦巻き、熟成され、そして噴火したのだろう。
作品リストをこつこつ作っていっても、彼女の30代の作品は質、量ともに大変なものだ。その後半に俺は同居することとなったけれども、あの団地で、子供2人と猫3匹で、別居と離婚を挟み、あれだけの作品を彼女は描き続けた。そう思うと、あまりの壮絶さに「驚嘆する」などという安直な表現では失礼にさえ思えるほどだ。

今はもうそれから20年以上が経った。
社会でも世間でもいいが、漫画という「表現」いや漫画家という「職業」にさえ理解があって当然、「女性」「離婚」「母子家庭」だってもう、珍しくもないし引け目でもない。だから、今の若い人たちが、あの時代に、彼女のような状況で必死に「漫画という表現」で「立つということ」が、どれほど壮絶なことだったか想像するのは難しいだろう。
そのことを加味して読まずとも、彼女の作品が高みにあることは間違いないが、時代性を考えてみると、その凄さはその辺の凡庸な作家など足元にも及ばないことが解る。

「好き・嫌い」でしかものを評価できないということは、消費者つまり読者の勝手だし、自由だ。
けれども漫画を一つの表現として理解し、もし研究したり評論をしようと考える人間なら、女流とわざわざ銘打たずとも、「やまだ紫」という作家の偉大さに気付かないのなら、それは「馬鹿」だということを、はっきり言っておきたい。

もっと言えば、あの時代に個人的にも彼女の世話になった人がずいぶん居たと思う。彼女はいつも他者に優しく誠実に接してきたはずだ。彼女はそういう「だれそれに世話をやいた」ということを他の第三者にあまり言わなかった。けれど実際俺はそういう人間をずいぶんたくさん知っているし、夫なので直接彼女の口から聞いたこともある。もちろん彼女の日記にも残っている。

そういう人たちで、
彼女の死
に対し
何の追悼の気持ちも持たず、
へらへらと暮らしている連中
がいる。

裁きは必ず訪れるというのに、「恥を知れ」と思う。
2009-08-07(Fri)

映画二本、そしてゴキブリ

8月7日(金)

夕べは11時前までニュースを見て寝室へ上がった。
朝は4時ころ目が醒めたが、そのまま強引に眠る。結果7時過ぎまで、割合寝られた方だ。
起きたのは8時過ぎ、今日もうす曇り。

朝のことを済ませて、仕事を片付ける。ペットボトルのコーヒーミルクとサンドイッチ。その後は「のりピー」旦那覚醒剤所持逮捕、現場に呼び出されそこから「失踪」したのりピーが今日になって自宅のガサで所持と使用の疑いで逮捕状出る、という一連のニュースを見たり。
午後、三津子のアルバムと写真の未整理の束をもう一度見直して『性悪猫』や『しんきらり』当時のものを何とか見つけた。こないだ出しておいた数枚とで、何とか3冊の「著者写真」(近影、ではない)になりそうだ。
とにかく写真の年代特定が意外と難しい。アルバムに整理されて年代が書き込んであったり、日付を写し込んであれば別だが、そうでないと、もう推測するしかない。
このパーティは恐らくこの時のだから何年ころか、これは同じ服とメガネだからたぶん同年のもの…と推理していくつかの写真を並べた。
写真を見ていくと、やはり90年に膵炎を胃炎と誤診されたことが、彼女の寿命を色々な意味で大きく縮めたのだと解る。その後の写真ではふくよかさも、健康そうな佇まいというか、「気配」が変わってしまった。
膵炎は本人が若い頃からお酒や油ものが好きだったせいもあるが、もし最初の急性膵炎を起こした初期段階で手を打てていれば、予後がずいぶん変わっただろう。それが慢性膵炎〜ランゲルハンス島の機能障害、その後十年で腎臓にも影響を及ぼすなど、いいことは一つもない。
当時医者たちは皆「そんなことはあり得ない」と俺たちの「推理」を一笑に付していたものだが、ずいぶん後になって「そういうことはあるかも知れない」に変わった。プロのくせに気付くのが遅すぎる、それに「患者が今訴えていること」をもっと真剣に考えるべきだっただろうとつくづく思う。
済んでしまったこととはいえ、本当に病院と医師には裏切られたことの方が数知れず、多い。
彼女はその後更年期も重なって、病気がちになった。吐血や下血をするたびにげっそりと痩せ、それが戻ったかな、という頃にまた何らかの病気をする、その繰り返しだったような気がする。

彼女は病気、病気…で、その後鬱になり酒へ傾いたこともあったが、それこそ元にあるのは「誤診」とそれによる相次ぐ病気、挙げ句は腎臓摘出手術による絶え間ない「激痛地獄」があったからだ。
つまりそれらは結局彼女の「自業自得」ではないのだ。
そういう中でようやく安寧の日々が訪れた京都生活だっただけに、もう少しふたり、一緒に居たかった…。

その後は6時ころから三津子にお酒とお膳をあげて、DVDで未見だった『硫黄島からの手紙』『父親たちの星条旗』を続けて見る。
どっと疲れた。
映画としての出来・不出来で言えば、確かに『硫黄島…』の方が遥かにいい出来映えだったが、イーストウッドが2006年に、あの戦争を日米双方の視点から描いた、描いておいた、ということは非常に重要なことだったと思う。つまり二本で一本なのだろう。
演技云々で言えば『硫黄島』の渡辺健は安心して見ていられたし、脇にあまり有名どころを使わなかったのも幸いした。「西中佐」の伊原剛志は型にはまっていたとはいえ、あの時代の「アメリカを知る」日本軍人という体(てい)はちゃんと出せていたと思う。それと憲兵くずれの「清水」役、加瀬亮の演技はとても自然で、「投降させてくれ」と泣く場面ではヨダレの糸が月明かりに光るところなど、悲痛さが伝わるいい演技だった。
さて「嵐」の二宮君だが、頑張っていた、とても頑張っていたと思うが、残念ながら「あの時代の日本人」にはとても見えなかった。軍人に見える・見えない、ではない。どうしても「あの時代の人」に見えないのだ。口調や姿かたちということもあるし、たたずまい、全てが「現代の人」なのだ。
当時戦争も末期は職業軍人を除けばたいていは赤紙で引っ張られた民間人ばかりで、当然前職を持ち普通の暮らしをしていた人たちだ。だからナチュラルな口調で楽に話す感じは悪くはない。
…が、そこが逆に見ていて最大の欠点でもあった。まずあんな口調で「昭和の男」は喋らない。若者であろうが、妻を持ちパン屋として独立し、子をなしたところで戦地へ来た、という人間の語り口ではない。
設定がもの凄く若い父親だったとしても、昭和19年当時、まあ19歳か20歳で結婚して招集された若者だとしよう、だとしても、留学していたか山の中に隠れていたのでもない限り、逆に「少国民」として徹底した軍国教育にさらされていたはずだ。そうでなければ、例えば左翼運動にかぶれた学徒動員の大学生ということも考えられるしあの厭世観はそんな感じに見えなくもない、彼の設定はパン屋であって「アカ」ではない。
階級章も二つ星ということは一等兵、つまり練兵され戦地へ送られて一年程度という、ほぼ新兵に近い兵士である。昭和期の場合、一つ星、いわゆる二等兵というのは訓練中の新兵=初年兵で、基本的に戦地に居るのは二つ星以上と思っていい。それがあれだけ、末端の兵士同士とはいえ、厭世観丸出しの不良国民のような態度をしていたら、戦争をする前に分隊長や下士官に殴り殺されているだろう。
兵士が数名いれば必ず下士官がついている。この下士官がたいていの場合は兵士たちのお目付役で、戦争開始時から居る場合もあり、戦争前からの職業軍人の場合もある。
俺の爺さんも帝国陸軍の上等兵として南方戦線へ行ったし、大叔父さんも主計軍曹としてだが、やはり戦地へ赴いている。だがその孫の世代で、もう俺の年だ。二宮君は当然「戦争の時大人だった『昭和の男』」というものに身近に接していないだろう。
兵卒として南洋に赴いた祖父の方は、上等兵つまり「三つ星」で、つまりは消耗品としての一兵卒だ。「突撃」と言われれば三八式(歩兵銃)を持って機関銃に突っ込まされ、態度が気に入らないと言う理由で意味なく上官に殴られることは日常。それでも兵隊同士ではフランクな話をしたが、そこに士官でも来ようものなら、リラックスしていた全員が直立不動になって迎えねばならなかった時代だ。
もしそれが高級将校だったら、さらに将軍だったら。
恐らく足が震えたと思う。一兵卒にとって、佐官や将官というのは雲の上の人に等しい存在だ。日常接する上官といえばせいぜいが軍曹どのぐらいまで、たまに尉官が来れば緊張するという案配だろう。こういうところが米軍とは全く違う。
上官によって、その小隊なり中隊の雰囲気ががらりと変わったそうだ。例えば嫌な古参の下士官が居て、日常兵士をガンガン殴る。それを士官学校出たての少尉どのは止められず見てみぬふり。何せ部下とはいえ自分の親父くらいの年齢の下士官だ。しかし大尉どのがそれを知るとその下士官を呼びつけ、逆に朗々と説教を兵士たちに聞こえるように行う…。
または中隊長殿(階級は尉官だと思われる)が恐ろしく嫌な職業軍人で、とにかくやたらと兵士を将棋の駒のように動かしたがり、消耗品としか考えていない。なので虫ケラのような扱いだ。けれども直属の上官である下士官(曹長や軍曹、伍長など)がいい人で、「まあ適当に言うこと聞いてるように見せようや」と言って庇ってくれた、という話…。
帝国陸軍、と一口で言っても末端ではさまざまな「人」がおりその集団として分隊や小隊があり、構成されていた。だから色々な人間が居たのは、もちろん事実である。
けれども総体としての帝国陸軍、というより「昭和の軍人さん」たちは、厭世気分あり負け戦と知っての無力感あり、逆に皇軍としてお国のために死ぬ名誉意識満々の人ありの中、最後までほぼ「日本軍」としての統率は取れていた。このことは何より「玉砕」という不幸が多かったこと、戦った英米軍の証言、さらには戦地から帰還した生き残りの人たちの証言からも常識だ。
例えば旧大日本帝国における陸軍と海軍の対立は有名なところではあるが、いくら何でも「将官」に佐官が、ましてや尉官が「休め」と言われる前に直立不動を守らないという場面はあり得るはずもない。
栗林中将はそういう意味ではフランクなお人柄であったと聞くが、それは将軍側からの話であって、だからといって一兵卒や下士官が「休め」と言われたとしてもリラックスなど、将軍の前では絶対にあり得ない。ましてや言われてもいないのに最初から力を抜いて接している、という光景は全くあり得ないし、あってはならない光景だ。
「バロン西」中佐の副官が、最後まで彼の上官つまり西中佐に接していた態度が一番違和感がなく、彼は副官ゆえに忠誠心に厚かったことを考慮しても、その他の「兵士」の態度はずいぶん米国式のように思われた。
もっと言えば応召される時に近所の婦人会…まあ「愛国婦人会」と読めたが、たすき掛けのご婦人が数人来るわけだけど、あの「字」はないだろう。識字率は今より低かったとはいえ、ほとんどの人が普通に毛筆で文字を書くことが出来、ましてやたすきに文字を書く場合はそれなりの心得のある人に依頼するはずだ。そういうことはごく普通の成り行きだろう。あんな「いかにも油性マジックで殴り書き」みたいなひどい字のタスキなど、金輪際見たことがない。
これまでたくさん見た「戦争映画」はフィクションだ、それは置いておくとしても、たくさんのノンフィクションのフィルム、写真集、その他どれを見てもまずあり得ない。まあ米国人のイーストウッドにそこまで望んではいけないのだろう。
こういうことは「重箱の隅」だから、逆に言えばそういう部分をつっつきまわすほど、大筋では良く出来た映画だったと言えるかも知れない。

数年前に、この硫黄島での戦いが映画化される、それも今や「巨匠」となったイーストウッドで日米双方の視点で…となった時に、当時の生存兵のインタビューなどが放送されたことがあった。
あれによると、硫黄島守備隊の戦いはすさまじい消耗戦で、というより、洞窟の中には水が溜まり、得体の知れぬ虫が湧き、死体はすぐに腐敗し悪臭を放ち、そして飢えのあまりその死肉さえ喰らうような想像を絶するものであったという。
この映画ではそういう場面まではもちろん、敢えて描かれていない。主題はそういう「戦争の悲惨さ」をことさらに「浮き彫りにすること」ではない、からだ。
だから硫黄島の戦闘を実際に戦った生存者の方からすれば、「こんなもんじゃなかった」と言われるかも知れないが、これは「映画」だ。そして、その「映画」であるがゆえに「訴えられること」がある。イーストウッドがもう一本、『父親たちの星条旗』を同時に制作したことでも、その意味がわかる。
「戦争」を善悪、敵味方…といった単純で不毛な描き方をするのではなく、敵にも味方にもそれぞれ守るべきもの…国や家族がおり、当然ながらそれでも戦わねばならないことが、戦争の不幸であり、簡単に「じゃあ戦争だ」「そういう事言うんだったら武力行使でいいじゃん」みたいな短絡的な思考に待ったをかける意味を持っている。

『父親たちの…』の方は、あの歴史的なスクープ…擂鉢山に星条旗を掲げた兵士たちが英雄視され、戦時国債を売るためにセールスマンとして全米を行脚させられていったという「実話」を背景に、やはり同じ戦場での「攻める側」の不幸も描いている。そして「勝てば官軍」という嫌な言葉があるが、敗戦後しばらくは日本社会が手のひらを返して米国礼賛、民主主義万歳となり、アメリカが「次の戦争」へ向かう際の補給基地となって特需に沸いた…という歴史へとつながっていることも考えさせられる。
3人の「英雄」の中で「インディアン」の兵士の苦悩、没落ぶりを執拗に追いかけていたが、あのあたりがこの映画を今一つ盛り上がりに欠けさせた要因かも知れない。なので、二本を同時に見ると、どうしても『硫黄島からの手紙』つまり日本側守備隊の戦いの方が印象に残らざるを得ず、映画としての評価もそうならざるを得ない。
それにしても、イーストウッド。この人の名は、21世紀では優れた「映画監督」としてずっと語り継がれていくのだろう。俺たちは「ダーティ・ハリー」や「荒鷲の要塞」みたいな時期の俳優のイーストウッドも大好きなのだが。


そんなこんなで映画を見ていると、後半、ユキが何か俺の仕事部屋の方であらぬ方向を見ているので、何だろう…と思って注意深く見ていると、何とサササッとゴキブリが横切った。
ユキは耳が聞こえないから、箱の間などへ逃げ込まれるとお手上げで、ただじっと引っ込んだところにうずくまって見張っている。

俺は北海道で18年間暮らしたが、ただの一度もゴキブリという昆虫を見たことがなかった。読んでいた漫画でも小説でも映像でも、その邪悪な容姿と異常に素早い動き、さらに強靱な生命力の「お噂はかねがね」知ってはいた。

19で最初に住んだ上北沢の部屋は、真っ黒で大きい、5cmくらいのタガメのようなゴキブリが夜中になるとゴミ袋のあたりで嫌な音を立てる部屋だった。何度か発狂しそうになったことがあるが、それでも見つけるたびに箒で外へ叩き出したりした。とても素手ではおろか、分厚い軍手をしていても触ることなど到底無理だった。

次に引っ越した柏の部屋も、出た。ちょっと色の薄い、それでも3cmは普通にある首すじに白い線のある奴らだった。あそこも多かった。
一度カップ麺の空いたのでダイスのようにカパッと蓋をしてつかまえたことがあった。中でカサカサと這い回る音がして、その感触がカップごしに手に伝わるだけで冷や汗がドッと流れ、鳥肌が立った。そーっとそのまま玄関までカップを浮かさぬように移動し、玄関の扉を開けると、思い切りカップを滑らせて外へソイツを吹っ飛ばした。
暗かった夜の柏の奥地、あっちこっちまだ緑がいっぱいあった闇にゴキブリは飛んで行った。すぐドアを閉めてなぜか鍵をかけて、手を中性洗剤で死ぬほど洗った。触ってもいないのに。

次に住んだのは巣鴨の1Kのマンションだった。もう、青林堂に勤めていた頃だ。ここは比較的少なかったから助かったが、一度寝ている時に無意識でつかまえたらしく、朝起きたら手のひらに動くものがおり、指の間から触覚が二本出ていた時には、心臓が止まる思いをした。いや、一回止まったかも知れない。
もちろんもう「握ってしまっている」ので、そのまま窓を開けて、思い切りあらぬ方角へ投げ捨てた。たたきつぶすとそれなりの汁なり内容物が飛び散ったりするし、そんな事態になったらもう二度とその場所に座ったり触れたりすることが出来なくなるから、殺さずに出て行っていただくしかなかったのだ。
結局その巣鴨の部屋に居たのはほんの少しで、三津子と交際をするようになってからは、よく団地へお邪魔し、結局引き払うことになった。

そして移った団地は…。
いや本当によく出た。参った。何で13階にまでコイツらは登ってくるのか、じっとしていてくれるなら問い詰めたかった。いや、じっとしてられても逆に恐ろしいが。
一度、夏の夕暮れに団地のベランダから外…といっても向かいの団地の窓窓窓…が見えるだけだったが、見ていると、何かがこちらへ向かって飛んでくるのが見えた。何だろう、と思って見ていると、すぐ近くまで来た時に奴だということが解った。「ひぃぃ」と男のくせに変な声を出して窓をぴしゃりと閉めた。台所側は網戸になっていたが、そっちも閉めた。その場に誰が居たんだったか、もう覚えていない。

…ともかく、それほど俺はゴキブリが苦手なのである。

団地の後に仕事場として借りて、結局生活も移した蓮根のマンションは、大きくても1cm以内の茶色い色をした、小型のゴキブリがわらわらと無数に沸くところだった。何かの整理していた箱を開けるといるし、何かをよければいるし、ちょっと置いていた食べ物にはいる…、というので本当に往生した。「お前はキリストか?」と思った。いやそれは今思いついた嘘ですが。

最後に引っ越したマンションは新築だったのに、引越の荷物にまぎれていた小ゴキらに一時、席巻されてしまった。猫たちがいたのでなかなか出来なかったが、何度かの「バルサン」で全滅作戦には成功したが、とにかく、俺は18まで見たことのなかった「未知の生物」に、いまだに背筋が凍り付く。
今はさすがに昔ほどではないものの、素手で触ったり新聞でたたきつぶしたりは無理だ。だって汁が出るし…。
なので、実は秘密兵器を持っている。
従来ヤブ蚊や蠅が飛ぶ時に対峙するために買ったものだが、ラケット型で金属線が張り巡らせてあるもので、単三乾電池2本で動作する。動作といってもボタンを押すだけで、その金網に電流が流れるだけだ。
実は人間でも乾電池の電流というのはけっこうバカにならないものだが、小さな蚊や蠅にとっては即死に近いことになる。なのでブーンときたらスイッチを入れて、ラケットをそれらに向かって金魚すくいかゆるいサーブのように上下させれば、だいたいは感電して逝ってくれる。微弱なスタンガンみたいなものか。
とにかくそれを握りしめ、ユキが睨んでいるあたりをこちらもじっと待機しているが、全く出て来ない。
仕方なく止めていた映画のDVDをまた見始めるが、気が気ではない。12時過ぎには映画も終わったので寝ることにしたが、その間に猫の餌やゴミ袋をあさったりするのだろうか、と気になる。たが出て来ない以上、待っていても仕方が無い。そのまま寝る。

それにしても、確かにこの付近でゴキブリは路上でも何度かみかけたことがある。ゴミ捨て場の箱を開けたら、真っ黒で5cmはあろうかという巨大な奴(本当です)が蓋の内側にいて、度肝を抜かれたこともあった。エレベータを待っていて、何かの気配を感じて目を凝らしたら、背後の鉄製の扉と壁の隙間に奴が居たこともあった。夜、夫婦で帰って来た路上を横切られたこともある。
それでも、この部屋に越してきてから、部屋の中に出たことは一度も無かったのに。
三津子、とうとう出たよ…。何とかしてくれよ…。
男のくせに弱音が出る。
2009-08-05(Wed)

三度目の月命日

8月5日(水)

夕べは11時前に寝てしまった。その後朝方4時過ぎに目が醒める。ちょうど三ヶ月前のこの時間、三津子は息を引き取った。あれからもう三ヶ月、三度目の月命日がきた。

三津子と仲良く元気に暮らしていたここでの暮らしは、なぜか遠く感じるようになってしまっった。けれども、あの「悲しい十日間」の記憶はあまりに辛く厳しい現実だったせいか、いまだにはっきりと記憶と映像で刻み込まれ、はがれない。思い出すと今でも情動失禁を起こしそうで怖いほどだ。
彼女が深夜に倒れ、救急車で搬送し、医師からの残酷な診断を受け、それでもほんのわずかな可能性に賭けた。そして、その結果の非常な宣告。彼女は十日の間、遠く離れたところから肉親がお別れに来て、俺自身にも、突然に半身を引き裂かれるという現実を直視する時間をくれた。
肉体が温かく「そこにある」という状態は、とうにそれは「三津子」という人格ではなく魂は別にあるのだという理解を超えさせるリアルさで、遺される者に執着をもたらし続ける。
もし、あの状態が一年、二年…続けられても、「脳死」という悲しい現実はどんなに医学が進歩しようとも、絶対に覆すことはできない。ごく一部でも脳の機能が残っていれば、意識が戻りリハビリによって運動機能の回復に期待も持てる。そういう人を何人も知っているし、我々の近いところにも、何組かそういうご夫婦がおられる。「コスモス短歌会」の桑原さんご夫妻。「ねこ新聞」の原口さんご夫妻。
三津子の場合は、残念ながら、何らかの血管異常がすでにあり、手術を開始して初めて、「救えない」ことが解った。その後の脳のCT映像は、もう奇跡は起こらない、二度と彼女の意識が戻ることは完全にないという現実を残酷に示していた。
ありありと、蘇るあの人生で最も悲しく辛い日々。
あれから、もう三ヶ月。

12日には百か日、そしてここ京都では13日には迎え火をし、16日には五山・送り火で霊を送る。

けれど彼女はもうすでに「遍在」であり、どこかから帰ってきて、どこかへ戻る…という存在ではない。彼女は「つねにある」。彼女を思う、慕う、愛する、全ての人とともにある。
だからお盆や法事は、生きている俺たちのために区切りとして行われる儀式だ。そして、そのことで彼女を思う人たちの思いが「一つになる」という意味において、その「儀式」も大切なのである。
昨日はグーグルストリートビューでなつかしい街々を見た。京都へ転居する前に住んでいたマンション。そこから浮間公園やら、清竜丸のマスターたちとよく遊んだ蓮根駅周辺、団地のあった西台や買い物にしょっちゅう出かけた志村坂上や大山ハッピーロード…。
いろいろと懐かしく見た。どこも、三津子といったい何度、何十回歩いただろうか。そこへ戻れば二人の生活がまだ続いているような、濃密な二人の「思い出」という記憶の塊に比例するかのような、「重さ」さえ感じる映像だった。

今日は新聞を取りに下のポストへ行くと、ゆうちゃんから封書が来ていた。その後、携帯でメールを打つのはもどかしいので、返信をパソコンで打つ。
手紙を書きながら彼女の母である三津子のことを思い、ちょっと涙が出る。三津子は突然の死が訪れる直前まで、何度も
「いっかい休みになったら泊まりがけでゆうのとこ行って来ようかな。」と言っていた。
ゆうちゃんは「マミー」つまり三津子にいろいろ相談したいことがあっただろう。でももうそれは出来ない。俺が愛するひとを失ったのと同様に、彼女も愛する母を失ったということは、とても辛いことだっただろう。大きな精神的な支えを失ったことにもなる。
手紙を書き終え、三津子の仕事机の上にずっと置いてあった、あの人が集めていた小さな「キューピー人形」がたくさん入った藤の手提げ籠と、それに入り切らず収めてあった箱を梱包し、手紙と箱に入れて送る手配する。

お盆が開けたら今度は詩画集『樹のうえで猫がみている』の打ち合わせで思潮社さんが打ち合わせに来られる。しかし百か日を終えたらと思っていた、大学の研究室を整理しに行かねばならない。これもけっこう大変な作業と思われるが、ここは京都だ。俺しかいない。

月命日のご馳走
ドアフォンが鳴ったので応対すると、花のお届けだという。
受け取ると、三津子の親友、詩人の井坂洋子さんご夫妻からだった。手紙も添えてくださり、有り難かった。さっそくテーブルに飾り、三津子に
「こうしていつも花に囲まれるのは君の人徳だね」と語りかける。

夜は晩酌しながら、たまたま新聞を見たら懐かしい番組「YOU」の再放送があると書いてあったので、見た。
「YOU」はNHK教育の若者向け番組で、再放送はその第一回目だ。司会は糸井重里と青島美幸。27年前のことなので当然ながら、お二人とも若く、今見るとかなり恥ずかしいほどのハイテンションである。「お堅い」NHKでもさらに固い「教育テレビ」で、それまで放送していたのはその名も「若い広場」(笑)。これが退屈でつまらぬ番組であったゆえ、深夜に本格的な若者向けトーク番組としてリニューアルを始めるというので、当時高校生だった自分も第一回から割合に見た記憶がある。
第一回のテーマは「サラリーマン」で、当時としては珍しくぐるりと周囲を高校生大学生、そしてサラリーマンという「素人衆」が司会を囲むかたちで進行される。
ゲストは当時まだ第一勧業銀行に勤めていた頃の、「サラリーマン歌手」として有名だった小椋佳だ。(余談だが三津子も小椋佳の曲や歌は好きだと言っていた)
番組では赤チョウチンで憂さ晴らしをするサラリーマンのVTRを見たり、会場の若者たちに「サラリーマン」という言葉や「就職」というものへの印象や考えを聞いたりしたあと、小椋佳に先輩としてアドバイスを求めていた。小椋佳は
「スポーツはルールが決まっているが、会社の場合はそれを変え得る立場に(あなたたちが)なれるかも知れない」という示唆に富んだ話をしていた。
またグチばかり言っているようだと、
「それに赤チョウチンで上司や会社批判をするのもいいが、それが過ぎると結局自分が上司になった時に、その『批判される側』になるだけだろう」ということも話していた。小椋佳はもちろんその後一勧を辞めて歌手専業となってもう長いわけだけど、この放送の段階でもう20年以上「サラリーマン」をやっている。その経験を若い世代に伝える、的確にかつ示唆に富む「言葉」を持っていることに感銘を受けた。
関係ないが、スタジオにいる27年前の高校生も大学生も、今見ると皆驚くほど「老けている」。悪い意味ではなく、外見だけではなく「大人びている」という意味だ。
日本人はネオテニーかと思えるほど、大人という年齢になっても見かけはかなり幼くなってきている。若くなった、というレベルではないような気がする。
このことを世界一の長寿国化と結び付ける向き…例えば寿命が長くなりすぎたために相対的に「幼児期〜少年期」も伸びた…というような意見もあるが、日本以外、欧米の長寿国ではこういう現象は見られない。
ではアジア系特有なのかといえば、日本以外のアジアの国では年相応に老けている民族の方が遥かに多い。
自分でも、俺が十代だった頃の「四十代半ば」というのはもう完全に外見はもちろん、本人の意識も世間の扱いも確実に「大人」どころか、下手すると「中年」いや「初老」という線引きすらあったと思う。
自分は今病身だし、分相応に老けている自覚はあるものの、世間では「アラフォー」とか言ってやる気マンマンである。あれは同世代として見るとかなり恥ずかしい。だいたい、「超なんとか」という「チョー」が使えない世代が俺くらいからだと思う。それがメディアに踊らされて若ぶっているのは、とても見苦しい。まあ不景気だし、「景気」というのは消費者が踊ってくれないと回復しないし、その役目を広告で持っているテレビというメディアが負っていることは承知の上だが。
30代といえば今では世間の扱いも本人の意識も完全に「青年」だし、20代なら下手をすると「少年」に近い。実際街中でもネットでも、あるいはテレビに出ている人たちを見ても、話している内容や話題、知識や興味の幅などを注意深く見聞してみると、かなり若返った印象を持つ。

こういう中で最近「成人年齢を引き下げよう」という動きもあるが、今の18歳だと、ネオテニー的外見がどうだこうだよりも、「意識の問題」で大いに不安がある。
今の18歳の全部が全部とは言わないが、テレビにバラエティが増え、レベルの低い「大人」がどんどん「タレント」「役者」「芸人」としてその無知・幼稚ぶりを世間に流布するようになってから、それを見せられている下の世代もどんどん「上があれだからこれでいいんだ」と思うようになっていったと思う。
大宅壮一が「一億総白痴化」すると警告してからそろそろ50年らしいが、テレビを低俗なメディアとする活字信奉者的な高所からの指摘ではなく、テレビというメディアの特性を考えれば、さもありなんと感じる。
テレビが「黙って口を開けて見ていても次から次へと情報が送られてくる」メディアであるという性質上、物事をあまり考える習慣のつかないうち…例えば幼児期から「それ」を与えられ、しかも疑問を持たずに慣れきってしまうと、そりゃあ想像力、創造力が低下するという指摘は間違ってはいないと思う。
俺もバリバリの「テレビ世代」だが、俺が高校生になる頃はまだテレビはほぼ「一家に一台」の時代だった。テレビを見るには居間におらねばならず、必然的に通常の家庭ならば親兄弟という他者とそれをシェアせねばならなかった。テレビを囲む全員がそうして「白痴番組」を望むのなら、もうそれは家庭の問題なので仕方のないことだが、普通の高校生は一人でやりたいことが山ほどあった。
もちろん若い男なら当然エロ本を見るとかそういうこともあるが、好きな作家の本を読んだり漫画を読んだりレコードを聴いたり、借りたレコードをカセットにダビングしたり、その時に曲目やタイトルを写したり、ギターを弾いたり、座布団をドラムがわりに叩いたり、こっそり酒を飲んだり煙草を吸ったり、もちろん友達と騒いだり、それなりに高校生は忙しかったのだ。
テレビは特別に見たいものだけを見る、という時代だった。その「見たいもの」が例えば「アイドルが出るから」という理由で、テレビにかじり着いている奴は「馬鹿」というレッテルを貼られたものだ。
「中二病」という嫌な言葉があるが、中学生や高校生なんて人生で一番マヌケな季節だ。根拠もなく他人を馬鹿だと思い、邦楽より洋楽の方が格好いいと思い、ジュンブンガクを解りもしないのに読んだり、偏頗な知識をどこかから仕入れてきては披瀝しては悦に入るとか、まあ今のようにネットなんて無いから、それはそれで仕入れ先が違うからあちらこちらに個性的な「馬鹿」が居て、もちろん自分もその中の一人で、面白い季節ではあった。
今の高校生など子供たちも「テレビなんかもうとっくに終わっている」という意見も多いが、それは他に面白いことがたくさんある、という意味において当時の俺たちと同じではある。
けれども、今の子供たちの「他の面白いこと」は携帯だったりネットだったりテレビゲームだったり、30年前には無かったものばかりだ。そういえばウォークマンの初号機は中学生の時だったか、金持ちの子が遠足にこれ見よがしに持って来ていたのを見た。ベルトに単1だったか単2だったかの電池フォルダーを重そうにぶら下げていたのが強烈に記憶に残っている。

ともかく、「情報」は確実・不確実なものも含めて、今は大量にある。求めれば際限なく入手できるし、求めなくても嫌でも入ってくる。ネットはかなりの割合で不確実なものも多く、学生がレポートなんかであちこちからコピペで切り貼りして来るというが、そんなものちゃんとした大人が一読すればすぐにバレるに決まっている。

一番大切なのは自分が大人になることを、一つ一つ段階を踏んで経験していくことだろう。その積み重ね、失敗もたくさんするし恥もかくが、それによって過ちを繰り返さないという知恵が生まれ、賢くなっていくのだと思う。それが「地頭(ぢあたま)」の良さであって、偏差値的な詰め込み教育でいっとき暗記した「情報」とは違う。情報はすぐ忘れてしまうが、経験を積み重ねてきた結果に得たことは意外と忘れないものだ。とはいえ40の坂を越えるとそれもどんどん消えていくような気がするが。
昨今のクイズや雑学ものをたまに見たりするが、どう考えてもネタ本というかクイズの解答のための「情報」しか見ていない連中が、したり顔で「知識」や「教養」があるかの如き態度をしているのを見るが、たぶん収録が終わったらそのほとんどを忘れるだろう。
では芸人に多いが「なになにオタク」系の連中も、やれ「キン肉マン」のなんとか超人だとか「ガンダム」の何の名前だ名台詞だとか言うが、狭すぎて恥ずかしいし、昔だったら30代を超えて衆人環境で話せる内容ではなかったろうに、と思う。
日本人は幼くなった、と思う所以だ。
今の日本で成人年齢を下げるという議論が真顔で行われるということにちょっと信じられない気持ちがするが、俺だけなんだろうか。
四半世紀前の自分が「成人」と言われたら「ちょっと待って下さい」と言うに決まっている。
何ら知識も経験もない自分が、いきなり大人扱いされ社会に放り投げられても困る。もちろんそこから何とかしてやっていこう、そういう気概はあっただろうと当時の自分を過大評価する自信はあるが(笑)、今の、この日本という国、社会で、18歳に成人年齢を引き下げるというのは「若い世代を守ろう」という意識と配慮に欠けているのではないかとさえ思う。
成人年齢を引き下げることによって、いったい誰が得をするのか、若者ほどよ〜く考えてみた方がいい。
税収が増えるからもちろん国家と官僚は喜ぶ。「大人だから」「自己責任」という美名(?)のもと、ローン件数やカードの発行枚数は激増するだろう。誰が喜ぶだろうか、すぐに解る。当然それらを悪用する詐欺も爆発的に増えることも容易に想像がつくけれども、その時はもう「大人の判断でしたこと」だから、と突き放されるだろう。
過去に一度導入され、さんざんな評判で中止された「サマータイム」の導入を今になって言い出す連中とか、まあ社会の趨勢や普通に世の中を見ていれば生活者として「?」と思うようなことを言い出す連中は、かなりの確率で自分の利益つまり「金」と結びついていると思った方がいい。
誰が得をするのか、どことつながっているか。そういうことはすぐにバレる、そのことは歴史が証明している。

「景気」対策のためにメディアは小金を持っている中高年を何とかして踊らせようとしている。いっぽうでこれから長く消費をして貰わないと困る若者を、とっとと「大人」に仕立て上げようともしている。
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
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